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2012年10月21日 (日)

エマヌエル・バッハ「ヴュルテンベルク・ソナタ集」大井浩明さん全曲演奏

日時:10月24日(水)20時開演
場所:カフェ・モンタージュ(京都市中京区夷川通柳馬場北東角 http://www.cafe-montage.com/

Cafemontage

予約/お問い合わせ:tel 075-744-1070 montagekyoto@gmail.com

「ヴュルテンベルク・ソナタ集」〜たいへん人気のあった曲集です。
出版:1744年(カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは30歳)
作曲:1742〜44年(1、2、4番が1742年、3、5番が1743年)
構成:第1番 イ短調  Moderato-Andante-Allegro assai
   第2番 変イ長調 Un poco Allegro-Adagio-Allegro assai
   第3番 ホ短調  Allegro-Adagio-Vivace
   第4番 変ロ長調 Un poco Allegro-Adagio-Allegro assai
   第5番 変ホ長調 Allegro-Adagio-Allegro assai
   第6番 ロ短調  Moderato-Adagio non molto-Allegro

「かつてバッハ氏が友人の前で、出版されたソナタ集の第6曲を演奏してくれた。その友人が告白してくれたのだが、曲が終わるまで、ほとんど何がなんだかわからなかったという。確かに自分には自分なりの聴き方があって、どのように聴けば、いつまでも情熱をもって注意深く聴けるのかも心得ていたつもりだった。しかし、この友人は単に音楽が好きなだけだったようだ。音楽という物語を、そこで語られている言葉抜きで理解しようとしたのである。だから、この曲はよく人がしてしまうように、むやみやたらにけばけばしく、あるいは甘ったるく演奏してはいけないのだ。どの曲にも、それぞれの演奏のしかたがあるはずだ。」
(マールブルク『批評的音楽家』第27篇、1749年 久保田慶一訳)


よっぽどのチャンスがないと、父子家庭修学児童(もう児童ぢゃないか)持ちのオヤジにはエマヌエル・バッハを聴くチャンスなんかありません。すわ、と思ったら、またも京都なのでした。これは、泣くしかありません。

ちっぽけな一素人であることをますます痛感する一方の私は、鍵盤楽器は嗜みません。ちょこっと遊びで弾いても、ちっともうまくなりません。
まあ、何の楽器をやってもうまくはない。
それで、アマチュアオーケストラなら人数がいるから端っこには潜り込めるかな、いちばん人数の多いのはバイオリンかな、んじゃ、それで、ということでやってます。
ですから、私のエマヌエル・バッハ体験は、あるバロックオーケストラに誘ってもらっていた時期の、シンフォニー演奏によるものです。

むちゃくちゃ難しかった!

長調の曲でさえも、嵐のように慌ただしい。それに目くらましされたら、音楽になりません。素人向けではないのです。きちんとしあがらないと、ピカソの絵の人物の目ん玉がさらに飛び出て、手足がびよーんとのびてしまったみたいな、悲惨なものになる。

んじゃ、玄人さんが演奏したらまっとうになるのかな、と思うと、これがまたなかなかそうではない。

独奏曲(のマズい演奏)に顕著なのですけれど、この時代にはきっちりあったはずの拍子感なんてものがエマヌエル・バッハの作品ではすっ飛んでしまっていて、いったいこれは18世紀の前衛音楽なんだろうか? と、<前衛=かたちが崩れている>なんていう主観的定義に支配されているあたくしは、ぶっとんでしまうことばかりです。

大井さんが今回採り上げる「ヴュルテンベルク・ソナタ集」は、譜面を垣間見てみますと、やっぱり書き方がぶっとんでいる、18世紀中葉前衛なのでありました。
なるほど、大井さんがとりあげるわけだ、と、勝手にガッテンしてしまいました。
・・・すぐれた演奏で、フォルムがはっきり分かるからこそ、しっかり感じ取れる豊かな厚みが絶対に聴き取れるはずだから、です。演奏会で採り上げるときには、大井さんには必ずそういう自信の裏打ちがあるのだと思っています。

演奏がよいものであっても、私たちはこの作品群では、トリッキーな休符の使用、突如はさまれるアダージョなどで、「譜面は1小節目から順番に読むものだ」なんてお行儀のいい「譜面依存主義」で聴いていると、ことごとく裏切られるでしょう。

名著「正しいクラヴィーア奏法」で有名であるにもかかわらず、彼の作品がなかなか演奏会のプログラムに乗らないのは、そのフォルムに対する理解が、演奏者にとって、なかなか追いつけないものであるから、なのかも知れません。聴き手に提示するのがたいへんなのかも知れません。

エマヌエル・バッハの音楽は、いわゆるホモフォニーであって、父セバスチャンのポリフォニーを受け継いではいません。だからといって、父セバスチャンのポリフォニーと対比したとき、決して単純でも明解でもないのが、エマヌエルの作品です。
(末弟クリスチャンは単純明解で、とはいえ、そちらにはそちらでクリスタルのような美しさがありますけれど、逸れるからこれだけにします。)

父が教材を意図した「インヴェンション」の成果が、人生の中で複雑に屈折すると、「ヴュルテンベルク・ソナタ集」みたいな怪物に仕上がるのかなぁ、との印象があります。
美しくはある、のです。
でも、一歩間違うと、グロテスク、かなぁ。

先立つ1742年に、自作初の本格出版として登場した6曲の「プロイセン・ソナタ集」は、3楽章制ソナタ(急〜緩〜急で構成される)の嚆矢として知られますが、まだシンプルで、大バッハの「インヴェンション」の面影を背負っていなくもありません。
第1ソナタの冒頭楽章を例にとりますと、全体の小節数は前半31+後半50の合計81小節、単純化すれば、胸を広げて歌っているような主和音(ドミソ)分散の単一主題を前半で呈示、後半でそれをまず逆立ちさせて元のかたちと対決させ、56小節目からは前半の再現をして簡潔に終わります。(あえて言えば18小節目から23小節目まで短調の第二主題的な翳りがはさまれますが、これが後半で展開されることはありません。)こうした特徴は、セバスチャン・バッハの教材の延長そのものと言えなくもありません。

1番冒頭楽章同士を「ヴュルテンベルク・ソナタ」で比べてみると、前半20小節+後半33小節の合計35小節ですから一見縮んで見えますけれど、プロイセンソナタ第1番冒頭楽章が単純な三拍子であったのと比べると、こちらは四拍子で、しかも前半後半とも二拍子の端数で区切られていますので、実質を対比するには前半39小節+後半65小節の合計104小節として見なければなりません。音の水平な量だけでも3割増です。
そのうえ、ヴュルテンベルク・ソナタの各楽章は、第1番に限らず、プロイセンソナタ各曲よりもはるかにたくさん和音構成音を弾かなければなりません。
プロイセンソナタ第1番の冒頭楽章は基本は2声で、曲の区切り近くにムードが盛り上がってくると3声(ソナタ形式的なところがあるので、呈示部・展開部・再現部と呼んでいいと思いますが、その終わり近くが音楽として盛り上がるために必要となったのです)となります。
ヴュルテンベルク・ソナタ第1番冒頭楽章では8音を一度に打鍵(アルペッジョではありますが)しますし、声部進行は全体を通じて4声の枠を作った上で濃淡をつけています。そのため、色彩感の淡かったプロイセンソナタに比べ、どっしりした安定感がベースにあります。
ところが、響きを安定させておいて、音楽は崩せるだけ崩す。これが曲者です。32部音符だの、16分音符の三連符だのが、きらびやかな装飾や激しい非和声音を伴って、絶えることのない波動のように、次から次へと押し寄せます。
また、プロイセンソナタ第1番の冒頭楽章にはなかったテンポの変化が盛り込まれていて、音楽がフェルマータで凪を作ったりします。

前作が爽やかな風の趣だったとしたら、こちらは、とどまることを知らない潮の流れのようです。

同じくヴュルテンベルク・ソナタ第1番の中間楽章は、3小節目にトリッキーな沈黙の四分休符が置かれたりしていて、たぶん、上手に弾かれても、聞き手は期待していたテンポ感を裏切られて、奇妙な無重力の中に投げ出されます。
他の作品を比べても、こうした極端な違い、大きな発展が、手に取るように分かります。

これらを、聴き手が「うん、素晴らしい」と納得してくれるように弾くのは、実にたいへんなことだろうと思います。
でも、大井さんなら見事にやってのけるでしょう。
伺えないのが悔しいですが、ご好演を確信しております。

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