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2013年2月23日 (土)

助六から助八まで:「助六(助六由縁江戸桜)」をめぐって(1)

(1)助六のモデル(2)助六の舞台装置(3)CMいっぱい!(4)語りの芸 
(5)音に聞く江戸の空気(6)道具とご贔屓(7)江戸はなぜ残ったかまとめ


歌舞伎に脱線します。

数少ない実演観劇体験で魅了された大きな役者さんが次々と物故し、團十郎さんも亡くなってしまい、いちどは團十郎さんの実演で見たかったという夢もかなわなくなった「助六」をDVDとYouTubeの映像で繰り返し拝見しながら涙に暮れておりましたら、「助六」の魅力にどっぷりハマってしまいました。
「助六」の舞台装置そのものは、シンプルきわまりない。ところが、シンプルなのに強烈に目に焼き付く。登場する助六・揚巻・意休その他の人たちも同様です。
この強烈さがどこから来るかを突き詰められたらいいな、と思ってしまいました。

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さっそく本を漁りましたけれど、そこは一般サラリーマン、なかなか思うようなものにめぐりあえません。舞台をめぐること、テキストをめぐることも、数冊の本を読んだだけのことをどのように整理するかだけで、考えあぐねてしまいます。
それでもその分、思いのほかに尽きない興味のネタが「助六」にはあるのでした。
何回かかけて、いくつかまとめていこうと思います。

まずは、助六は現実にいたのか、という疑問をとりあげてみましょう。
助六以外の登場者には、またお芝居の場面にこと寄せて、別に触れられればと思います。

劇中人物は、たとえばシェークスピア劇ならば、最近遺骨が発見されて話題の「リチャード3世」なども、遺骨の特徴がシェークスピアに描かれた通りだったとかそうでないとか、実在と創造の迫間で人々の大きな関心をかいます。

http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013020401002216.html

その人物は実在したのか、しなかったのか。したのならば、劇に描かれた姿は真実なのか。

歌舞伎の「助六」も、実在の人物をもとにして造形された、とされています。
Wikipediaの「助六」の項にも、わりと細かく綴られていますが、[要出典]だなんて付けられちゃっています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E5%85%AD
でも、実在の「助六」について出典を求める方が無理難題なんではないのかえ、と、わたくしなんざ思ってしまいます。
「助六」の舞台は江戸の色街、吉原(よしわら)です。立派な学者さんが、その吉原についてまとめた啓蒙書(「吉原と島原」、*1)にも、実在した助六と意休のことらしい話がちょっとだけ出てくるのですけれど、出典が何か、なんて、どこにも書かれてません。

助六に特定の実在を結びつけるのは、困難なようです。

細かな説はともかく、「助六」上演関連でまとめられた年表(『「助六」研究資料』*2、『江戸っ子と助六』*3)は、助六の名を冠した歌舞伎が京・大阪で、まずは心中ものとして登場している事実を示しています。
昭和33年の*2の年表では1709【宝永6】年に名優芳沢あやめが「助六やつし」というのをやってウケた、というのが最初に置かれていますが、*3の年表ではその3年前に京・早雲座で大和山甚左衛門(※)が『助六心中紙衣姿』なる狂言で助六を演じたことを記しています。同じ年には大阪・片岡座で揚巻も登場する『京助六心中』が演じられているそうです(意休の登場が確認出来るのは4年後の『花館愛護桜』、*2、*3とも年表に記載)。
さらに、*2中の『「助六」考』・『続「助六」考』(伊原青々園)には、『上巻助六千日心中』が延宝6【1679】年3月に浄瑠璃となり、『万屋助六心中』は同年5月に大阪の芝居で当たった由が記されていて(45〜46頁)、*3に上げられているものより古いところが気になります。このあたりは、実見しないと本当のことは分かりませんね。

心中、はこんにち私たちが普通に見る「助六」には馴染まない気もしますが、紙衣(かみこ)ならば助六が劇中で母の満江(まんこう)から渡されて着ますので、これらの心中ものは今の「助六」とまったく関係がないとは考えられません。揚巻が登場するのも同様です。したがって、この上方の心中ものが江戸の「助六」のルーツと見なすのは適切だということになります。

では、この心中ものは、実際の事件を元にしたものなのかどうか。

京の遊郭、島原の遊女で揚巻という人が万屋助六と心中をした、というのがその事件だと言い、1673【延宝元】年(*2年表)のこととも、年また前掲『助六心中紙衣姿』上演の少し前(*1の230頁には1709年3月10日に千日寺で情死、女は即死、男は翌日夕方死す、とありますが、年が後です)とも言われていますが、はっきりはしないそうです(*3)。
1709年説の出典は明確ではありません。また、前出のとおり、1706年、早ければ1679年には「助六」の心中ものが上演されている事実があるとなると、信憑性が希薄だろうと思います。なお、助六は揚巻とのあいだに子供が出来たために勘当された、なる趣旨の風聞がある他には、この事件の背景が不明確なので、助六と揚巻の人物像は何も分かりません。

発端は情死事件をもとにした心中ものであったにせよ、事件じたいは、のちに江戸で上演されるようになった「助六」に人名と場所の雛形を提供したに過ぎない、とみなせます。

上方の「助六/揚巻」は、江戸に名前だけを提供して成仏したのでしょうか。
(いまなお心中物として演じられる助六劇もあるやに聞いてはおります。)→【付記1】参照

『助六所縁江戸桜』に登場する助六は、いつも喧嘩をふっかける荒っぽい男です。
こちらは、助六劇が江戸っぽくなっていく過程で、江戸の人物たちから肉付けをされていったかと思われます。が、これまた実在の人物との関係がはっきり分かりません。

*2によりますと、文化【1804】元年刊、山東京伝「近世奇跡考」に、花川戸の助六という浅草三谷のたいしたこともない俠客が、万屋助六と同名なので、(吉原に本当にあった)三浦屋の総角(あげまき・・・この人は実在したかどうか分かりません)と組み合わせ(て狂言を仕立て)た由が記されているとのことです(65頁)。

江戸の助六については、*2の本が、出所不明ながらも面白い話を豊富に伝えていますので、それを書き抜いておきましょう。

75df685af748ffcea432ll_2 京伝の記述の出所かどうか分かりませんが、青々園によりますと(*2、45〜59頁)、『説文集(ぜいもんしゅう)』なる書物に、宝永の頃(1704年3月後半〜1716年6月中旬)、花川戸の戸沢某という人の三男に助六という人がいたけれど、俠客でも揚巻の情夫でもなんでもなかった、との記載があり、さらに、その人のいた戸沢長屋に同じ名の助六という、禁獄経験のある俠客が住んだ、と「今昔集」という書物に載っている、とされています。
さらに、『宝享見聞集』にはこの戸沢長屋の助六が三浦屋の揚巻と深い仲で、揚巻の客であった田中という武士に喧嘩を仕掛けられた話があるそうです。これは何らかの事実を反映していたのでしょうか、花川戸の助六ならぬ「蔵前の大口屋<助七>」が大松屋の松枝(まつがえ)という遊女の馴染みで、恋敵だった湯島辺りの田中三佐衛門に闇討ちにされかかったのを、<髭の意休>という幇間が内通したので、逆に大勢を打ち懲らした、と、『椎の実筆』に書かれていて、同工異曲が『萍華(ひょうか)漫筆』に書かれているとのことです。意休が幇間だ、というのも面白いのですが、いまは立ち入りません。
さて、さらに加えて、『萍華漫筆』には、大口屋<助八>という義侠の人がいて、人を殺してしまった或る男が一人残る母の食うに困るのを嘆いて命の助かるよう相談を持ちかけたところ、助八が罪を被って牢死した、その馴染んでいた吉原の大松葉屋小紫が助八の所にいって助八の母を養い、母の病死ののち鳥越の易行院(浅草山谷町にあったが、現在は東京都足立区東伊興4丁目5−5に移転)の助八の墓前で自殺して果てた、とある由。

助六だの助七だの助八だのという名前が江戸にどれくらい溢れていたのかは知り得ませんが、吉原に出入りしていたいろいろな人物像が、芝居の「助六」を肉厚にしていったさまは、こうした記述が残っていることから察することが可能でしょう。

なお、Wikipedia記事には、大口屋暁雨という通人が「助六」のモデルだと考えられている、とありますが、違うようです。→と、まとめたあとで、別の記述を見つけて、少しうろたえています。【付記2】参照

通人とは遊郭で生まれた言葉で、いわば金も力も兼ね備えていた顔役のような存在を指すとのことです(*3、153頁)。『助六所縁江戸桜』で助六の股をくぐる通人には、とても力のありそうな風はありませんので、これは一律にとらえられないイメージではあるかもしれません。

大口屋、というのはサラ金業者のようなもので、札差も、歴史的なことはともかく、ほぼ同義です(語義は辞典を参照下さい)。
遊郭の上客は江戸時代初期には高位の武士や材木屋が多かったのが、享保の改革あたり(1716〜1745)を境目に米の価格が大きく下落して貨幣経済への本格的な移行が進むと、札差に変わって行ったようです(*3、136頁)。あぶく銭をたくさん持つ人物が、通人と呼ばれたのだということになります。
その代表的な面々は十八大通と称されたそうですが、暁雨の同時期の大通の大半は札差なのだそうです。ただし、十八は実数ではなくて縁起のいい数だから使われたものらしく、十八大通の顔ぶれも書物によって異なるとのことです。

十八大通のひとりとされた暁雨は、宝暦〜天明(1751〜1788)期に吉原に通った人物で、馬文耕の書いた『江戸著聞集』に、蔵前の大口屋暁雨の吉原での行状を助六の芝居にしたとあるけれど、それは違う、と、青々園が述べています(*2、49頁)。暁雨の年代が「助六」の劇の整った時期より後と考えられるからです。
奥村政信が浮世絵に描いた助六の拵えは、暁雨の姿を写したという説があるとのことですが、赤坂治績氏は、暁雨の方が真似したのだろう、と否定しています(*3、93頁)。真似だとすれば誰の真似だったのか、は、明らかではありませんけれど、二代目團十郎ということになりそうです。
暁雨(本名は治兵衛)という人は、「助六を気取って、黒羽二重に緋博多の帯を締め、鮫鞘の刀を差し、桐の下駄を履いて吉原に通ったという。試し切りで罪のない人を殺した伝説もある。大口屋は要するに、頭の中も着ている物も俠客と変わらなかった」(*3、152頁)のでした。
この、助六を気取った暁雨の扮装自体は、こんにちまで伝えられる助六の扮装になっています。しかしながら、黒羽二重等々の拵えは、寛延2【1749】年に中村座で演じられた『助六廓家桜(すけろくくるわのいへざくら)』で二代目團十郎がととのえたものと*2の年表で読み取れ、やはり暁雨が発祥ではないと考えられます。政信の絵も、じつは寛延2年の二代目團十郎を描いたものなのだそうです(*3 http://www.shinchosha.co.jp/books/html/610178.html)。

助六なる人物のモデルは誰だったのか、の話は、これくらいで。


※現代ではジサマくさく見える名前ながら、大和山甚左衛門は、当時のトップスター坂田藤十郎に後継指名を受けたほどの素晴らしい若手だった、と*3の赤坂著本文62頁に書かれています。

*1)小野武雄「吉原と島原」1978年教育社歴史新書〜2002年に講談社学術文庫
*2)前進社文芸部「『助六』研究資料」昭和33【1958】年、年表は富田鉄之助筆、16〜35頁。
*3)赤坂治績「江戸っ子と助六」巻末、新潮新書、2006【平成18】年、年表は巻末

参考
http://www.ikedakai.com/cn20/cn26/pg276.html(隆慶一郎ワールド)
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg572.html(武江年表 承応二年右末尾参照)

【付記1】
万屋助六と揚巻の心中事件には異説がある由、渡辺保『江戸演劇史(上)』に載っているのを、立ち読みして(汗)知りました。曰く、助六というひとは(どういう理由でなのか)徳川秀忠暗殺未遂事件に絡んで刑死した、揚巻はその後追いで自殺した、という。これは都一中(1706年の大阪・片岡座の囃子方だった人、一中節の始祖)が語ったものだ、とのことです。この話は目にした限りの本には、まだ他に載っているものを知りません。もし何か情報がありましたらご教示下さい。・・・2013年3月10日追記:この話、伊原青々園の「続『助六』考」(*2 54〜59頁にしっかり書いてあるのを見落としていました。これは事実とは信じられない旨も述べられています。

【付記2】
田口章子『二代目市川団十郎』(ミネルヴァ書房 2005年)を拝読しましたら、次のようなところがありました。この記述を信じて良いなら、少なくとも、大口屋暁雨は現行の助六の意匠的モデルではあったことになります。二代目團十郎の日記「老のたのしみ」(享保19年〜延享4年、1734〜1747)を読んで、確認出来る限りの事実を確認したいところです。この日記は山東京伝が抜き書きした『老のたのしみ抄』が出版されていて、格安の古書で手に入りそうです。抄の信憑性までは分からないまでも、近々目を通したいと思います。
以下、引用。

関根只誠(『助六総角狂言考』)によれば(略)【三演目の】男伊達助六のいでたちは、黒羽二重の小袖に杏葉牡丹(ぎょようぼたん)の五つ紋を染め抜き、裏地は紅絹(もみ、赤い無地の絹地)で目のさめるようなはなやかさ。頭には紫縮緬の鉢巻をしめている。小道具の一つ印籠、尺八をうしろにさして花道から登場する。
この衣装は豪華をきわめた蔵前風といわれるファッションで、蔵前の札差大口屋治兵衛暁雨を見立てたものだという。暁雨はこの格好で吉原へ出入りしていたらしい(三升屋二三治『御蔵前馬鹿物語』)。二代目団十郎の日記『老のたのしみ』には、暁雨と交際していたことがしるされているが、小物類の鮫鞘の脇差、印籠、下駄ばきというのは当時、廓へ通う男たちの流行風俗だったというから、二代目団十郎はそのままとりいれたものであろう。(『二代目市川団十郎』51頁)

・・・でもって

【付記3】
暁雨が二代目團十郎(俳号、栢筵)と交流のあったことは、二代目の日記を山東京伝が書き抜いた「老のたのしみ抄」(*8)からはっきりします。享保19(1735)年5月10日に團十郎から暁雨に鱒を贈ったと記されており、また、元文5(1740)年3月15日には「浅草の暁雨丈御出。短冊三枚、予に発句たのみ也」とあります。元文5年は三代目團十郎(1742年に夭逝)が助六を演じた翌年です。三代目團十郎は尺八が得意だった、と歌舞伎年代記にあるそうですが、元文4年に助六を演じた時の拵えは「杏葉牡丹に五所紋、裾は色ざしで水に海老の模様、下着を重ね、帯は三升形の織出し、黒塗り下駄の黒鼻緒」だったと*2の年譜にあります。三代目の扮装が今日の助六とは異なること、暁雨と二代目との交流が確認出来るのが、二代目によって助六の扮装が今日のものになったとされる1749年よりも前であることは、心に留めておいてもいいでしょう。
もうひとつ、古典文学体系(*9)の「助六」の補注1に、暁雨が助六の扮装を真似たので今助六と呼ばれた、暁雨は1749年の「助六」上演のとき中村座で下桟敷片側を残らず買い切って見物した、との記述を引いています。これは『日本随筆大成』第二期六巻(吉川弘文館 http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b34905.html 新刊本は現在品切れ)所収の「十八大通」中にある「御蔵前助六之事」(馬文耕)の記述だそうです。暁雨が助六を真似た、という時期が不明ながら、文からは暁雨の「真似」の時期が二代目の問題の三回目の「助六」より前に読めてしまうところが不審ですので、これはまた目を通したいと思っております。
決着のつかない話ではあるかと感じますが、現在の助六の扮装を暁雨が真似たのであれば、その期間は1749年から二代目逝去の1758年までの間であり、そうではなくて二代目が暁雨を真似たのであれば二代目が二度目に「助六」をやった1716年が下限となります。
「老のたのしみ」から推測される暁雨の年の頃は二代目團十郎と似たり寄ったりかと思われ、実際に1724年には札差株仲間の起立人の一人だったそうですから(Wikipediaで参照しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%A3%E5%B1%8B%E6%9A%81%E9%9B%A8)、暁雨が「助六の扮装をして吉原でもてた」となると、暁雨の方が真似をした、というのはちょっと無理があります。老齢の二代目(1749年には62歳)が演じた物を真似た暁雨も50代から60代だったかもしれないからです。
緩く考えて暁雨が若い時分に見た二代目の助六の印象が強くてそれを真似ているうちに、暁雨の方がだんだん洒落たなりになってきて、老いてまた「助六」に扮する際に今度は二代目團十郎が暁雨を真似た、ということがあったとしたら、面白いんじゃないかな、と考えます。
ただ、歳をとっても遊郭に出入りしていた、もてたのはその時だ、となれば、話は別なんですけれど。
・・・別に面白い所見があるまで、この件はこれでいったん忘れましょう。


*8)「老のたのしみ抄」・・・郡司正勝校注、『日本思想体系61 近世藝道論』岩波書店1972年所収 これ、本当に二代目團十郎が書いたものを引き写したのだという印象を受けました。って、誰も疑ってないんですが(汗)。

*9)「古典文学大系98 歌舞伎十八番集」郡司正勝校注 岩波書店 1965年

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