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2013年3月17日 (日)

江戸風物はなぜ残ったか?:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(7)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


・(アルファベット小文字)は、記事末の補足をご覧下さい。
・(*数字)は引用したり参考にした書名を末尾に記してあります。


Hachidaimesukeroku

「助六」は、特異なお芝居です。

歌舞伎十八番中、新しい「勧進帳」(1840年初演)以外の演目は、明治以降復活上演される際に、ほとんどが台本に手を加えられています。「暫」はもともと決まった台本がなかったそうですし(九代目市川團十郎以後に固定)、「毛抜」・「鳴神」は明治に補綴、「解脱」は大正の、「不動」・「外郎売」・「景清」・「不破」・「象引」・「七つ面」・「関羽」・「鎌髭」・「蛇柳」は昭和の脚本や補作です。その他、「押戻」は独立した芝居ではなく、「嫐(うわなり)」は復活されていません。(*25)

「助六」には、基本的にそのようなことがありません。(a)
「矢の根」も古そうですが、「助六」に比べるとシンプルな筋立てです。
より立体的な台本の「助六」は、二代目團十郎が三度目に演じた最後、1749年もの以降は年譜では変化が確認出来ず、ほぼ固定されたのではないかと推測します。(*2)

台本が固定された理由は、

・二代目團十郎の上演時点で「助六」が実質的に團十郎家の独占になった(b)

・以後、明治維新前は平均で3.7年おきに上演される人気狂言となり、おそらくはウケる芝居であったために改変要求が薄かった(ただし*2の年譜でカウント)

ところにあったのではないかと想像します。

改変要求が少なかったことのひとつの状況証拠は、蕎麦屋の福山がうどんを担いで来るところに求められると思います。ここは七代目の初演(1811【文化8】年)まではうどんの市川屋だったものが蕎麦屋の福山に替えられたのでしたが、助六がその出前持ちから受け取ってくわんぺら門兵衛の頭にぶっかけるのは蕎麦には替えられなかったのでした。→(3)
また、劇中に現れる揚巻や白玉(c)は最高級遊女の太夫の設定ですが、1734年に4人いた太夫(d)も宝暦期の1750年代には消滅したそうですので(*7 10頁)、舞台である吉原を凋落した同時代風にして行くわけにはいかなかったでしょう。それも場面を固定化する一因になっていたのではないでしょうか?

19世紀に入って入れ替わったのは、福山の他には煎餅かも知れません。朝顔仙平の「せんべいづくし」に現われる煎餅は文政期(1818〜29年)のものだとするなら、実際に台本を参照すればそれ以前のものとは違う可能性がありますが、残念ながら確認出来ません。また、それぞれの煎餅がいつまで売られていたものかも分かりません。
これらはまた、明治維新までになくなったか、実在しなくなった可能性のあるものです。すると、いくら改変要求が薄かったと推測されるとはいえ、喜世川が白玉に置き換わったり、うどんの市川屋から蕎麦の福山に入れ替わったりしたことを考慮すると、場面の変更やものの入替えがなくなったのは、これらの入替えをしたあとの時期には事情が変化したのだ、と考えなければ、説明がつきません。

福山もせんべいづくしの煎餅も、文化文政期、七代目團十郎が「助六」を演じた時期の文物です。すると、市川團十郎家の独占的な「売り」として歌舞伎十八番を制定し宣伝した七代目が、ここで最後の入替えをすると同時に、台本の固定化を進めた、と考えられなくはないでしょうか?
また、七代目を精神的に継承した九代目がまた、それ以降の歌舞伎十八番の内容を固定化する規範になっている点は、最初に上げた「暫」の例でも伺えます。

もともと改変の少なかった「助六」台本は、七代目〜九代目路線で固定されたのではないでしょうか?

結果として維新後は失せてしまった江戸風情が「助六」には缶詰のように残されたのは、したがって、改変要求の少なかったところへ、七代目によって歌舞伎十八番に加えられたことにより固定化したテキストを、九代目が明治にそのまま守って上演したことが、その第一の理由なのではないか、と私は想像します。

Kudaimesukeroku

ではなぜ、以後、演劇に同時代的リアルさを求められた明治に入っても、同時代的リアルではない江戸情緒が、ほとんど台本確立時のまま保持され演じられたのか。
この原因は、九代目團十郎の資質と、明治期の歌舞伎の観客達の嗜好に求められるのではないかと思います。

じつは、このことを考え始めた当初、これは前回みた通り魚河岸や吉原の人たちが「助六」の江戸期以来の贔屓であったことから、この人たちが固定した台本を守りたい意識を強く持っていたのを、團十郎を始めとする関係者が無視出来なかったからではないか、だから演劇改良の理想に燃えていた團十郎も手をつけることをしなかったのではないか、と推測していました。

維新を期に新天地に劇場を移して魚河岸の束縛を抜け出した十二代目守田勘弥が、明治17年に九代目「助六」を上演したがったとき、魚河岸の人たちは、裏切り者とも言える勘弥に全く良い顔をしませんでした。それを九代目がようやく拝み倒して承諾をとったのでした。衰勢の吉原はともかく、魚河岸の人たちは、それほどまでに、「助六」上演に対する許諾権を強く保持していたのです。(*20 262頁)

ですが、台本の中身となると、贔屓達のそれに対する意向は確認のとりようがありませんし、意向があったとしても、「助六」に江戸の文物が残ったことの最大の理由ではないだろう、と、今は思っています。
なぜなら、「助六」が歌舞伎十八番のなかのひとつであることのほうが、とくに九代目にとっては重要だったはずだからです。それゆえ、演劇改良の理想に燃えていたとしても、九代目團十郎は「助六」の中身には手をつけなかったのだろうと推測するのです。

明治の演劇改良運動について詳しく触れることはしませんが、明治に入って演劇が多様化すると、観客は自分達の同時代を描く劇としては台頭してきた壮士劇、のちには新派・新劇などを支持し、歌舞伎にはあくまで従来通りの様式美を求めました。歌舞伎側も、最初は明治政府の意を迎え入れ、とくに九代目團十郎はそのことに大変熱心でしたが(e)、最終的には日清戦争を歌舞伎の手法で描くことの無理を悟らされ、様式美を守る道を選択することになり、明治28年には「暫」、翌年には「助六」や「娘道成寺」を本格的に再生させることとなりました。(*21 279頁、285頁、294頁注3・・・『暫』も『娘道成寺』も切符が売り切れるほどの大入りだったそうです。(f)

歌舞伎は、観客の反応から、あらためてその優れた様式美の大切さを思い知らされたのです。

ここで様式美の代表と目されているのが、「娘道成寺」の他の二つは、歌舞伎十八番の演目である「暫」と「助六」であるところに、また別の示唆が孕まれています。
写実指向であるのと矛盾するように見えますけれど、九代目團十郎は、その養家河原崎座が上演に深い縁のあった七代目制定の歌舞伎十八番に、大きく影響を受けていたと推定されています(*26 14頁)。
歌舞伎十八番に続く、新歌舞伎十八番の演目を、襲名前後の九代目は「市川海老蔵(=七代目團十郎)遺構の正本」と称して明治2年から9年にかけて盛んに演じています。

「その新十八番ものの一つとして、明治九年五月には『都て平家物語りに倣ひ河竹(新七、のちの黙阿弥)が筆をとり況や就中などと雅俗混合のせりふを用ひ』る、『牡丹平家譚』は上演された。彼の『活歴』指向は七代目の『十八番運動』継承の延長線上にあったと考えられる。」(今岡謙太郎、*26 14-15頁)

七代目の十八番運動の原因には「劇団衰退の局面打開のための復古運動」(河竹繁俊)も含まれていたそうですし、それを少年期から青年期の多感な時に目にしていた九代目には、他に新十八番もあったのですから、あるいは実父七代目の持っていたかもしれない「遺志」を大切にする上から、(新ではないほうの)歌舞伎十八番は父が演じたままに尊重する考えも、もしかしたらあったのではなかろうか、と思います。
尊重しておくことが、九代目が「團十郎」であるための足場としては、家の継承のために重要な意味を持っていたのではないでしょうか?

以上のようなことが重なって、後世には幸運なことに、江戸は吉原の華やぎを描いた「助六」の世界の中に、そのまま古い江戸の文物、ひいては気っ風までもが、鮮やかに残される結果に繋がって行ったのではないか、と考えております。


「助六」絡みの細々は、いったん、後日かいつまんでまとめて終わりにしておきます。

大小道具のこと、他の演目との比較等々、もう少し突っ込みたい気もするのですが、記事も煩雑、かつ視野の狭いものになりました。
視野をもう少し広げてから、あらためて取り組むもうと思います。

なお、参照した本のリストも入り組みましたので、その際に末尾に内容別に整理します。

これまで、気づいたところは訂正や補記をしておきましたが、まだ間違いも多々あるかと存じます(音響関係の用語への勘違いなど)。
助六寿司をめぐった野次馬話もしてみようかと考えましたが、材料が少なくてコントになりませんので、これもまたの機会に。写真はローソンで売ってる助六寿司。

Lawsonsukeroku

もし本記事をお目になさって「いかん」とお分かりになることがございましたら、是非ご教示下さいますよう、お願い申し上げます。


a. 台本の洗練は1771年桜田治助の関与が認められます。ヴァリエーションとしては、1764年市村座での長唄での上演、1785年の女助六、1787年のキャストに三庄大夫を加えた仕立て、1793年の改作といったものが認められますが、1749年以後30回を数える上演の中では希少だと言っていいように思います。

b. 年表で表面には出てきませんが、明治の上演まで続いた「助六」上演の際の様々なしきたりは二代目團十郎以来であり(*19 43頁)、他家が上演するには團十郎家に挨拶に出向く習慣も、歌舞伎十八番をぶち上げた七代目團十郎の頃を遡るのは、七代目の同時代に三代目尾上菊五郎が團十郎家に挨拶無しで上演して七代目を怒らせたことからも明白です。

c. 1779年に、吉原の贔屓筋に配慮して喜世川から当時実在の遊女に名前を変更→(6)【揚巻・白玉】

d. 太夫は1642年には75人いたそうですから享保期に4人とは既に激減です。(*1 59頁)

e. 明治政府は、歌舞伎を国民教育の具にしようと、従来の虚構化した世界ではなく、事実に沿った演劇を創作上演するように求めました(*21 120頁)。このことは、演劇改良運動を待つまでもなく、七代目の考証癖を精神的に引き継ぎ拡大しようとしていた九代目團十郎の意志にはそぐうものであったようです。幼くして養子に出された九代目團十郎は、当時は実父と知らなかった七代目が、天保改革時の倹約の精神に逆らって本物の鎧を着て舞台に出、即座に捕縛されて江戸から追放された事件を印象深く記憶していたそうです。
「演劇(しばゐ)を改良して見やうと思立たのは私が十三のころでしたが(中略)当時(いま)の演劇で仕て居るのは皆嘘だと、恁う考へはしたものの、此時代では迚も行なはれ無い、私の親父(=七代目)が真物(ほんもの)の鎧を着て舞台へ出てさへ、幕府の御咎を蒙ツて江戸構へと成たくらひだから、実地に行れやう筈がありません。」(*21 248頁)
こう考え続けていた九代目にとって、明治政府の考え方は我が意を得たりだったのでしょう、考証に優れた学者さんをブレインにつけて、本物にこだわった衣装と演技を続けました。が、これが観客にはさっぱりウケませんでした。

f. 「演劇は時勢と共に移り行かんこと尤も必要なり、われらがいふまでもなきことなれど適者生存の今日に演劇ばかり後れてよき訳はなけれど、古昔よりある狂言は甚しく猥褻なる処とか、不倫理なる処とかの外には手を入れぬが好しと思い初めたり、一体旧来の芝居は不自然なるが如き間に一種の趣味あるものゆゑ、徒に理屈のみにて矯正する時は却て全体の趣向を全滅する恐あればなり」(明治27年以降の伝統的作品復演をめぐってと思われる九代目團十郎の述懐、*21 285頁、明治36年刊『團州百話』からの引用)


*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書〜2002年に講談社学術文庫

*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年

*7)佐藤要人監修・藤原千恵子編『図説 浮世絵に見る江戸吉原』ふくろうの本 河出書房新社 2007年新装版

*20)尾村幸三郎『日本橋魚河岸物語』 青蛙房 1984年

*21)漆澤その子『明治歌舞伎の成立と展開』 慶友社 2003年

*25)十二代目市川團十郎『歌舞伎十八番』服部幸雄解説、小川知子写真 河出書房新社 2002年

*26)今岡謙太郎「九代目団十郎の幕末」 歌舞伎学会『歌舞伎 研究と批評 22』所収 1998年

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