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2013年8月31日 (土)

鷗外の「オルフェウス」(3)

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「F君の言う所は頗る尋常に異なるものであった。(中略)早くからドイツ語を専修しようと思い立って、東京へ出た。所々の学校に籍を置き、種々の教師に贄を執って見たが、今の立場から言えば、どの学校も、どの教師も、自分に満足を与えることが出来ない。ドイツ人にも汎く交際を求めて見たが、丁度日本人に日本の国語を系統的に知った人が少いと同じ事で、ドイツ人もドイツ語に精通してはいない。それから日本人の書いたドイツ文や、日本人のドイツ語から訳した国文を渉猟して見たが、どれもどれも誤謬だらけである。」(森鷗外『二人の友』)


本居長世が主催しようとした国民歌劇会から森鴎外が依頼を受けて最初に訳した『オルフエウス』は、
「出来上がつて協会に送つたところが、現に協会で用ゐてゐる楽譜に合はないさうであつた。」(*8 346頁)
のでした。
楽譜に合わない、とは、どういうことだったのでしょう?

楽譜に合わない、ということに即して考えられるのはふたつでしょう。
・訳詞のリズムが合わない
・テキストそのものが異なっている
そのいずれかであるか、または双方である。

また、いったいどうしてそんなふうになってしまったのか、にも想像されることがあります。
・鷗外には歌のリズムに即した訳を行なうセンスがなかった
・いや、テキストそのものが異なっているのだとしたら、楽譜の詞のつくりが、そもそも鷗外が翻訳に使った手持ちのリブレット(鷗外が留学時代の鑑賞時に買い帰った台本記載の小冊子、以下「ライプツィヒリブレット」)と違うシロモノだった
これもまた、いずれかであるか、または双方である。

まあ前回末尾でテキストの問題の方らしいと見ておいたのですが、念のため、最初の翻訳が鷗外の能力のせいで楽譜に合致しない・歌えないリズムになっていた可能性があるのかどうか・・・まずは訳した時期の鷗外のリズム感覚を見ておきましょう。

「鷗外は・・・楽器を習うということは全くしていない。彼自身、楽譜を見て歌うということはできなかった」(*2 頁番号41)のだけれど「鷗外には幼いときから漢詩文や和歌で培った豊富な語彙と言葉に対する鋭いリズム感があった。翻訳家としても熟練していた」(*1 149頁)と、「鷗外版」復元に最大の功のあった瀧井敬子さんは仰っています。それを信用するなら、最初の訳にしても、鷗外が歌えないリズムで翻訳してしまったなどということはなさそうです。

全集第十九巻(*8)に収録されている鷗外の訳詩をざっと眺めると、リズムについて面白いことに気づきます。
とくにまず「於母影」(*8 1〜68頁 明治22【1889】年)ではおもにヨーロッパの詩を
・意〜原作の意義(=ことばの意味)による
・句〜原作の意義及び字句(=語彙そのもの?)による
・韻〜原作の意義及び韻法(=韻の踏みかた)にようる
・調〜原作の意義・字句・及び平仄(=イントネーション)韻法による
という4種類の方法で訳する試みをしています。
イントネーションもリズムも一致させる「調」の方法に依った訳は2つありますが(レーナウ「月光」、バイロン「曼弗列度(マンフレッド)」)、2つとも漢詩として訳しています。最初の2行に元の詩も長短の記号を付して併記されているのも愉快ですが、なにより仮名になっていないところに鷗外の悩みが出ているようで興味を引かれます。他は平家物語かららしい「鬼界島」ほか二つが漢詩になっていますけれど、こちらは「意」の方法のようです。これら以外はみんな七五調なり七七調といった日本的韻文になっています。このころの鷗外はまだ二十代後半です。

他の詩作も含めほとんどがずっと、七五調などの日本の伝統的韻文なのですが、早い例では明治22年の「野ばら」が伝統を破っています(*8 459頁および643頁)。これはもともと、シューベルトやウェルナーの歌曲にもなっているゲーテの有名な詩を訳したもので、ひとり さける のばらという具合に3音×3×4の連が三つあります。

とくに訳詩には五七調などの伝統的なものではない、なにか違ったリズムを用いるべきなのではないか、との考えを、彼は早くから持っていたのではないかな、と感じます。それが漢詩としての訳、333というリズムでの訳という変則を生み出したのかも知れません。

でいながら、破調はなかなかあわられません。レーナウの詩を訳したらしい初出の分からない「三騎」が興味深く(「うた日記」 *8 269頁)、八六のリズムの繰り返しになっています。年代が分からないのが惜しい気がします。

訳詩ではありませんが、「うた日記」の中で年代の分かるものとしては「けし、人糞」(明治38【1905】年、鷗外43歳)が四五/四七/四七とやや破調になりますが、まだ五七調が少し変化しただけのような感触です。この年前後に仮名書きでも破調がいけると確信を持ち始めたのでしょうか、前明治37年の「夢か現」はもっと自由で、九/七/六/六/十/十一/十一・・・という具合です。けれどとにかく、そういう伝統を脱したリズムのものはそんなに多くはありません。

これが、「オルフエウス」第二稿をも収録した『沙羅の木』になると、訳詩も創作詩も俄然リスムが自由に、あるいはリズムから自由になります。大正四年に刊行されたこの集の中に収められている明治期の詩はまだ七五調等の伝統的韻文の範疇ですが、大正三年作のものになると、リズムだけでなく内容も自由度が高まり、後年の西脇順三郎につながるのではないか(私的感情的目線ですが)と思われるようなものが目立ちます。たとえば訳詩の例で(もとの詩はどんなものなのでしょう?)、語彙はまだ硬いかもしれませんが、こんな具合。

  是をストラアルズンドの処女二十有七人の墓となす。
  皆某の翻訳に由りて、此詩人の近業を読み、
  感じ易き青春の心、
  一人の能く抑制するなく、
  或は自ら縊れ、或は水に投ぜるなり。
  別に一人ありて詩人に奔れり、其長椅子の上に。

  (「以碑銘代跋」 『沙羅の木』所収 *8 384頁)

・・・ずいぶん脱線してしまったのでこれ以上例を引くことはしませんが、「オルフエウス」訳を持ちかけられた時期の鷗外は、詩のリズムについての自由な発想に完全に覚醒していて、もはや外国語詩を漢詩で訳さずとも済むようになっていたはずです。
すなわち、大正二年に翻訳を依頼された、「オルフエウス」という歌われる詞に、鷗外はどう取り組むことにしたのか。
訳詩のリズムの変遷からして、この時期はもう、日本的韻文のリズムにとらわれることはなかったと断定して良いでしょう。

ところで、「楽譜を見て歌うということが」全く出来ないのでしたら、その後楽譜に合わせた第二稿の翻訳を手掛け得なかったのではないか、との素朴な疑問があります。少なくともどんなリズムで書いてあるのかを楽譜から理解出来なければ、楽譜に合う翻訳をしなおすなど不可能なのではないでしょうか? そのあたり、瀧井論文ではちょっと分かりにくいので、若干の追跡をしてみます。

確認すると、最初の訳が合わないと言われて、鷗外自身が楽譜を取り寄せ、楽譜を見て
「なる程、彼と此とは広略頗る趣を異にしてゐて、合う筈がない。」(*8 346頁)
ということを認識しています。
彼は楽譜が読めたのか読めなかったのか。
鷗外自身が
「私は謡つて見ることが出来ぬ」
と、この発言のあとのほうで言明しているのですけれど、それは楽譜を全く理解出来なかったということにはならないでしょう。

少なくとも音符ひとつが1シラブルに対応するらしい、くらいの最低限の推測をする理解力はあったのではないかと思われます。それは鷗外の同じ発言の中から伺うことが出来ます。

「私は第一稿でも第二稿でも、大体に於いて原詞の一つづりを一音にした。唯破格は所謂間投詞を以て起る詞で、唯一つの原音が『あな』とか『あはれ』とか云ふ数音になつてゐる位のものである。私の翻訳はいつも伸びると云つて冷かされる。(中略)併しこん度は伸びもせねば縮みもしない。」(*8 346〜347頁)

これは瀧井論文がリズムの読み取りに際し拠り所としている発言ではないかと思っているのですが(*2 頁番号37〜42、本論文のクライマックスだと感じております)、彼が明らかに音符とシラブルの対応関係を認識していたことを示す発言です。

鷗外が楽譜を見てリズムの判断をすることが出来た傍証は、同じ瀧井論文にも載っている横浜市歌の作詞事情(明治42年に鷗外が作詞した。*2 方法については頁番号39も参照)にあるかと思います。

「東京音楽学校から横浜開港五十年の唱歌を作つてくれと托されたから、其方で譜を新しく先へ拵えて貰つて其れへ嵌めて歌を作つて見たいと云つた処、南能衞教師の手に依つて譜が出来上がつたから来て貰ひたいと云ふ案内があつたので、早速同校へ出張して譜を見、曲を聞くと、七五、七三、八七、七七、七七、七七、七五、七三、八七、七七と云ふので、七七が多く、七三、八七などと云ふ変つた調子もあつた。」(*8 482頁)

つまるところ、横浜市歌のときには、言葉をつける前に音符を歌うか演奏するかを聴いてリズムを把握したのでしょうが、録音がない時代のことです、超人的な聴覚的記憶力があったのでなければ、聴かせてもらって把握したリズムはあとで楽譜に書かれた音符を見て思い出すことが鷗外には出来たはずだと捉えるのが素直であるように思います。

このように、訳業にあたる鷗外は、前提として、詩・詞に対しそれまでの日本の伝統にとらわれないリズム意識を持っていたし、そのリズムを歌われるべき音符に言葉を合わせることが出来る人物だった、と言って間違いがないでしょう。センスがなかったとの仮想は成立しません。
そこで、最初仮定したうちの「訳詩のリズムが合わない」状態で第一稿が出来上がっていたとは考えにくいことになります。

すると、問題はテキスト側にあったのではないか、と、絞られて行くことになります。
そもそも、鷗外が訳にとりかかる際に、依頼者が鷗外手持ちの「ライプツィヒリブレット」を使うので良いと判断した(判断したとの明言はどこにもありませんが、結果として鷗外は楽譜を見ず「ライプツィヒリブレット」だけで作業を始めたのですから、依頼者の判断と了解が前提となっていたことは否めないでしょう)のが不可解です。

全体としてその論ずる所を非常に素晴らしいと思う気持ちはずっと変わらないものの、瀧井論文「(第一稿では合わないことを)本居たちが即座に判断が出来たのも納得がいく(*2 頁番号37)には私は少々納得がいきません。即座に納得ができたのなら何故、本居(長世)たち相談者が鷗外の所に「合わない」と言いに行くまで1ヶ月もの時間が空いてしまったのか、首を傾げざるを得ないからです。即座に判断出来たのであるなら、その裏付けとなる記述(本居でも誰でもいいのでドイツ語をそのように読み取れる人物が国民歌劇会にいたのか、等)に巡り会いたいところです。かつ、それほどにドイツ語を解し得る人がいたなら、当初からでもそのあとでも、少なくとも鷗外とその人物が密接に連繋しながら作業をし、実のある成果をあげ、実演にもこぎ着けていたのではないか、と感じます。

・・・と、ちょっと鷗外への思い入れが出てきて感情も入り始めてしまっているようなので、「オルフエウス」のテキストそのものの問題についてはまたあらためます。


*1:「森鷗外訳オペラ『オルフェウス』グルック作曲」 解説・校訂 瀧井敬子 紀伊國屋書店 2004年

*2:瀧井論文PDF http://ci.nii.ac.jp/lognavi?name=nels&lang=jp&type=pdf&id=ART0008058625

*8:『鷗外全集』第十九巻 岩波書店 昭和48年

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