« 拍手の習慣は無くせないのかなぁ | トップページ | 「テンペスト」・「ワルトシュタイン」等【12月6日(金)】第5回 大井浩明さん:ピアノソナタ全32曲連続演奏会~様式別・時代順のフォルテピアノ(古楽器)による~ »

2013年11月30日 (土)

ヴァーグナーのやったこと・・・「ラインの黄金」を例に

近代の作曲家は詩的効果より音楽的効果を、歌詞より音楽の調べの方をさき立てる。ワグナーのオペラは音楽と詩を調和的に結合しようとしたものといわれるが、主人はやはり音楽であり、詩はその引きたて役であるのに変わりはない。/詩がことばを通してこの現実と大地にしばられているとき、音楽はとくにバッハ以後、ことばから独立した、純粋で自由な、みずからの形式を発明し、空たかく飛翔するに至った。詩人が音楽を羨望するという事態が、かくて生じる。だがこれは主として近代のできごとであり、梁塵秘抄もそうであるように、かつては詩と音楽、ことばと音楽との関係は均衡しており、さらに古くは逆にことばの方が主人であったと考えられる。」(西郷信綱『梁塵秘抄』158頁、ちくま学芸文庫 2004年。原著は1976年発行)

洋楽に飛んでいるところが「?」になるでしょうけれど、西郷氏のこの論は日本の歌謡曲のことも踏まえた文脈で語られているもので、1970年代の音楽観としては日本で一般的だったものをよくまとめておられるのではないかと思います。

ここで「音楽と詩を調和的に結合しようとしたもの」だと言われいているヴァーグナー作品は、さて、本当に詩より音楽が優位に立ったものなのでしょうか?
あてられた詩を外国語として聴き取り、あるいは聴き取れずに無意味な人声の羅列として耳に入れている私たちには、たしかに音楽優位としてしか作品を享受出来ない側面が強く、またアマチュアがヴァーグナー作品をとりあげる場合も声楽ぬきで演奏するケースが圧倒的に多いかと感じます。
長大な『ニーベルングの指輪』四部作においては、全篇を鑑賞しきれるのも大変であるため、いっそうその傾向に拍車がかかっています。

最も短い『ラインの黄金』を観察してみたとき、それでもヴァーグナーがことばと音楽の間で試みたことが少しは見えて来るのではないでしょうか。
で、そのとっかかりになりそうなことだけ手短にとりあげてみたいと思います。

オペラ対訳ライブラリー(音楽之友社)『ワーグナー ニーベルングの指輪 上』(2002年)に添えられた高辻知義氏による「あとがき」によれば、『ラインの黄金」の詞(詩と言うよりこちらのほうが合っているでしょう)に施された工夫は、こういうことだそうです。
「古ドイツ語の言語感覚に根ざし、従来の尾韻に代えてここで初めて採用された頭韻の使用は効果をあげた。これは、歌詞中の1行または数行の中で、アクセントのある音節に同じ響きを繰り返して、韻律的効果と構造的まとまりを実現するもので、歌劇ではワーグナーの試みが最初だった。」
あげた効果の顕著な例としては、四部作の最初に当たる『ラインの黄金』の、これまた最初の、ラインの乙女ヴォークリンデの詞に解説が添えられています。

 Weia! Waga!
 Woge, du Welle!
 Walle zur Weige!
 Wallala weiala weia!

これは、『ラインの黄金』の単純から複雑へと進む前奏に引き続き、
「wの頭韻を重ねながら、人間言語が形成される過程を模してみせる」
のだと説明されています。

そもそも『指輪』四部作は、場面場面の大物・小物から登場者の心情に至るまで「『指輪』全曲では100余にものぼる示導動機が少数の根本的な形から生成発展する体系を作り、関連し合って全体のまとまりをも作り出している」(上記対訳本あとがき)ことで名高く、鑑賞にはそれらの示導動機=ライトモチーフが何を表しているかへの知識が欠かせないと考えられています。なぜなら、『指輪』四部作中では終始「歌詞に対しては、肯定的ばかりでなく、批判的、否定的なコメントも【補:ライトモチーフによって】入ることがある」(同上)からで、ライトモチーフがシンボライズしたものを具体的に知ることで、たとえ詞が完全に分からなくても音楽から情景が出来ると信じられているからでしょう。

『ラインの黄金』について見るならば、とくに最終部分がこの点では興味深いものがあります。
管弦楽として独立して演奏される際には「神々のワルハラ(ヴァルハル)への入城」と呼ばれる『ラインの黄金』幕切れ部分は、器楽だけで演奏されても荘厳な魅力でいっぱいです。
最後の226小節が該当場面で、まず雷神ドンナーが空気を浄める雨を降らせ(35小節間)、次いで陽の光の神フローによって虹の橋が架けられ(23小節間)たところで、虹の向こうにワルハラの動機が壮麗に響き始めます。
みごとなまでに、「これがドンナーの動機だ」・「これが虹の動機だ」とそれぞれ明確に分かるように配置されていて、虹の動機の背景で光がひらひらしている合間からワルハラの動機が湧き上がって来るという、音楽が勝った構造になっています。器楽のみで演奏すれば、これだけで成り立ってしまいます。(『ラインの黄金』のライトモチーフを閲覧出来るサイトはこちら http://www.rwagner.net/midi/e-rheingold.html

ところが、この部分には、実は器楽には書かれていない重要な音の線があります。
ひとつは、自分たちが見張り番をしていたラインの黄金をワルモノに奪われてしまったラインの乙女たちの声で(最終から数えて71小節目以降に現れる)、これがなければ、ワルハラに入城する神々の四部作中での本当の位置づけ、その後の運命が浮かび上がってきません。ただし、ラインの乙女たちの声で歌われる動機は歌曲のように分かりやすく、もし何らかの方法で補うなら、『黄金』最終部の意味は器楽だけでもかなり保つことが可能です。(とはいえ、私は補った演奏例を聞いたことがありません。)
もうひとつは、ワルハラに向けてかかった虹の橋を見た大神ウォータンの詠嘆(最後から143小節前に始まる)で、

Abendlich strahlt der Sonne Auge;

で始まる47小節にわたる箇所は 、ウォータンのことばが器楽とまったく対等の一本の太線であるかのように節付けされています。しかも、その述べている意味合いは、器楽からだけでは判明しないものです。けれども、神ともあろう存在が感銘に打たれきっているそのさまは(残念ながら外国語のほとんど不自由な私には強く主張出来る権利はないのですけれど)ことばへの理解ぬきに味わえるものではありません。ウォータンの歌う線の起伏は完全にことばと同化しています。・・・これは、聞いて頂くしかありません(この例では歌いかたがちょっとリアル過ぎかなと思いますが)。

http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/AbendlichStrahlt.mp3
WOTAN: FERDINAND FRANTS
(フルトヴェングラー/イタリア放送響1953年ライヴ EMI 9 08164 2)

すなわち、こんな一ヶ所をとっただけでも、ヴァーグナーは西郷氏の言う「かつては詩と音楽、ことばと音楽との関係は均衡しており」のところまでは回帰したかったのだろう、そのための精一杯を試みたのだろう、という面が浮き彫りにされて来るように、私は思っております。

あらためて詞をあげておきます。(訳:高辻知義〜語彙の順は原語と訳で一致していませんのでご留意下さい。)

Abendlich strahlt der Sonne Auge;
(夕暮れに太陽の瞳が輝いている。)
in prächtiger Glut prangt glänzend die Burg.
(城は見事な光の中で誇らしく聳える。)
In des Morgens scheine, mutig erschimmernd,
(暁の光を浴びた勇ましい姿は)
lag sie herrenlos, hehr verlockend vor mir.
(まだ主を持たず、気高く誘う気配をわしに見せていた。)
Von Morgen bis Abend, in Müh' und Angst,
(朝から夕べまで、辛苦と不安に彩られて、)
nicht wonnig ward sie gewonnen!
(城の獲得はこころ楽しい作業ではなかった!)
Es naht die Nacht: vor ihrem Neid bietet sie Bergung nun.
(闇が忍び寄る。夜の嫉みからの隠れ家を城は与えてくれる。)
So grüß' ich die Burg, sicher vor Bang' und Grau'n!
(かくて、わしは城に挨拶する。不安と恐怖からの安心を覚えて!)
Folge mir Frau: in Walhall wohne mit mir!
(さあ、ついておいで、妻よ、ヴァルハルに一緒に住まおう!)

詞(詩)を歌う声と管弦楽との兼ね合いについては、『トリスタンとイゾルデ』の有名な終曲(「愛の死」)も、このウォータンの場面とまったく同じ問題を持っていて、むしろそちらのほうがよく知られているだけ例としては分かりやすいかも知れません。「愛の死」でもイゾルデの歌う太線は、管弦楽側にはほとんど出てきません。それにもかかわらず、「愛の死」は慣例的にイゾルデの声なしで管弦楽だけで演奏される機会が・・・最近は知りませんが30年ほど前くらいまでは・・・けっこう多くありました。
いまは、場面場面をよく見て行くとこんなことがある、と例示するにとどめます。

『ラインの黄金』全体の構成を眺め渡しますと、もっと面白いことがあります。
(面白い、と思って頂けるならば、ですが。)

『ラインの黄金』が以下のような4場からなっているのは、諸書にある通りです。

第1場:ラインの乙女たちに冷たくあしらわれたニーベルング族の醜男アルベリヒは、乙女たちの守っていたラインの黄金を奪ってしまう

第2場:天上では大神ウォータンが美の女神フライアを人質に出して巨人に城を築かせている。城が出来上がった暁にはフライアを取り戻したいが、身代金の持ち合わせがない。火を司る半神ローゲが語るラインの黄金の話に飛びつき、それを手に入れようと、ローゲを案内に立てて、アルベリヒがいるニーベルングの地下世界へと下って行く

第3場:ラインの黄金で造った指輪の魔力でニーベルング族を支配したアルベリヒは弟ミーメが造った隠れ頭巾(これをかぶると姿を消したりいろいろなものに変身したり出来る)をもミーメから奪って得意満面だったが、訪ねてきたローゲの計略にハマって、隠れ頭巾で小さな蛙に変身したところをウォータンにつかまり、天上まで連行される

第4場:天上に連行したウォータンはラインの黄金を貢がせた上にアルベリヒから指輪まで奪い取り、貢がせた黄金をフライアの身代金に充てて城を造った二人の巨人たちに渡す。巨人たちはウォータンの手放したくなかった指輪をもせしめたが、アルベリヒによって指輪にかけられた呪いで巨人同士は殺しあいになる。巨人たちの諍いを目撃したウォータンら神々は指輪の鈍いに震撼するものの、なんとか無事に手に入れた城に、虹の橋を渡って入って行く

この4つの各場は、一幕ものである分色合いが強まっていると言えるのでしょうが、それぞれに他の場と明確に異なる際立った特徴があります。ちょっと極端な物言いになっているのはご容赦下さい。

第1場は全体がラインの水流を表す動機一色で貫かれています。
http://www.rwagner.net/midi/rheingold/e-m003.html

第2場は天上の神々が主要登場者であるため旋律的ですが、まとまった歌らしいものが聴こえません。(従来のオペラのレチタティーヴォ・アコンパニャート的)

第3場は地下のニーベルングの世界で、ニーベルングの鍛冶の動機が頻繁に聴こえますが、それが支配するというのではなく、登場者の語りの色合いが強くなっています。(従来のオペラのレチタティーヴォ・セッコ的)
http://www.rwagner.net/midi/rheingold/e-m033.html

第4場は、最も歌らしい歌が支配することの際立つ部分になっています。

こう記しますと、第4場だけが「歌謡的」なイメージになってしまいますが、そんなイメージを持ってしまうと誤りでしょう。それぞれの場の特徴は特徴として、実は声のパートについては全篇が「語り」一色だと捉えた方が、『ラインの黄金』の持っている像はよく見えて来るのではないかな、と感じます。

まず、従来のオペラのような、独立型のアリアは全く存在しない、とは、言うまでもないことです。
冒頭でラインの乙女たちに与えられた幾つかの旋律にしても、最終第4場のエルダによるウォータンへの警告の歌、旋律的なドンナーの歌にしても、それらはリート(歌曲)的で規模の小さいものであり、場面の輪郭の一部を音楽的にくっきりさせる働き以上のものを持ってはいません。

第2場や第4場で歌謡的に聴こえる神々の声も、よくよく聞けば「語り」の一部であって、これに似た例で思い浮かぶのはバッハ「マタイ受難曲」でイエスにつけられた声の線ではないかな、と思います。

配役の中で、「歌」的なキャラクターと「語り」的なキャラクターがうまく書き分けられていて、後者は黄金を奪ったアルベリヒと火の神ローゲが代表者です。とくにローゲは第2場以降のすべての場面で「語り」要素を最も全面に押し出しています。また、大神ウォータンの心理を註釈する役割を持つと見なせる妻の神フリッカも、ウォータンに寄り添うところでは「語り」要素を色濃く見せます。

アリアに当たるものがまったく無いわけではありません。
ところがまた興味深いのは、アリアと呼んでもよいような歌を持つのは、第2場のローゲ(ラインの黄金が奪われた経緯をウォータンに物語るとき)だったりアルベリヒ(第3場でニーベルングを支配したことを自慢するときや、第4場で指輪に呪いをかけるとき)だったり、と、「語り」キャラクターのほうなのです。そしてまたそのアリアが全く旋律的ではありません。そのかわり、上に見たウォータンの箇所と違って、これらにはオーケストラからのダイレクトな音の補強が多めにあり、伝統的なアリアの書法となっています(Dover版スコアでは、ローゲ=p.121〜p.126、アルベリヒ=第3場p.190〜p.196、第4場p.237〜p.242)。際立った旋律的特徴を持たせないことで伝統色を弱めておきながら、これらの箇所では従来のアリアの書法を姑息に(!)守っているところが興味を引きます。

すなわち、『ラインの黄金』においては、音楽を用いる以上、「歌謡的」な役と「俳優的」な役とを書き分け、取り混ぜてメリハリをつけており、しかもオペラの伝統業はむしろ「俳優的」な役の方に持たせて音楽的なものと語り的なものとの境界をぼかしているのではないか、と思われるのです。
そして全篇は「語り」で貫く。それにより、オペラではない演劇同様に、劇の空気が途切れないようにしている。ただし、「語り」が音楽に寄り添い得るようにするため、詞は徹底して韻文的に練りあげて、音楽を付けやすくしているわけです。

このあたりの特徴からして、ヴァーグナーの、とくにこの『ラインの黄金』を含む指輪四部作は、やはり、ことばにも傾注して鑑賞出来るようにしたら、もっともっと本来的な面白さが見えて来るのではないかなぁ、と、そのように考えている次第です。

なんか、ゴテゴテしてしまってすみません。

|

« 拍手の習慣は無くせないのかなぁ | トップページ | 「テンペスト」・「ワルトシュタイン」等【12月6日(金)】第5回 大井浩明さん:ピアノソナタ全32曲連続演奏会~様式別・時代順のフォルテピアノ(古楽器)による~ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ヴァーグナーのやったこと・・・「ラインの黄金」を例に:

« 拍手の習慣は無くせないのかなぁ | トップページ | 「テンペスト」・「ワルトシュタイン」等【12月6日(金)】第5回 大井浩明さん:ピアノソナタ全32曲連続演奏会~様式別・時代順のフォルテピアノ(古楽器)による~ »