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2013年3月11日 (月)

音に聞く江戸の空気:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(5)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


助六という人物のモデル、舞台装置、背景としての吉原、劇中に盛り込まれた実在した江戸の風物、主要なセリフまわしの面白さ、を見て来たついでですので、「助六」の中の音響についても概観しておきます。
音声を拾い出して例示するのも良いのですが、以下は前回埋め込んだ映像を見ながらお確かめ頂いた方が実感を持って理解出来ると思います。

(前半)http://youtu.be/PkbrsR855T4
(後半)http://youtu.be/0B6tcDGDTMU

そんなわけで、文字ばかりになってすみませんが、お許し下さい。(実際に聞き取った上での記述ではあります。)

歌舞伎では、扮装や鳴物(音楽と効果音)について「附帳」というものにまとめられているそうで、『助六』をはじめとした歌舞伎十八番のものは、幸い日本古典文学大系本(*9)に整理されたものが載せられています。とはいいながら、主な段取りが記されているだけですので、それで全部は分かりません。また、鳴物に寄らないながら、大切な音響もあります。

「助六」の背景の音の構成は、大きく、五つの括りでみることが出来ると思います。順に、カタカナで記号をふっておきます。【】で囲んで、その部分の音楽の呼び名らしいものを入れますが、正しい自信はまったくありません。ご教示を乞いたいと存じます。いちおう、*18を参照しました。

ア)昭和・平成の、映像で見られる三上演(十一代目團十郎襲名披露公演、平成十五年公演、平成二十二年歌舞伎座さよなら公演)では、幕が開くと、まず「助六」芝居の由来を述べる口上があり、その紹介で河東節の浄瑠璃となります。河東節は、近々考えてみたいと思っている、明治に江戸を残した「助六」という点からのキーの一つになるかも知れませんので、最後にまとめます。
河東節の浄瑠璃を背景に、時鐘塔からの時の知らせを擬したのであろう鐘が聞こえ(吉原にはお寺の鐘もきこえたそうですが、時の鐘がありました)、まず現れるのは鉄棒(かなぼう)引きです。下手花道と上手臆病口から現れ、ゆっくりした間合いで棒を激しく地面(お芝居ですから床面)を突き、金属の棒の上に付いた複数の輪を、じゃらん、と鳴らしつつ行き過ぎます。これがなにを表すのか、という解説は助六劇関連の本にはまったくなく、物知らずな私は途方に暮れたのでしたが、鉄棒引きは火の用心の自警団なのだそうで、一般の街中にもいたようです(江戸に詳しい人は良く御存じなのでしょうが私は分かりません。お恥ずかしい限りです。)吉原のことを述べた本のいくつかには、絵だけは載っていました。いまの演出ですと、この鉄棒引きが鐘の音とともに登場するのは、吉原の夜見世が始まる時刻ですよ、とお客様に知らせる役割があるのですね。時代が下る設定の「籠釣瓶」ですと、鉄棒引きは花魁道中の先頭にくっついて現れます。助六では道中を冒頭に持ってきませんし、花魁がまとめて五、六人も登場しますので、道中の先触れ代わりの意味もあるのかも知れません。

イ)鉄棒引きが舞台を通り過ぎて、いよいよ華やかな花魁の出となりますが、いっそう華やぐのは揚巻が花道を酔態で現れるときで、このときに初めて笛がヒャラヒャラと入ります【通り神楽】。揚巻が定位置に座ってひととおりの演技をしたあと、白玉に同行してもらった意休の出になりますが、このときは笛が入るのではなく、唄【只唄】になります。人の声ですので、こちらはやや落ちついて聞こえます。
このあたりに限らず、ほぼ全編にわたって、登場人物の普通の会話のあいだは、三味線がトン、トン、トン、と、等拍で静かに鳴り続けます【只合方?】。
近代劇ならば無音であるべきところですが、「助六」劇で舞台が無音になるのは、そのあとにくる重要なセリフを際立たせてお客さんに聴かせたい場面に限ります(セリフ本体のときはまた三味線がなり出すのが面白いところです)。
ここまでですと、揚巻の悪態のセリフが始まる前と、終えて意休にひらきなおって見せるところに、そうした沈黙があります。助六の花道の出の後、意休とやり取りする前、やり取りが悪態の応酬となって山を迎えるところでも、三味線は黙ります。この沈黙の挟み込みかたで、劇の空気に、優れた立体感を持たせています。

ウ)華やかさをいっそうもり立てる笛と太鼓、鉦が鳴る【これも通り神楽です】中を揚巻と白玉が三浦屋の暖簾口に消えると、音はいったん静まり返って、尺八が聞こえてきます。これが、尺八を背負って出て来る助六の出を巧みに暗示しています。よく知りませんが、歌舞伎に尺八は珍しいのではないでしょうか? なおかつ、尺八の前身である一節切(ひとよぎり)は室町時代(a)から江戸初期にかけての流行ですから、新味というよりは古風をとどめていて、面白いものだと思います。
このあたりに多く現れる、記号化された音響は、福山のかつぎの登場・退場時の短い「通り神楽」でかつぎの走りの速さを感じさせてくれたり、喧嘩となる場面で打たれる大太鼓とツケはシンプルながら荒々しさを充分演出したり、と、聞き逃せません。
(「助六」中にはありませんから余分なことですが、大太鼓は歌舞伎では水音・風音、雷まじりの風雨までをも自在に表す優れたはたらきをするのに驚かされます。)

エ)他の連中が退場し、助六の兄である白酒売り新兵衛が現れて語り始めるところからは、それまでの単調さとは違って、三味線が旋律らしいものを奏でます。それまで何人もいた登場人物が、はじめて二人だけとなるので、情緒を持たせるのでしょうか。以後、これが伏線となって、股くぐらせの場面、母・満江の登場までの囃子は、端唄・只唄にかわって、劇中盤の空気を違ったものにします。
満江と新兵衛が去り、意休が再び現れると、三味線はまた単調な等拍になりますが、前半では一定の音程だったものが、唄のさらにかけらのように、旋律の断片のように聞こえるように仕組まれています【只合方のヴァリエーション?】。ここまでのながれ、よく出来たものだと感心します。
満江の登場に先立って、助六と新兵衛が通行人に股をくぐらせる悪さをする場面では、軽やかな太鼓に鉦(ここでは、当たり鉦のほか、コンチキというものでしょうか)や笛が入って、鮮やかな唄となるため、登場人物が助六と新兵衛の他は僅かな通行人・・・まずは国侍とその奴、それが去ると通人(c)だけであるということを忘れさせられ、賑やかさを錯覚させられますから、これもなかなか面白く感じます。

オ)揚巻の後ろに隠れていた助六が意休に見つけ出されると、ふたたび尺八が鳴り響きます。尺八が助六を象徴していることが、ここからもよく分かります。
幕切れは激しいツケ打ちと速い笛、強い太鼓で、気負って駆け去る助六の昂りを象徴し、また印象的です。

上手なまとめでなくてすみませんが、以上が「助六」劇中の音の、全体の流れです。

さて、河東節です。
河東節については、文化元年(?【1804】)の『近世奇跡考』(山東京伝)、天保10年【1839】の『三養雑記』(山崎美成)巻之一(この二つは吉川弘文館『日本随筆大成』第二期6に収録、*16)、弘化4年【1847】の『声曲類纂』(齋藤月岑、*17)に書かれているのを読みました。『近世奇跡考』の記述はごくあっさりしたもので、河東と仲の良かった岩本乾什についての記述が分離しており、(*16、364〜365頁)、『声曲類纂』のものは先立つふたつの内容をとりまとめたような記述になっていて、系譜の図、担い手が使用した印の影まで載せています(*17、193〜197頁)。それらを含め、河東節の起こり(享保2年【1717】または享保4年【1719】)については「助六」について述べたものには必ず書いてありますので、略します。
しかしながら、いちばん興味を引かれるのは起こりについてではなく、『三養雑記』の次の記述です。

「さて河東節の唱歌には、有名人の作文ままあり。おきな(翁)が島といふは、つる蔦や蘭洲五十回の追善、安永六年【1777】に、山岡明阿の作なるよし。(太田)南畝(1749〜1823)翁の麓の塵に見ゆ。すがた絵といふ唱歌は、木辻の遊女の名よせにて、柳里恭の作と、自撰の独寝といふ随筆にいへり。(後略)」(*16、85頁)

文中で有名人と言われている人たちのことは、私はちっとも知らないのですが (^^; ここから伺えるのは、河東節は江戸の趣味人に愛好されたらしいことです。
これは今は冒頭の口上に残っているのですが、
「河東節は蔵前の旦那衆の芸であって、魚河岸が江戸大夫河東の名を預かっていたところから、助六の劇中に一度演出を止めて、『河東節御連中様どうぞ』と挨拶する風習を残し」
ているとのことです。(*9、485頁、用語集)
次回以降でまとめたいと思って材料を漁っている最中ですが、蔵前、魚河岸は、初回で見た二代目團十郎と大口屋暁雨の関係から推測される通り、吉原と並んで「助六」上演時の大切なスポンサーでした(*9、28〜29頁、「助六」解説 観客の慣例)。
すなわち、河東節の弾き手は「助六」のスポンサーたちなのです(今もそうなのでしょうか?)。

こんなこともあって、近代に入っても「助六」の中に江戸色が色濃く残されたのは、これらスポンサーと助六劇の関わりあいの中にその理由があるのではないか、と思い始めているところです。

加えて、この、スポンサー自身が出演することになる河東節は、歌舞伎の浄瑠璃としては市川團十郎家による「助六」だけが特権的に用いています。他家が用いることは、ありません。
明治以前の「助六」での河東節の使用は、*2の年譜と*19で確認出来るところでは、1733年(三代目團十郎、このとき初めて河東節がついた)、1749年(二代目團十郎0、1755年(八代目羽左衛門)、1756年(四代目團十郎)、1761年(九代目羽佐衛門)、1764年は市川雷蔵の助六で河東節のはずだったが事情で半大夫節となる、1764年(二代目彦三郎)、1779年(二代目門之助)、1782年(羽左衛門)、1791年(門之助)、1797年(高麗蔵)、1805年(男女蔵)、1811年(四代目海老蔵のちの七代目団十郎)、1819年(七代目團十郎)、1828年(七代目團十郎)、1862年(のちの九代目團十郎)、と、19世紀に入ってからのものがはっきり分かりませんし、かつ八代目團十郎は半大夫節で演じたりしているので、必ずしも團十郎家の独占には見えないのですが、九代目團十郎以降は他の家の人は河東節を用いません。これもまた、明治に入ってからの芝居小屋移転にからんでの魚河岸と劇場の関係が背景にあったのではないかと想像していますが、確証は持っていません。ここまで何かが分かるといいなぁ、と祈る思いでおります。

ということで、誰にも読まれんでも、まだ続く。( ̄Д ̄;;


a. 室町時代末期から江戸初期にかけての普化僧の流行という背景もあったとは思いますけれど、戦国時代と呼ばれた時代のごく初期にあたる時期に書かれた『宗長日記』には尺八(当時は一節切)の話題がわりとよく出てきたかと思います。書き手である有名な連歌師の宗長自身が尺八の大の愛好家だったそうです。

b. 「歌舞伎座さよなら公演」での十八代目勘三郎さんの通人は、さよなら公演でギャグの点ではかなり徳をしているし、大好きなのですけれど、DVDで出ている平成15年の「助六」で故・松助さんの使った小ネタがずいぶん採り入れられているのではないかなと思います。松助さんも素晴らしい役者さんでしたが、実演をあまり見ることが出来ませんでした。


*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年、年表は富田鉄之助筆、16〜35頁。

*9)「日本古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年 「助六」の附帳は437〜444頁。劇中で真っ二つに斬られる香炉台の仕掛けも載っていたりして面白いものです。

*15)『江戸の華! これが歌舞伎のBGMだ!! 鳴物選集』CD、KING RECORDS KICH 2092/3

*16)『日本随筆大成』第二期6 吉川弘文館 昭和49【1974】年

*17)斎藤月岑『声曲類纂』 岩波文庫 第1刷1941年 第6刷2001年

*18)佐藤仁『助六の江戸』 近代文藝社 1995年 都立高校で教鞭をとられていた1928年お生まれの方がこつこつお調べになってまとめられた、脱帽の本です。ご著者はいまどうしていらっしゃるでしょうか? お元気で95歳をお迎えだったらいいなぁ・・・

*19)田口章子『二代目市川団十郎』ミネルヴァ書房 2005年

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