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2013年3月14日 (木)

道具とご贔屓:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(6)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


演劇でも舞踊でも奏楽でも、時代を超えて演じられるものには
・それが生まれたとき以来の方法
・通過してきた時代の趣味の堆積
・転機を乗り切ったときの刻印
それぞれの、なんらかの跡が残っているのかも知れません。

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現状の「助六」に、いまは失われてしまった江戸期の文物のCMが豊かに残っている旨(3)を綴りましたら、お言葉通りではありませんが、
「それらが江戸時代終焉後も残っているのは、明治に何らかの然るべき事情があったからではないか」
とのご指摘を頂きました。
うわぁ、もの凄い目の付けどころだなぁ、と、卒倒してしまいました。
これはたいへんごもっともで、私のド素人野次馬根性に火をつけて下さるご指摘です。

で、ちまちまと調べてみましたら、江戸期にも大正期にも台本にある意休のかっこいいセリフが、明治の台本だけカットされていたりします。これは九代目團十郎の意思が働いていたんじゃないか、と勘繰ってみましたけれど(4)、確認の取りようがないので、着目点としてはパッとしません。
河東節というのが「助六由縁江戸桜」独自に用いられる浄瑠璃なので、こちらに目をつけますと、ちょっと脈がありそうでした(5)
いちおう、そこまでやったのでした。

なおあさっていくと、明治維新になって江戸三座が猿若町から順次移ったり新たな劇場が出来たりしていったときの入り組んだ事情や、写実路線による演劇改良指向への歌舞伎観客の冷ややかな目線、新劇への潮流が生まれる中で歌舞伎は様式性を差別化の材料としていくようになったこと、等が絡み合って、どうやら一筋縄では行きません(*20、*21、*22)。

このあと引く十五代目市村羽左衛門の大正4年の芸談でもまだ、魚河岸や吉原への挨拶が欠かせない旨が述べられているところからも、また、亡くなった十二代目團十郎さんの話からも、とりわけ「助六」は、支えてきてくれた蔵前、魚河岸や吉原との密接な関係をずっと保ってきた、特殊な芝居であるらしいことが分かります。

「・・・『助六』は、御贔屓に支えられ、江戸時代の礼を尽くした粋な遊び心を感じる珍しい演目です。昨今は遊びというと、簡単に何も覚えず楽しめるものと思われがちですが、本来遊びは努力を伴うものなのです。普段は社長や会長といった方が、河東節の稽古では師匠に厳しくしごかれ技を磨いて晴れの日をむかえる、これが遊びなのです。」(十二代目團十郎 *25 48-49頁)

そこで、「助六」と魚河岸や吉原との繋がりが、どのように明治維新後も劇中の江戸情緒残留に影響したのか、の経緯を考える前に、下準備として、「助六」劇中の道具等と「助六」贔屓の人たちとの関わりあい方を、現存する「助六」劇の創始者と認められている二代目市川團十郎の時期から俯瞰しておきます。それらの中に、最初に掲げましたようなことどを見つけられればよいなぁ、と思っております。

以下、列挙。


【助六の扮装】

・1716年(享保元):黒小袖に小刀、紫の鉢巻、下駄ばき、尺八は手に提げ蛇の目傘をさして現れ(*2 年譜~二代目團十郎)

・鮫鞘の脇差と印籠とは、当時吉原へ通ふ男達の風俗を真似たのださうで、兎に角助六の拵へは当時の流行を穿ったものと見れば間違はありません。現に此の時、作者の斗文は言ふに及ばず、俳諧師の湖十、日本橋の金子屋文来という通人、また蔵前では(略)大口屋暁雨、これ等の人々に相談をかけて、髪の結びぶりから、着物、穿物まで通人の風を写したと言ひまする。(*2 52−53頁、伊原青々園筆~二代目團十郎1749年の上演をさしているはずです)

・1776年(安永5):吉原の揚巻なる傾城が桟敷を買切つて見物し、八百蔵に傘五百本を進物にしたといい(*2 年譜)

・1828年(文政11):先例通り吉原より傘三百本、小田原しんば(小田原町も新場も魚河岸)より紫縮緬三十疋・・・(*2 年譜~七代目團十郎。*9の393頁、鉢巻用の紫縮緬については「助六」補注にも記載)→【観客・贔屓筋】
・十二代目團十郎:わたくしが助六をつとめるときに履く下駄は、魚河岸からいただいたものです。(*24 209頁)


【揚巻・白玉】
・1779年(安永8):(河東節)・・・二代目門之助初役にて助六。この時瀬川菊之丞の後援者で、当時吉原できけ者で通つていた火焔玉屋が自家の遊女白玉の名を売出そうと、菊之丞の弟子瀬川吉次が勤めるを機に、従来の喜瀬川を白玉と替え、以後それにならつた(*2)

・(揚巻の出のときの)提灯は例の白張・・・此提灯は吉原から贈られたもので六個あります、裏に町名が書いてあって、京町一丁目、京町二丁目、江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町、角町と云ふ様に、夫(それ)を毎日替りに用ゐてゐます。(*4 25頁)

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【河東節】
・1733年(享保18):此時始めて二代目の宇平治河東が節付して語り、助六を河東節にて語る始となる(*2 年譜)

・『助六』上演の話がもちあがると、河東節十寸見会(かとうぶしますみかい)の皆さんに出演のお願いをします。公演の半年くらい前の吉日をえらび、新橋の竹葉亭の座敷で、河東節の世話人の方と興行主が集まり「この度、どこどこの劇場にて『助六由縁江戸桜』を上演させていただくことになりました。つきましては、河東節ご連中様にご出演をお願い申し上げます」と、私どもは紋付袴の正装で口上を述べます。ここで出演を快諾してくださると、助六の上演が決定となります。/河東節は江戸時代に流行した音曲で、お店(たな)の旦那衆がよく稽古していたそうです。このご連中は、昔は男だけでしたが、現在は女性もたくさん出演してくださいます。今は亡き、書家の町春草さん、地唄舞の武原はんさんといった方々もいらっしゃいました。(十二代目市川團十郎 *25 48頁)
なお、参考 http://www.norenkai.net/shinise/concierge/kabuki1005.html


【観客・贔屓筋】
・1749年(寛延2):吉原芸者総出にて花道にて、助六−海老蔵を称える「ほめ詞」をいうなど大いに吉原気分、芝居気分をあおつた事が大評判をよんだ(*2 年譜〜二代目團十郎)

・二代目七十を越して・・・三度目の助六を一世一代として勤たる時、中村座にて下桟敷片側残らず買切にて暁翁(=大口屋暁雨)が見物、東桟敷は小田原町鯉屋藤左衛門が連中也。(*9 389頁 「助六」補注、『十八大通』よりの引用 *2では四代目團十郎が初めて助六に扮した1756年のこととしている)

・1811年(文化8):七代目団十郎初役にて助六。此時は魚河岸蔵前吉原恒例の積み物は勿論、吉原の連中三百人が揃いの縮緬の首ぬきで柿と白との手拭いを冠つて土間を三桝の形で見物したのを始め、助六さん、揚巻さんの引幕が一日では引き切れぬ程贈られたと云う。(*2 年譜)

・1828年(文政11):その他、又揚巻(粂三郎)へも積物夫々、右の品(→【助六の扮装】)を仕切場へ飾り、茶屋茶屋へは吉原女郎より提灯すだれ毛氈を引き、二階へは霞と桜の作り物を出し、又明地(あきち)へ桜を植えて茶見世を出し、助六劇と云う餅を製して売るなど、その人気引立つる事尽しがたし。(*2 年譜~七代目團十郎)

・1884年(明治17):此時例に依つて茶屋の軒頭へ暖簾をかけ、往来に桜を植て仲の町に見立てんとしたが、其の筋が許さない為、恒例の表飾りも大分淋しくなつたと云う。(*2 年譜~九代目團十郎・・・*23、298頁による補:明治十七年、団十郎三度目の時に東京の新しい都市計画で劇場前に桜を植えることが禁止された。今度【明治29年】の歌舞伎座もまた桜を植えることができなかった。)

・1896年(明治29):此の興行中(四月)八日には吉原の幇間一同助六に貰いたる黒縮緬に杏葉牡丹の紋付も揃いにて総見し誉め詞、又十三日には魚河岸の連中数百人河東連中を先に双魚に牡丹のかが紋ある黒七子の揃いと遠州形の繻珍(しゅちん)の帯にて東西花道にて助六以下と手打ちあるなど「助六劇」最後の熱狂ぶりを展開した。(*2 年譜~九代目團十郎・・・*23、298頁による補:劇場正面には吉原から寄贈された提灯を二段に掛け、各芝居茶屋は柿色に白く屋号を染め抜いた暖簾、軒先には青簾と枝垂桜に団十郎の替え紋である杏葉牡丹と揚巻結びを描いた暖簾をかけ、・・・店先には揚巻と白玉の提灯を飾った。その上劇場も「助六」の始まる前に東西の桟敷の軒に紺に引手茶屋の屋号を染めた暖簾を飾った。こういう劇場の内外が吉原になるという古例が行なわれたのはこの時が最後であった。

・「助六」上演に際し、吉原へあいさつまわりに来た関係者にごちそうをしたり、興行中は五度にわけて総見するといったならわしは二代目団十郎以来のしきたりだというから、当時、すでに「助六」は二代目団十郎のものとしてすっかり世間にみとめられていたのである。(*19 43頁)

・十二代目團十郎:魚河岸のところにも紋付袴の正装で、必ず挨拶に伺います。昔から、魚河岸からは鉢巻きと下駄を頂いております。今は直接品物を頂くのではなく、魚河岸の役員さんから目録を頂戴して、こちらで誂えています。魚河岸も代替わりしていますが、心意気が受け継がれていて、ありがたいことです。(*25 48頁)


【演じ手】
・御承知の通り此狂言を出しますのには、市川宗家の許しを得ます事は勿論、吉原魚河岸へ挨拶をして、吉原からは助六の傘、魚河岸からは鉢巻を送って貰いますのが古例で、それが為に吉原と魚河岸は盛んな連中を催して、舞台で手打をする事が、是も一つの定めになっています。(十五代目市村羽左衛門、大正4年の芸談。*2 113頁、*5 146頁)


*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年

*4)遠藤為春・木村錦花『助六由縁江戸桜の型』劇文社 大正14

*5)諏訪春雄 編著『助六由縁江戸桜 寿曾我対面』歌舞伎オンステージ17 白水社 1985年

*9)「日本古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

*19)田口章子『二代目市川団十郎』ミネルヴァ書房 2005年

*20)尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』 青蛙書房 1984年

*21)漆澤その子『明治歌舞伎の成立と展開』 慶友社 2003年

*22)中川右介『歌舞伎座誕生』 朝日文庫 2013年(原著 『歌舞伎座物語』PHP研究所 2011年

*23)渡辺保『明治演劇史』 講談社 2012年

*24)十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』 PHP新書 2008年

*25)十二代目市川團十郎『歌舞伎十八番』服部幸雄解説、小川知子写真 河出書房新社 2002年

写真は、YouTubeの映像からスクリーンショットをとりました。

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