« 抽象の吉原:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(2) | トップページ | 「実は」の世界と語り芸:「助六」をめぐって(4) »

2013年3月 3日 (日)

CMいっぱい!:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(3)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


さて、お芝居の中に入って行きたいですね。
実際の舞台でも拝見したいものです。

新しい歌舞伎座の杮葺落公演で、6月に、亡くなった團十郎さんが助六を演じることになっていたのでしたが、それはかなわなくなりました。でも、先ごろ息子の海老蔵さんが代役になった、と発表がありましたので、楽しみです。特別な会の会員などになっていませんので切符がとれるかどうか心配ですが、とれたら是非見に行きたいと思います。

http://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/2013/06/post_57-ProgramAndCast.html

「助六由縁江戸桜」は、江戸時代のCMがてんこ盛り、も見ものです。

映画なら本編が始まる前にCMのフィルムが何本も流されますね。
歌舞伎の「助六」では、劇中に、とくに前半に集中して、何本もCMを挟み込んであります。

幕が開けば吉原とりわけ三浦屋、吉原に出入りしていた菓子屋の竹村伊勢が、文字で目に入ります。

Takemuraise

「三浦屋」の暖簾から花魁たちが登場し、続いて花道を、酔ったさまで揚巻が登場し、お付きの禿(かむろ)に酔い覚ましを渡されます。この商品名が「袖の梅」。

さらに意休〜助六が登場し、意休の子分のくわんぺら門兵衛が現れた後、「福山のかつぎ」というのが出てきます。残念ながら福山通運さんではありません。蕎麦屋の出前です。しかも、運んで来るのはうどん。なんで?→(b)

Hukuyamakatsugi

この福山のかつぎにぶつかられてしまった門兵衛は、かつぎにしつこくからんで助六にやりこめられ、お煎餅の名前がついた弟分の「朝顔仙平」を呼び出します。

Asagaosennbei

これらはすべて、「助六」を見た18世紀のお江戸の人たちにとっては、実際に存在したものでした。

(写真はYouTubeの映像からとりました。歌舞伎座さよなら公演で平成22年4月に演じられたときのものです。助六=十二代目團十郎、くぁんぺら門兵衛=仁佐衛門、かつぎ=三津五郎、朝顔仙平=歌六)

菓子屋の竹村伊勢については、(2)で触れた通り、新吉原の紋日に饅頭を納入していた菓子業者、ということしか突き止めていられません。

吉原は、昭和半ばまで現実に存在する遊郭でした。

「袖の梅」(a)は吉原の商家にはあたりまえに置いてあったもののようです(『守貞漫稿』娼家 下【岩波文庫、『近世風俗志(三)』343頁、1999年】)。

蕎麦屋の福山は「助六」初演時には別のうどん屋がとりあげられていたものが、その後は「助六」が演じられた劇場、市村座の隣にあったので入替えで採用されたと聞き及んでいます。それで、蕎麦屋なのに古形をとどめてうどんを運んで来るようです(b)。
福山も、文政の頃には店が移転したか潰れたか、だったそうで(小池章太郎『考証江戸歌舞伎』三樹書房 1997年を立ち読み!)、幕末の嘉永年間にはもうなくなっていたそうです(*9、390頁。「助六」の補注七)。

朝顔仙平は、北八丁堀の有馬清佐衛門が売り出した「朝顔煎餅」を人名に洒落たもので、この清佐衛門が男伊達だったので三回目の助六上演からこの役を加えた由。この、擬人化された朝顔さんが、助六へ向って啖呵を切るとき、「煎餅づくし」というセリフを喋るのがまた愉快です。
「煎餅づくし」の中に出て来る朝顔煎餅以外の4種の煎餅も、みんな実在したものです。伊勢屋の薄雪煎餅、翁屋の木葉煎餅(文政期か?)のふたつが固有名詞で、砂糖煎餅と塩煎餅はそうではなかろう、とのことです(*9、392頁。「助六」の補注一八)。

いま上演される範囲ではこれくらいですけれど、現在の「助六由縁江戸桜」は、活字で見ることの出来る台本のうち、全体の3分の1を省略して上演されています(c)。出ている映像では見ることの出来ない末尾の部分は省略されないこともありますが、冒頭の、揚巻が登場する前の部分、大きく省かれているところには、白酒売の言い立て(売るものを宣伝する喋り)が出てきます。
現行と同じような枠組みの上演であった大正4【1915】年の台本(*10)では、省略した白酒売の言い立てに替えたのでしょうか、「外郎売」の言い立てが劇の最初の方に盛り込まれています(→d)。このときの外郎売の口上は歌舞伎十八番の「外郎売」にある口上(セリフに出て来る透頂香は、小田原のとら屋藤右衛門が売っていたもの。これだけは現在もある。http://www.uirou.co.jp/http://www.uirou.co.jp/uiroutoha.html)を大幅に省略したものが台本上に載っていますけれど、実際の上演でも省略が加えられたのでしょうか、どうでしょうか。

それにしても、現実に存在したとはいえ、吉原遊郭を除けば、ほかのものは明治維新よりも前に消え失せたものばかりです。
なぜ現在のものに置き換えて行かなかったのでしょう。

CMにはなっていませんが、助六の履く下駄は、いまでも「魚河岸の人たちからいただいたもの」を使っているのだそうです(十二代目市川團十郎『團十郎の歌舞伎案内』207頁、PHP新書 2008年)。鉢巻の縮緬も明治29年の上演までは魚河岸から贈られるのが慣例だったそうで、福山のかつぎの半纏も、蕎麦屋の福山があったときには、福山が提供したのだそうです『考証江戸歌舞伎』に書いてあったように思います)。揚巻や白玉が登場する際に若い衆が持つ箱提灯も、吉原が提供したものでした。
みんな、江戸期の商業の台頭と確立の中で花を咲かせ、消えて行った存在です。

「助六」劇は、上演が重なるたびに世話になり続けたこれらのスポンサーを今も大事にしている、ということなのでしょう。過ぎ去り、消え失せた、と見えているものも、永遠の感謝を捧げることで、その存在の新鮮さを保ちつづけるのだ、という精神は、「助六」劇全体を貫いています。
現在では上演されない白酒売や外郎売の言い立ても、江戸中期の、しゃべりを看板にした商売の面影を良く伝えているのでしょう。
この、しゃべりの面白さが、舞台装置や衣装の鮮烈さとともに、商売っ気とは関係のない助六、揚巻、意休の台詞まわしの中にふんだんに採り入れられています。それはまた別に注目して行きたいと思います。



a. 袖の梅のこと、*9、81頁の頭注11・・・「吉原大全」に「袖の梅は正徳年中(1711年4月25日〜1716年6月21日)、天溪といえる隠者ありて、伏見町に住けるが、酒客の為にこの薬を製してひろめける」。

b. 「福山のかつぎ」〜*9、390頁。「助六」の補注七・・・七代目団十郎初演のときから、福山となった。福山は堺町の蕎麦屋で、芝居へ蕎麦の出入りを勤めていた店、芝居が猿若町へ移転したとき、同所へ引越し、一丁目新道の角に居たが、嘉永の初年に絶えた。福山の前は、二代目の三度目の寛延二年以来、市川屋で、市川屋は、堺町にあった名代の饂飩屋市川屋弥助のことである。「担ぎ(かつぎ)」は出前の男のことで、挟み箱ようのものに入れて配達したのをいう。なお、福山の蕎麦屋になっても、それ以前の市川屋のうどんを残し、芝居にうどんを出すことになっている。

c. 揚巻登場前の、現在大幅に省略されている台本部分には、いまみられる芝居では途中から現れる助六母満江、くわんぺら門兵衛、朝顔仙兵衛、遊女白玉(揚巻の妹分)、白酒屋新兵衛(実は助六の兄)が登場します。この部分が上演されると、「助六」の芝居は、他の世話物と似た感じの筋立てに見えて来るのではないかと思われますが、いまも2時間かかって演じられるところが、3時間かかることになります。

d. 「外郎売」はもともと独立狂言としてなされることがあまりなく、後の十一代目團十郎が、昭和15年に七代目市川海老蔵の襲名披露公演をした時に、大正四年とはまた違う演出で「助六」の中に組み込んだそうです(*9 395頁 「助六」補注4)。白酒売りの言い立てと同じ形式なので、それと取り替えられることがある由。


*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年、年表は富田鉄之助筆、16~35頁。

*8)「老のたのしみ抄」・・・郡司正勝校注、『日本思想体系61 近世藝道論』岩波書店1972年所収 これ、本当に二代目團十郎が書いたものを引き写したのだという印象を受けました。って、誰も疑ってないんですが(汗)。

*9)「古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

*10) 遠藤為春・木村錦花共編「助六由縁江戸櫻の型」劇文社 大正14【1925】年

|

« 抽象の吉原:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(2) | トップページ | 「実は」の世界と語り芸:「助六」をめぐって(4) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: CMいっぱい!:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(3):

« 抽象の吉原:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(2) | トップページ | 「実は」の世界と語り芸:「助六」をめぐって(4) »