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2013年7月15日 (月)

モーツァルト「ジュピター」【自筆譜を読む(1)】

(1)モーツァルト「ジュピター」(2)ハイドン「告別」・(3)ベートーヴェンの協奏曲 

(各注釈は末尾に掲載しています。)

数少ない手持ちのファクシミリを通じて、作曲家たちが考えたことを垣間見たいと思います。

まずは、モーツァルトの「ジュピター」からまいります(※)。


モーツァルト生誕250年の2006年には日本の民放でもその天才を称える番組がいくつか放映されました。
そのひとつで「ジュピター」交響曲の自筆譜ファクシミリからの数頁を放映したのでしたが、それを眺めた人が
「モーツァルトの楽譜にはミスがありませんね」
云々したのに対し、ファクシミリを持参した音楽家さんがあっさり
「そうですね」
と相槌を打ったので、私は深い失望を味わったのでした。

最近ではNHKで平成24年に放映した『名探偵アマデウス』で
「ジュピターはモーツァルトには珍しく書き直しのあとが多い」
と紹介されたこともあり、モーツァルトでも<手直し>をした[!]ということが日本のファンに認識されていることを幾つかのブログ記事で確認出来ます。(*1)
<手直し>はしかし、珍しく多いのではありません。
5作品に限られるとはいえ私自身モーツァルトの自筆譜ファクシミリを好んで覗き見ましたが、初期の弦楽四重奏を含め、彼が<手直し>を加えていないスコアには、 不幸なことに[!]1冊も出会えませんでした。新モーツァルト全集をめくっても、<手直し>の加わった自筆譜の写真をわりとたくさん目撃することが出来ます(*2)。

いまは「ジュピター」の楽曲分析だの解説だのは手に余ることですので(*3)、専らモーツァルトが「ジュピター」上で行なった<手直し>に注目します。
音楽作品はとくに、楽譜が印刷譜となり、演奏され、録音となって、ついには前提となっていたもの、背景にあったものが全て隠れてしまいます。究極は耳の印象や心の中だけのイメージにいとも簡単に集約されてしまうからです。近年は絵画作品は創作過程を目で確認出来る機会が増え、鑑賞者は真相にいくらかでも近づくことが可能になりましたけれども、音楽はまだまだです。このことを実感するため、<手直し>に注目するわけです。

映画「アマデウス」には、作品が書き上がらず
「楽譜はどこにあるんだ!」
と詰め寄られたモーツァルトが、皮相な笑いを浮かべて自分の頭を指さし
「・・・ここに。」
と言ったシーンがありました。
こんなシーンが生まれるほどに、モーツァルトが楽譜を訂正無しに書いた、それは書く前に頭脳にすべてが存在したからだ、との迷信がいまだにあるように感じています。
ですが、そうした迷信が生じたのはいつどこからなのか、を、今は確認しきれません。少なくともアルフレート・アインシュタインは一切そんなことは述べていません(*4)。

書き直しがどれほど多かろうと、それが作曲家の真価を貶めるものではありません。
むしろ、<手直し>を通じて、私たちはその人がどのように努力したかを親しく知ることができます。<手直し>は、天才ならば天才たる由縁がどこにあるかを知る拠り所ともなります(*5)。

能書きはこれくらいにします。
携帯電話での写真で大変申し訳ないのですが、「ジュピター」中でモーツァルトが行なっている訂正の主立ったものを、どうぞご覧下さい。それぞれの<手直し>の意味については簡単に記します。意味の捉え方に誤り等ありましたら、ご覧になった方からご指摘ご指導を是非頂きたく、あらかじめお願い申し上げます。
以下、異様に縦長になってしまいますがご容赦下さい。
演奏の引用は、C.Hogwood/The Academy of Ancient Music ”Mozart The Symphonies" disc16(L'Oiseau-lyre 452-496 2)のものです。

【第1楽章】
24小節〜響きを再考したのでしょう、ファゴットに与えようとした「ドミソミド」を消してホルンに持って行きました。

2013071423490000

第1楽章から1

92小節〜シンプルに考えていた第1ヴァイオリンを抹消、細かくきらびやかに変更しています。

2013071423500000

第1楽章から2

131小節〜このあとの厚みを印象づけるために、オーボエ・ファゴットとともに第1ヴァイオリンにも与えようとしていたEs-G-C-As楽句をヴァイオリンからは削除。オーケストレーションの整理は第3楽章28〜29小節でのファゴットの抹消にも見られます。

2013071423510000

第1楽章から3

272小節〜発想としてはFbと書くのが間違いではないバスですが、後続の進行を考えて異名同音のEに書き直し。平均律的発想では音響的にはなんの差もないのですけれど、わざわざ書き直しているのは、彼が平均律的発想などしていなかったことを裏付けるご同時に、平均律的発想が浸透しつつあったことをも示しているのではないかと思われます。同類の修正は第3楽章9、11小節のファゴットにもあります。

2013071423530000

【第2楽章】
25葉目、92小節以下の発想をまったく変更するため抹消、現行のように変更したものを26葉目に25葉目裏面の楽想に続くよう作曲し直しています。この書き直しは全体の作曲をいったん終えてから、そうでなくても最初の三楽章を作曲してから行なわれた、とみなされています(*5  解説日本語訳53頁)。上から25葉目表、26葉目表、25葉目裏

201307142356000020130714235700002013071423560001

第2楽章から

【第4楽章】
このフーガ楽章は全体の書き方から別に草稿があってそれを筆写したものではないかと推測されています(*5 解説日本語訳54 頁)。その最も明確な証拠は83小節目に見られるファゴットの誤記の消去です。・・・フーガに取り組むに当たってモーツァルトが作曲の万全を期したことの現れなのでしょう。

2013071500040000

第4楽章から1(すみません、引用箇所を間違えています。)

もうひとつ筆写ミスに起因するかも知れないのは121小節の第1ヴァイオリンで、連桁の16分音符を書いてしまってから(deeaに見える)、書き直すスペースがないため音符の下に正しい音名をdchaと補っています。

2013071501190001

第4楽章から2

草稿があったとしても、モーツァルトにとってはそれで終わりではなかったと判明する修正もあります。

72小節のオーボエは、最初、第1と第2でCのオクターヴをとるように書かれていました。が、重要な音程であるFisを吹くのはフルート1本です。こちらの補強をした方が、オーボエの音域としても、全体の響きとしても、安定すると判断したものと思われます。

2013071423590000

もう一ヶ所、196小節のバスは最初は下降音型で発想されていたのではないかと思われますが、それを抹消して現在聴くことの出来るものに変更しています。

2013071500000000

以上、大きく目立つところを拾ってみました。


*1:たとえば
   http://d.hatena.ne.jp/bravi/20120826/p1
   http://dainashibekkan.cocolog-nifty.com/music/2012/01/201211841-7a98.html
 とくに後者の、
「(第2楽章19小節目の)突然に影がさす部分の挿入は、モーツァルトの天才のなせるワザで、自然とスムーズに書いたのだろうと従来言われていたが、自筆譜の発見により、必ずしもそうではないことが分かってきた、とのことで、自筆譜の写しを見せてくれた。この部分、実は何度も書き直した跡があるのだ。/千住明は、ここについて、『自分は、サッサと書き飛ばすような作曲家ではない、との自己主張を感じる』と言っていた。」
 と記した部分は、千住さんの感想はともかくとして(感想自体はその通りだと思いますので)、数点気になります。自筆譜の発見、とありますが、ジュピターの自筆譜は来歴が比較的はっきりしていて、「発見」されなければ分からなかった事実はありません。(1841年の目録にこの自筆譜の記載がある由。ブラームスが一時期所有していたとの話も別に見かけましたが、40番について以外は確認出来ませんでした。いったんポーランドに極秘裏に隠されたのは1941〜1944年で、以後1977年まで行方不明ではありました。自筆譜研究がその後初めてなされたのなら「必ずしもそうではない」は1977年以降に分かったことになりますし、ザスロウの 1989年著書まで<発見>を待たなければならないことになります。)
 たしかに「ジュピター」研究の進展はこれ以後であるような記述が、 Bärenreiter原典版スコア【2005年、ISMN M-006-20466-3、XIX頁】の解説にはあります。1957年に新モーツァルト全集上の校訂を完了したロビンズ=ランドンは自筆譜を写真版でしか参照出来なかったようですから(39番について前掲解説が述べているところですが、41番についても当てはまるものと読んで差し支えなさそうです)、書き直しの痕跡について必ずしも全容は掴めなかったかも知れず、したがって発見云々はそれはそれでもよいとすべきなのかも知れません。
 が、それで あってもなお、上の記述の該当箇所、すなわち第2楽章の19小節目周辺には、書き直しのあとはありません。インクの用いかたから見ると、少なくともヴァイオリンとバスのラインは最初からきっちり決まっていたことが読み取れます。むしろ、他のパートもきっちりと書かれているが故に、校訂上は彼の書き記した fpをどう読み取るか問題提起しているくらいです(新全集第12巻 通し番号で493頁)。
 また、基本的に書き直しが「何度も」されていることは、他の手稿譜も含め、ありえません。紙が耐えられないからです。
 おそらく伝言ゲーム的な聴き取り問題に起因するところが大きいのでしょうけれど、ライブラリで録画を見て確認したいところです。

*2:新モーツァルト全集は幸いにして現在web上で見ることができます。
   http://dme.mozarteum.at/DME/nma/start.php?l=3 (日本語表記です。)
   http://mozarteum.blog89.fc2.com/
個人的な印象では、それでも紙ベースでの閲覧の方が便利です。購入するとけっこうがさばりますが。

*3:ニール・ザスロー/ウィリアム・カウデリー編『モーツァルト全作品事典』(邦訳2006年 音楽之友社、264〜270頁参照。原著は1990年)

*4:アルフレート・アインシュタイン『モーツァルト その人間と作品』浅井真男訳 白水社 1961年、新装復刊1997年 特に194頁からの「8 フラグメントと創作過程」参照

*5:Bärenreiter Facsimile Wolfgang Amadeus Mozart Sinfonie in C KV 551 »Jupiter« (2005年刊 ISBN 3-7618-1824-6)
解説の日本語訳46頁
「モー ツァルトの具体的、実際的な作曲目的や芸術的指針については、学問的研究に基礎を置いた認識がまったく不足している。/《ジュピター・シンフォニー》につ いて、ちまたに氾濫しているモーツァルト関連書の大部分は、循環論法を用いた仮定、推定、空理といったものが”避けがたい特徴”になってしまっている。 /(中略)たとえば、この作品が交響曲ジャンルで遺言のようなものだとして作曲されたという私論、ドイツ音楽の伝統を継いだ終楽章についての不当な協調。 それどころか、数音にまで削減された小さい素材ストックが、この作品全体を支配しているという主張まである。/音楽史、文化史的なつり上げや、エソテリックな作品構造の秘密が、この作品のまったく衰えることのない不変の魅力の基礎になっているのではない。その魅力は作品自体から生み出されるもので、計り知 れないほど豊かな音楽的ゲシュタルト、他にない詩的なキャラクター、言葉では表せない美しさなどなのである。」
この指摘には*2のザスロウの記述でさえも当てはまってしまいますし、日本人が出している書籍の記述も該当してしまいます。素直な問題提起ながら、じつに難しいものだなぁと感じます。

※ モーツァルトは全作品を追いかけようと思っていましたが、いま、ウィーンに住むようになり始めたところで中断しています。ザルツブルク期はいち おう終わっています。『モーツァルト全作品事典』が容易に入手出来るようになった現在、見直したい点が多々ありますが、アマチュアの主観の方が当たらずと 言えども遠からずだったりすることもありますから、冷やかして頂けましたら幸いです。
http://ken-hongou.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_4966.html

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