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2012年10月17日 (水)

ガッツァニーガの「ドン・ジョヴァンニ」(2)台本

(1)


さて、ダ・ポンテがモーツァルトのために書いた「ドン・ジョヴァンニ」台本は、ガッツァニーガが作曲したベルターティによる台本の「盗用」だったのでしょうか?

アルフレート・アインシュタインは、
「彼(=ダ・ポンテ)がベルターティを厚かましく盗んだと言うとすれば、正しいことにも、正しくないことにもなろう。」(『モーツァルト その人間と作品』訳書592頁)
と、なんだか分からんことを言っています。
ベルターティの台本の筋書きが似ていることをもって、どうも当時著作権法があったらこれは違法だ、と言いたいところはあったようです。それを、
「十八世紀における精神的所有権の概念が今日とは違っていた」(同書次頁)
と表現していますが、・・・今日と18世紀で、そんなに違いますか?
たとえば「忠臣蔵」ネタの小説なんか、原作が江戸時代なので著作権料が発生しないのをいいことにたくさん書かれて来ていることになるし、同じネタで小説を書いたら
「オレの方が先に書いた!」
なんてわめいて著作権を主張できる作家はだれもいません。
「盗用があれば、それでも前後関係の主張は出来るんじゃないの?」
・・・はい、その通りで、明らかに盗用と認められるものが裁判などで認定されれば著作権は「原作者」のものになります。でも、それは「忠臣蔵」全体ではない。

「ドン・ジョヴァンニ」の筋書きを見れば、なるほど、ベルターティとダ・ポンテのそれは,よく似ています。しかしそもそも、ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)伝説という枠組みで見るならば、ベルターティにさえ先行者がいるので、ベルターティが筋書きをもってダ・ポンテに対し自分のオリジナリティを主張することは出来ないでしょう。

では、ベルターティからの盗用がダ・ポンテに認められるかどうか。

仔細に見たわけではないので断言はできませんが、セリフそのものを「盗用」した事実は認められないように思います。
なおかつ、細部は多様な違いを見せている。
父を殺されたドンナ・アンナは、ガッツァニーガの作曲したベルターティ台本では最初の場面にしか出て来ません。
ダ・ポンテ台本のツェルリーナにあたるベルターティ台本でのマトゥーリナは、ドン・ジョヴァンニにあっさりひっかかって、フィアンセをかえりみませんし、このフィアンセ(ビアージョ)は、ふられて以後やはりまったく姿を現しません。ドン・オッターヴィオもドンナ・エルヴィーラも、ベルターティ台本では道徳っぽいことは一切言わないし、深いためいきをつくこともありません。なにより、終幕ではベルターティ版はダ・ポンテ版のように悪の敗北を高らかと歌うことはないのは、前回みたとおりです。

アルフレート・アインシュタインが「盗用に近い」サンプルとして挙げている「カタログの歌」(レポレロに当たる人物は、ベルターティ版ではパスクワリエッロという名で、彼が歌います)は、ベルターティ版では2節17行(9行+8行)であるのに対し、ダ・ポンテ版では4節29行(4行+4行+5行+16行)、と、構成が大きく異なります。アインシュタイン著には原詞も出ていますので見比べて頂きたいのですが、ダ・ポンテの詞には1行たりともベルターティと同じ箇所はありません。したがって、わざわざアインシュタインがやっているようには、両者を具体的に並べてみる必要は全くありません。
アイディアの「盗用」はあっても、ダ・ポンテは今日的な意味合いでの著作権違反はまったくしていないのは、以上から明々白々だと思います。
別にダ・ポンテを擁護しようと言うわけではありませんし、擁護したってどうしようもありません。ただ、誰かがそう言っているからダ・ポンテは「詐欺師で山師だ」とされるのなら、それは違うだろう、そう言いたいならきちんと検証してみるべきだろう、と思うのであって、それはダ・ポンテのことに限らないとも考えています。

アインシュタインがダ・ポンテを(習慣に従って低く見ようとしながらもなお)近現代の目から良く評価せざるを得ないのが、
「彼の『ドン・ジョヴァンニ』においてベルターティをはるかに抜いたから」(前掲書593頁)
であるのは、その通りだと思いますし、これは、上の「カタログの歌」の構成の差からも類推できるのではないかと思います。そしてそれは、やはりアインシュタインがそこにまた作曲したモーツァルトの近代的な大胆さを認めていることからも裏付けられます。

ところが、前回の末尾に引いてみた通り、ダ・ポンテは
「(この台本に作曲した)モーツァルトひとりを除いて誰もが、何かが欠けている、と思った
と述べている。モーツァルトと共犯者だったはずの彼が、彼に、ではなく、モーツァルトに「欠けている」何かがあった、などと平気で述べているのは、しらばっくれているのでしょうか?

「欠けている」からには何とかしなければならない、と、ウィーン初演を前に、ダ・ポンテは、おそらくモーツァルトと協議しながら台本にいくつかの改変を加えています。少なくとも、ダ・ポンテが感じた「欠けているもの」が何であったか、は、この改変から窺われはしないでしょうか?

ドン・オッターヴィオにかかる部分(第2幕第10場のアリアをカット、第1幕にやや小振りなアリアを置いた)は歌手の力量の足りなさを考慮したものである、とのことですから、それは度外視しなければなりません。ただ、彼の第2幕のアリアがあった部分、第2幕第9場から10場にかけては、大きな変更が加えられています。プラハでの上演(今日見ることの出来るオリジナル)では、ドン・ジョヴァンニに変装しているのを白状して皆に詰め寄られたレポレッロは無事に逃げ遂せるのですが、ウィーンでの上演を前にして、第9場のレポレッロのアリアはカットされてレシタティーヴォ化し、本来ドン・オッターヴィオの美しいアリアだけがメインだった第10場については、場面を長引かせて滑稽化してあるのです。(名作オペラブックス21『モーツァルト ドン・ジョヴァンニ』音楽之友社 昭和63年 175〜187頁 ただし、ほとんどレシタティーヴォであるため所要時間は増えた行数ほどには延びなかったことでしょう。)
概要は以下の通りです。

a:レポレッロはツェルリーナにつかまって逃げ損ない、彼女によって椅子に縛られる(二重唱)
b:縛られて取り残されたレポレッロが愚痴をこぼしながら縄を引っぱると、縄の向こう側が結い付けられていた窓が落ちてくる(往年のドリフターズのコントのようです)。
c:ツェルリーナとマゼットに伴われてドンナ・エルヴィーラが登場し、前のふたりの短い掛け合いの後、ひとりになる
d:ドンナ・エルヴィーラのアリア(ドン・ジョヴァンニの裏切りを呪詛する歌・・・劇としては、石の騎士長の登場前に彼女がドン・ジョヴァンニに改心を求めに訪れるのとは齟齬をきたす)。

最後のアリアはモーツァルトの要求だったのでしょうか?
これだけがプラハ上演時の雰囲気を保っていますけれど、それまでは滑稽劇の要素を補強するために付け加えられているようにしか見えません。
ということは、ダ・ポンテがウィーンの皇帝や予定される支持者の顔色を見て感じた「欠けているもの」は、最後のアリアがどうだったかを留保するなら、「滑稽劇としての要素」だったことになります。・・・これは、アインシュタインが
「『ドン・ジョヴァンニ』を作曲しようと考えたモーツァルトの大胆さと功績を評価することは、キェルケゴールの《ドン・ジョヴァンニ》幻想や十九、二十世紀の書物によってモーツァルトの叡智を学び知る場合にではなく、あの素材に対する十八世紀の立場を知るときにのみはじめて可能なのである」(前掲書593頁)
と、この言葉以降に述べている近世的(近世という区分は本来日本史以外には存在しないのですが)「ドン・ジョヴァンニ」享受のありかたと符合します。
すなわち、十八世紀的享受における「ドン・ジョヴァンニ(ドン・ファン)」は
「お偉がたの大胆な恥知らず、その犠牲になった女の反応、彼の召使いの厚かましさ、考えられる限りの舞台効果をもって現われる地獄行きの光景で終わりを告げる超自然の正義の干渉に対する恐怖----これらを観たがる欲望に訴えかける」(同書595頁)すべてがバランスのとれた喜劇でなければ、《ドン・ジョヴァンニ》は十八世紀の、少なくともイタリアやウィーンの観客には受けなかったのです。
ではプラハは何故違ったか、という点は、元来ここを首都とするボヘミアの地が、当時はオーストリア帝国傘下の一地方都市に甘んじなければならずにいた、という一事を挙げれば、当面は事足りるのではないかと思います。

ものはためしで、前回引いたガッツァニーガによるドン・ジョヴァンニの地獄落ちの場面の軽さと、モーツァルトのそれとを耳だけで聴き比べても、18世紀を甘く享受していた人たちにのしかかったモーツァルト世界の「重さ」、それがゆえに削ぎ落とされて欠けてしまう滑稽な楽しみ、を、はっきり感じ取って頂けるのではないかと思います。

http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/Mozart_ Don Giovanni.mp3
カール・ベーム指揮1977年ザルツブルク・モーツァルテウムでのライヴ
ドン・ジョヴァンニ:シェリル・ミルネス
騎士長:ジョン・マカーディ
レポレッロ:ワルター・ベリー

ガッツァニーガを再引用します(先行する場面が入っています)。
http://music-hongou.art.coocan.jp/audio/Gazzaniga_ Don Giovanni1.mp3
ヘルベルト・ハント指揮(1963年)
ドン・ジョヴァンニ:フェルナンド・ヤコプッチ
騎士長:アルフォンソ・ナンニ
パスクワリエッロ:ジェイムズ・ルーミス

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