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2012年10月 6日 (土)

「古楽」はいつからノンヴィブラートになったのか

(思い込みで、団体に混乱がありましたので、修正しました。ご教示ありがとうございました。)

10月4日の大井浩明さんPOC#11(ラッヘンマン&ホリガー作品)、とても良かったです。感想準備中です。別途綴ります。

さて、先に、標題のことについて。

6、7年前、日本では、いわゆる「古楽」的演奏とはどんなものか、について
「ノンヴィブラートで演奏すること」
と本に書いて失笑を買った指揮者がいたり、同時期に日本のオーケストラを指揮したノリントン氏がオーケストラメンバーのみならずコンチェルトのソリストにまでノンヴィブラートを強いた、とそのオーケストラの中でも知名度の高い団員氏が批判的に、これまた本に書いたりしていた時期がありました。
同じ頃に、これまたベートーヴェンの交響曲について新書までお出しになった指揮者さんが精力的にノンヴィブラート的演奏のベートーヴェン交響曲録音をなさっていたりしていて、よく頑張っていらっしゃるなぁ、と頭が下がりましたが、あるCDを聴いたら、ファゴット奏者だけが徹頭徹尾ヴィブラートかけまくりで吹いていて、あたしもとうとう、聴きながら飲んでいたお茶を吹いてしまった、なんてことも思い出されます。

承るところによりますと、同じ頃一世を風靡したアニメの音楽アドヴァイスでいっそう名前を上げられた、くだんのノリントン批判をしたお一人である某管楽器奏者のかたは、いまやノンヴィブラートの積極的支持者のようです。んでもって、それを垣間見た某弦楽器奏者が嘲笑って曰く(また聞きですが)、
「ノンヴィブラートしか言ってないんだよね〜。おかしいよ。ノンヴィブラート、ノンヴィブラートって言ったってさぁ、ボウイングとか運指とか、楽器の構え方とか、みんな見直さなくちゃなんの意味もないのにね!」

・・・なるほど。

いや待て、とかえりみみたくなったのは、この、弦楽器奏者の発言が、耳にはさんで以後、胸の片隅にひっかかっていたからです。

果たして、「古楽」は、いつからノンヴィブラートになったのでしょう?

あたしなんぞ音楽家でもげーじゅつかでもない一市井人ですので、別段何を考えてもお遊びで終わるのですけれど、ふりかえれば、自分も同じ頃から「古楽」ってノンヴィブラート、なる摺り込みが出来てしまったようです。

違うんじゃないの?

たまたま、バッハのブランデンブルク協奏曲集なら、映像がカール・リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団のもの(1970年)、アーノンクール/コンチェントゥス・ムジクス・ウィーン(1982年)のいずれも、手元にあります。
この二つの映像を対比すると感慨深いものがたくさんあるのですけれど、多岐にわたることですので、こんな駄文でもいつも読んで下さっているお友達に向けて、また別に記したいと思います。

いまは、演奏する人数と使用楽器、テンポ、ヴィブラートの点にだけ着目しておきます。

リヒター指揮の演奏当時は、チェロが3プルト(6人)、バスが2プルト(4人)いたり、指揮のリヒターチェンバロを弾く関係上、他にもうひとりチェンバロ奏者を置いていたりします。弦楽器の上声部の人数は、推して知るべし、です。楽器はホルンもバルブ式、トランペットも現代的なピッコロトランペットで、木管楽器も弦楽器もすべていわゆる「モダン」です(便利な言葉が使われるようになりましたねぇ!)。
当然、どのパートもヴィブラートかけまくり、です。
ただ、それでも画期的だったのは、テンポの速さかもしれません。
フルトヴェングラーの録音したブランデンブルク協奏曲第3番は、演奏時間の話だけすれば、第1楽章だけで7:12。ほとんどがリヒターの演奏は(ほんの瞬間音がとんでしまっている【映像品質の関係で編集されたのでしょうか?】のですけれど)6:03ですから、1分も短縮しています。
ちなみに、この楽章は、ムジカ・アンティカ・ケルンの1987年録音ではさらに5:07に縮みます。オリンピックの記録争いみたい!!!

大人数での演奏ながら19世紀〜第二次世界大戦戦後色を払拭したカール・リヒターの解釈が、一連の録音で一世を風靡したことは、周知の事実です。けれどもリヒターは54歳であっけなくこの世を去ってしまいました。

メジャーな世界で、リヒターの早世と見事に入れ替わったのが、ニコラウス・アーノンクールの解釈と録音で、ブランデンブルク協奏曲の音響色彩がリヒターのものと大きく違うことには、当時感嘆の声があがったことを記憶しております。ただ、この人が別に新機軸を打ち出したモーツァルト演奏では賛否両論が渦巻いたのですけれど、ものがバッハとなると、合奏曲の演奏人数なり使用楽器なりがいにしえに戻ることには市場もあまり違和感がなく、むしろ、アーノンクール自身が弦楽器奏者であるからでしょうか、鍵盤奏者であるリヒターのものと比べて表現が柔和な点などは、わりとすんなり受け入れられた印象があります。

では、アーノンクール指揮の演奏では、人数や楽器、テンポはどうなっているか?
採用標準かな、と思う編成はヴァイオリンが各2プルト(4人)、ヴィオラが1プルト(2人)、チェロ・バス・チェンバロが各1名。管楽器はナチュラルホルンや穴あきトランペット(正しくはどう呼ぶんでしたっけ?)、キーのない木製のオーボエやフルートとなっています。ついでながらリコーダーもリヒター演奏で用いられている硬質らしいビカビカしたものではなく、見た目と音ではっきり木製と知れるものです。
弦楽器はヴィブラートをかけていない・・・なんてことは、ところが、全然ありません。
ずっとかけっぱなしです。
楽器本体も、ヴァイオリンには顎当てがありますし、唯一顎当てのないアーノンクール夫人は肩当てを使っています。ヴィオラもチェロも基本的に現代風の指板・糸巻きがしつらえてあり、独奏者が指板の短いものを使うくらいです。リヒターたちと見た目が違うのは、全員がバロック弓を使っていることです。ただし、音色から推測すると、楽器内部のバスバーなりの調整では、現代風な補強は取り去っているのでしょう。
人数を縮小し、楽器を変え、道具を変えているだけです。
そこから来る必然性による物以外、別段、最近「現代的」とレッテルを貼られている類の奏法を、意図的に排除しているようには見えません。
それでも最近我々が「古楽」と受け止めているような音色、響きが、間違いなく聴こえて来るのです。
(ちなみに演奏時間はフルトヴェングラーとリヒターの中間くらいです。)

ともあれ、今の耳からすれば、「古楽」でありながら、決してノンヴィブラートではありません。

試しにムジカ・アンティカ・ケルンの80年代の録音も確認しましたが、ベースにあるのはアーノンクールたちと同じような姿勢のようです。とくに、独奏に際してはヴィブラートはやっぱり、かけまくり、です。

どういうことなのでしょう?

ムジカ・アンティカ・ケルン盤のリーフレットで、Reinhard Goebel氏が、面白いことを仰っています。

「私たちは自筆譜を研究して、ソロとトゥッティには、アーティキュレーション面で重要な技術的相違点があると分かって満足しました(すなわち、ソロパートにはボウイングスラーがある一方で、トゥッティは単純に上げ弓下げ弓をとる、ということが規則づけられています)。このことは、トゥッティはパートごとに複数の奏者で演奏されるように作曲者が取りはからったことを示唆しています。」(原文ドイツ語、英訳から読み取ってみました。)

別団体ですが、コンチェルト・ケルンは2010年にカルダーラ作品ばかりなる素晴らしいCD(リンク貼ってます)を出したのですけれど、それからは、こんにちもなお、作品に沿って同様な研究をしながら時代を追体験しようとするこの団体の、先の人たちに比べていっそう発展した音響を聴くことが出来ます。(独唱Philippe Jarousskyが、とてもいいカウンターテナーさんです。カルダーラはウィーンで超有名だった作曲家ですのに、日本ではあまり知られていないからか、日本盤がついに出ませんでした。この盤では、声楽の伴奏という趣旨が強いところは独奏楽器の意図的なノンヴィブラートも聴き取れます。とにかくケースバイケースで、多様です。)

まぁ、近年の日本のノンヴィブラート一辺倒のヨーロッパ「古楽」観は、われわれにとってはヘンテコリンな「権威」しか生み出さなかった、奇妙な禍いにしか過ぎなかったのでしょう。
といいつつ、自分も「古楽」=ノンヴィブラート、みたいな等式に、いつの間にか染まっていた点、おおいに反省しなければなりません。

敵が「響き」である限りは、言葉で規定された概念で捉えたら勝負にならないのでしょう。
どうやったら「美しく響く」のか、耳が正直に感じ取るものに、素直に応えていくことが、音楽を愛する者の、つねに謙虚にこころがけるべきことなのですね。
(それは実は「ノイズ」と規定されている素材を扱う、素材に接する上でも重要なキーポイントではないかと感じています。)

先日のピノックさん指揮の「モダン」オーケストラ(紀尾井シンフォニエッタ東京)によるモーツァルトを拝聴して感銘を受けたことが、よい反省に繋がりました。

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コメント

楽器屋の観点から申し上げます。
弦がほんもののガット弦であれば、ビブラートなしでもちゃんと音は出ます。つまり、ビブラートは本来の演奏表現の一手段として効果的に使える。
一方で、モダンのスチールやナイロン弦では、ビブラートを特に音の出だしでかけることによって立ち上がり良く音が鳴り始めます。

お話の中の、バロックボーを使っていた人たちは、おそらく弦はリアルガットでしょうから、無理矢理ビブラートをかける必用も、またかけない必用もなかったということではないでしょうか。

投稿: Nom | 2012年10月 6日 (土) 14時10分

Nomさま

いいお話をありがとうございます!

たとえばそういう環境(弦も環境の大事な要素だと思います)を考慮していない演奏が日本で「古楽」と一様に捉えられている現状もあるように思います。
手段先行であってはならず、何故そうするか、をきちんと考えた演奏を、本職さんたちには頑張ってほしいと期待をしておりますし、楽しみにも思っております。

投稿: ken | 2012年10月 6日 (土) 14時35分

趣味でリコーダーを吹いているものです。
おそらくリヒターの演奏でリコーダーを吹いているのはハンス=マルティン・リンデ氏だと思いますが、彼が使用しているのはおそらく黒檀か象牙製のリコーダーです。
アーノンクールの演奏ではおそらく柘植やローズウッドなどのものだと思われます。
見た目は異なりますが、楽器としては(バロックピッチかモダンピッチかは別にして)大して変わりませんよ。象牙、柘植などは当時からよくリコーダーに使われていました。材質の違いで確かに音は変わってきますが、用途(アンサンブルか独奏か)と好みの問題だと思います。

投稿: トシル基 | 2013年7月 2日 (火) 16時27分

 ガット弦については、ケネス・スロウィックが演奏史考証をしています。
 20世紀前半におけるガット弦の急速な衰退と金属弦の普及における奏法変化と作曲家の対応を彼は問題とし、演奏活動で理論実践しているわけです。 

投稿: bun | 2014年3月25日 (火) 00時21分

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