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2014年1月11日 (土)

意休の髭(「助六」関連)

「助六」関連です。
http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/cat23450716/index.html

Sukeroku5daimeikyu 1月2日から江戸東京博物館で始まった『大浮世絵展』にわくわくしながら出かけ、図版でしか見たことのない魅力あふれる浮世絵の現物を心地よく楽しんで来たのでしたが、ある作品が目に入ったとたん
「うわ、迂闊だった!」
と思わず掌で額を打ったのでした。
その作品とは、勝川春章の「中村仲蔵の髭の意休」です。
天明二【1782】年のこの錦絵、意休の髭が黒いのです。
そうだ、意休の髭は関羽髭だった。日本古典文学大系『歌舞伎十八番集』中の「助六」附帳【扮装と鳴り物についてのリスト(*9、p.438)】にも、ちゃんと
「意休・・・頬髭長さ一尺二寸位。関羽髭。」
と記されています。それが記憶によみがえって来ました。
いま演じられる意休は髭が白いので、全然気にしていなかったのです。
黒い髭の意休が描かれているのを目の当たりにして、ああしまった、なんでこれについて考えていなかったんだろう、と思ったのでした。

黒髭の意休にあらためて湧いた疑問は

・意休はいつから/なぜ関羽髭なのか
・意休の髭はいつから/なぜ白くなったのか

の大括りにして二つです。

なんでこんなことを考え始めたのか、といいますと、横浜の中華街にも関帝廟がありますけれど、そこに関羽は神として祀られていますから、関羽崇拝と意休の髭のあいだに何か関係があるのかどうかが気になりだしたことと、関羽髭といえば黒々とした印象があるのに、先述の通り。いま演じられる意休は髭が白いからです。そして、それが以前は必ずしも白くなかったことをあらためて知り、びっくりしてしまったのでもありました。


【意休の髭はいつから白いか】

で、なぜいまの意休の髭が白いのか、その謂れは、実はまだ紐解く鍵を何も見つけていません。
最初は黒かったのだ、というのを疑わないことにして、いつ頃から白くなったのか、について、錦絵だけをヒントに見て行きますと、大雑把なことだけはかろうじて言えます。
黒髭の意休を描いた古錦絵はネットで2件見つけただけで、春章のでないのは歌川豊国の寛政十一【1799】年の作で、当時の市川高麗蔵が演じている姿です。
http://ja.ukiyo-e.org/image/waseda/001-0455

春章のときの助六は五代目團十郎、豊国のときは六代目團十郎です。六代目團十郎は豊国の絵に助六姿を描かれた年の五月には亡くなっています。

七代目團十郎の助六を描いた三代目豊国(国貞でしょうか、四代目豊国となった人でしょうか)の錦絵については細かいことを知らずにいるのですが、同じ絵の中で三代目尾上菊五郎も助六の姿で対照されていますから、文政二【1819】年3月に團十郎が玉川座で、菊五郎が中村座で、それぞれ別に「助六」劇をかけていたときの様子をひとつにまとめたものなのでしょう。この絵の中で、意休の髭は白くなっています。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2012/1301jan/02/index.html

Sukeroku7daime_2

以上から、意休の髭が白くなったのは、七代目團十郎の時代(1800年以降)からなのではないか、と推測されます。
なお、嘉永五【1822】年になっても、どうやら髭が白くはなさそうな意休が描かれていたりします。河原崎座で演じられた舞台を描いたものです(国貞画)。
http://www.britishmuseum.org/research/collection_online/collection_object_details.aspx?objectId=780210&partId=1&place=42804&plaA=42804-1-2&page=1


【意休の髭はいつから/なぜ関羽髭か】

白くなった理由が分からないのはともかく、時期は1800年以降であることが明らかなわけですが、しかし意休の髭は白くなる前から関羽髭でした。
これが、いつから/なぜ関羽髭だったのか、を突き詰めてみたいのですが、こちらも確実なところは何とも言えません。

関羽はどうやら神として崇められているらしい、とは、江戸時代の日本人もある程度は知っていたかのようです。
神としての関羽すなわち関帝が神託を下す関帝霊籖(関帝のおみくじ)は、新井白石や滝沢馬琴が信じていたとのことです(*27 p.215、*28 p.78)・・・どのようなところで入手していたのでしょう?
ただ、関羽を神として祀る日本の関帝廟は、すべて明治以降のものです。日本では江戸時代まで関羽が神だとの認識は一般的ではなかったようです(*27、「はじめに」他参照)。

一方で、英雄としての関羽には人気があったらしく、出所を確認出来ませんが、足利尊氏も尊崇していたとの記述を見かけました。また戦国時代後半の武将で津軽藩の始祖である津軽為信は関羽に倣って黒い頬髭を長々と蓄えていたことで有名です。とはいえ、戦国期までの関羽人気がどの程度浸透していたかを知る術は、いまのところ私にはありません。
関羽他の英雄が活躍する三国志の世界は、講談的な語り物として、江戸後期には高い人気を誇るものになっていました。文化年間(1804〜1816)の講談上位三傑は『太平記』・『通俗三国志』・『源平盛衰記』だったそうです(*29 p.27)。
このうちの『通俗三国志』は、元禄四【1691】年に京都で初めて刊行されたもので、以後江戸時代を通して超ロングセラーだっただけでなく、安永年間【1770年代】には黄表紙となったり、天保以降絵本通俗三国志として出されるや明治以降も出版され続け人気を博したとのことです(*30他)。
もとの50巻から成る『通俗三国志』には別に朝鮮における関羽信仰を紹介した巻がたてられていたとのことで(*30、p.4)、これが日本での関羽人気にどんな影響があったか少し気になります。日本で関羽が際立って人気を得た背景には、こうした信仰の情報などもあったのではないかなあ、と疑いたくなるのですが、黒く長い髭、という姿が強いインパクトを持っていますから、ただ見た目だけでも人気を勝ち得ることが出来たのかも知れず、なんとも断言できません。

「日本人に於ける三国志とは」(*32)という記事には、図像としての関羽については
「日本に於ける関羽像は、黄檗僧が信仰の対象たる伽藍神としてもたらした関羽像、長崎から入った唐絵としての明清時代の肉筆の関羽像、小説に附せられた版画の関羽像、等々が一体化して江戸中期の寶暦(1751)以後に広まり、日本での肉筆関羽像画が作られ出すようになります。」
と記載されており、なおまた
「江戸時代は、知識人は「読むと見る」ですが、一般大衆は「見ると聞く(割注記載省略)」が中心」
と述べられています。
こうした記述から、漠然とではありますが、江戸時代の関羽人気は、二代目團十郎のころには確立されていたことが伺われます。

さて、二代目市川團十郎が、意休も出てくる助六劇を初演したのは、正徳三【1713】年です。このときの様子を描いたとされる絵が『近世奇跡考』という本に
「正徳三年始て助六の狂言をせし時の絵本をすかしうつしにて」
載せた、ということで見ることができます(*31、p.362)。
この絵では、意休は関羽髭かどうか、あまりはっきりわかりません。ただ、1799年の錦絵以降の意休の関羽髭に比べると、ずっと短いものです。まだ関羽髭ではなかったかも知れません
二代目團十郎は、今日では幻となってしまっている「関羽」という芝居(歌舞伎十八番に入っているが正体不明)を、また別にやっています。元文二【1737】年、助六初演から24年後です。このときの様子を描いたものがあれば二代目当時の関羽髭のイメージもはっきりするのでしょうが、残念ながら該当する絵は目にしていません。あるのでしょうか?
また、その後の意休の姿を描いたものも、1799年の春章作より古いものを見つけることが出来ません。
結局これも推測の域を脱することが出来ませんでしたが、関羽の肖像の定着経緯を鑑みますと、意休の関羽髭の定着は二代目團十郎が「関羽」を演じて以降のように思われます。
そしてそれがなぜ関羽髭でなければならなかったか、は、主観的に以下の仮説(というほどでもありませんが)を立てて、今後それを確認して行くのを楽しみにすることにして今は我慢したいと思います。

・二代目團十郎が(同時代人の嗜好同様)関羽を好んだ
・しかし「関羽」劇は(幻になってしまったくらいだから)あまり演じる機会がなかった
・そこで関羽像を二代目かそれ以降の團十郎が「助六」の中にも組み込みたく思った
・「助六」の中でひげを生やしたキャラクターは意休だった
・そこで、意休に関羽髭を生やさせることにした

・・・ほんとうは、どうなんでしょうね。


*9)日本古典文学大系98『歌舞伎十八番集』郡司正勝校注 岩波書店 1965年、1986年第17刷・・・なお附帳には意休の髭の色は指定されていません。この附帳自体は郡司氏が役者さんなどに聞いてまとめたものであり、色について口伝があったかなかったか、あったとすればいつからか、などについてはまったく情報源になりませんが、遠藤為春と木村錦花が大正14年にまとめた『助六由縁江戸桜の型』の意休の扮装にも髭を白とする指定はありません。なぜ白で当然か、というと、頭髪(鬘)は白の総髪としてあるからです。頭髪が白いのに髭が黒いということはない、という暗黙の了解です。意休の髭が白くなった過程で怪しいと思われるのは、したがって、頭髪についての指定ではないかな、と思っております。ちなみに、衣装も白が基調の指定になっています。これが、春章の錦絵の意休は全然白基調ではないのです。『近世奇跡考』(文化元【1804】年刊、吉川弘文館『日本随筆大成』6所載【昭和49年】)には正徳三【1712】年のものとされる二代目團十郎演じる助六の古い絵がありますが、ここに描かれる意休の衣装は奴侍風の素朴なもので、色は白ではなかっただろうと充分に推測出来るものです。

*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年 年表参照。ただし三代目豊国の錦絵では中央にひとり描かれた揚巻が二代目田之助ということになっています。実際には玉川座(團十郎)側の揚巻は菊之丞、中村座(菊五郎)側の揚巻は粂三郎でした。三代目豊国が描いた1819年の助六上演の3年前には、二代目田之助はすでに30歳の若さで亡くなっていたのでした。

*27)渡邉義浩『関羽 神になった「三国志」の英雄』筑摩選書0026 2011年

*28)山崎美成『三養雑記』天保十【1839】年刊 吉川弘文館『日本随筆大成』6所載【昭和49年】・・・関帝霊籖の入手先はどこかの関帝廟らしい、ということしか分かりません。著者も確かに走らなかったのかも知れません。

*29)川添裕『江戸の見世物』岩波新書 2000年

*30)上田望「日本における『三国演義』の受容(前篇)」2006年 金沢大学学術情報リポジトリ
    http://t.co/a8k8PwB714

*31)『近世奇跡考』文化元【1804】年刊 吉川弘文館『日本随筆大成』6所載

*32)「日本人に於ける三国志とは」 大東文化大学『漢学会誌』第48号(平成21年)からウェブへの転載の由。
    http://www.ic.daito.ac.jp/~oukodou/tyosaku/nanjyaina.html

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