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2012年4月22日 (日)

ややこしや、ややこしや。〜「間違いの狂言」

音楽か、と言われれば、それとはズレるのですけれど、狂言を採り上げてみます。

狂言は能にはさまって演じられるものだとばかり思い込んでいたら、いまは狂言だけの舞台でも見られるのだな、とは、ずっと知らずにいたことでした(岩波講座 能・狂言 Ⅴ「狂言の世界」1987 等)。

西洋のオペラに、もともと「インテルメッツォ」なる息抜き部分のささやかな笑劇があり、それがやがて独立でも高く評価されたことは、西洋音楽史では大きく採り上げられていますね。おかげでペルゴレージの『奥様女中』は単独で楽しまれるようになりました。これは彼自身のオペラ・セーリアである『誇り高い囚人』の幕間に演じられて(1833)評判になったもののようですが、上演形態は分かりませんけれど、すでに作曲者が亡くなって14年後の1752年にはパリで演じられたそうですから、メインであったはずのオペラ・セーリアよりも成功したのでしょう。ただし、「奥様女中」の台本は、先行するアルビノーニのインテルメッツォ「ピンピノーネ」に極めて似ているのだそうです(戸田幸策『オペラの誕生』東京書籍1995年 278-281頁参照、現在は平凡社ライブラリー)

日本の狂言(=能狂言)の演じられかたも元来は幕間劇であることは、室町時代から江戸時代にかけて通念化していたそうです。いまのようにただ狂言と呼ばれるのではなく、「『たてもの』にする芸能の合間に』演ずるがゆえに『間狂言(あいきょうげん)』」であったとのことです。
この「間狂言」にはまた別の意味も持たされていて、能が演じられる中で狂言役者さんに割り振られる役割そのもの(アイ)を指してもいるのですね。これは、能の主役が前シテ(主役の亡霊の仮の姿)・後シテ(主役が怨霊などとなって本性を現す姿)の二部構成と認識されるようになった16世紀以降、狂言方が前シテと後シテの「間を繋ぐ」存在と認識されたことに起因するようです(前掲「狂言の世界」24頁)。後者の意味での間狂言的キャラクターは、西洋でも、大型化したオペラ・ブッファの中にも、たとえばモーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』のレポレロのように存在し続けていました。

大きなものの合間に演じられるものだからと言って軽く見られていたわけでは決してない、とは、すでに世阿弥が『習道書(1430年成立)』に「をかしの役人(=狂言役者)のこと」と条を立てて、いわゆる狂言の劇が軽率になってはいけないことを諄々と説いているところを読むと強く感じることです(小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』たちばな出版平成16年 354-355頁)。これは、狂言が役割とする、世俗の我々に近いおかしみが、世俗的であるが故に時事に先鋭的に突き刺さりがちであったことの裏返しなのかなぁ、と勘ぐったりしますが、本当のところは私には分かりません。ただ、公家の窮乏を描いた狂言を演じてお客を怒らせた事件が1424年にあったことが中世の有名な日記(『看聞雑記』)に記載されているとのことです。
狂言の台本はわりあいにパターン化されていて、時事ネタが盛り込みやすかったことが伺われます。活字で読むと、同じ筋書きがちょっとだけ書き換えられたりするだけで、同系統のものだと「○○同様」とか「○○同断」と記されるだけでまったく省かれていたりして、退屈この上ありません。(たとえば昭和17年刊の岩波文庫『能狂言』上巻の「今まいり」・「文相撲」・「鼻取相撲」・「蚊相撲」を続けて読むと、あとにいくほど、前のものと同じに、とのことわりでの省略が多くなります。続く「秀句傘」はまた違ったところも増えるので省略が少なくなります。231-260頁)こうした、パターン化された台本は、本来は狂言が口承で伝えられて来たものだとの性質に由来するのだとは言え、より本質的には、狂言の内容がまさに役者さんによって演じられることで初めて活き活きとするものだということを、端的に表す現象なのでしょう。

さらには、合間だからといって規模が小さいとは限らなかったものでもあるようです。
また目を西洋に転じますと、ルネサンス期のインテルメーディオは先に見た18世紀のインテルメッツォとは直接の繋がりはないらしいものの、合間におかれるという意味は同じだったそうで、しかもそれらのうちにバロックのオペラに繋がって行く大規模なもの、それじたい独立したと見なせるようなものもあったのだそうです(前掲『オペラの誕生』27-30頁)。

それでも、愉快さを本質としたからでしょうか、演じられる場が融通無碍であるほうがいい、なる暗黙の要請があったのではないか・・・それゆえに喜劇は西洋のものにしても日本にしても、シリアスなものよりはコンパクトな作りになっている傾向があるのではないか、といったような気はしております。

さて、シェークスピアの最初の喜劇と目されている『間違いの喜劇』は、やはり「場面の変化が単純で大広間で十分上演出来る」(小田島雄志訳書の解説、白水Uブックス シェークスピア全集 第5巻 128頁、前川正子氏筆)コンパクトなもので、シェークスピア作品中最短のものです。それでも登場人物は20人以上が要求され、これを大きな舞台で華やかに上演したものは、日本の誇る蜷川幸雄さん演出が映像化されていて(http://www.amazon.co.jp/dp/B000HLDAW2)、それで楽しむことが出来ます(本は松岡和子訳を使用 http://www.amazon.co.jp/dp/4480033041)。これはこれで、出演者全員が男性というところもまた面白さを拡大してくれる要因になっています。

本来のコンパクトさではどう演じられたのだろうか、と想像するよすがはないのですけれど、この喜劇は高橋康也さん(1932-2002)の巧みな翻案を野村萬斎さんがまた巧みに演出した『間違いの狂言』に結実しており、その本は書籍で読むことが出来(http://www.amazon.co.jp/dp/4560035806/)、演技はまた映像DVDで手軽に見ることができます(http://www.amazon.co.jp/dp/B0007YH5OI)。
この『間違いの狂言』は、文字通り狂言役者さんたちによって2001年にロンドンでも上演されて大当たりをとり、映像となっているのは2002年8月に野村萬斎さんが世田谷パブリックシアターの芸術監督に就任したのを記念して公演したものです。

Machigainokyogen まず本においては、舞台のロケーションやキャラクターが洒落っ気タップリに日本化され(シェークスピアではシラクサだったものを瀬戸内の仮想の国<白草>、ドローミオが<太郎冠者>なのは、後者は狂言の定型そのままながら、ロンドンのお客さんたちにも音としてたいへん楽しめたであろうと想像します)、セリフはシェークスピアからさらにエッセンスだけを取り出して、原典すべてを日本語化したときの冗長さを賢明に回避し、シェークスピアが使っていた洒落は日本語の自由な洒落に置き換えられています。登場人物の数も14人以上、というところまで削減されています。
ですが、このコンパクトになった本だけでは、やはり作品として独立しないのであって(これは翻訳台本をそのまま上演した蜷川さんが『間違いの喜劇』を「つまんねぇ、くっだらねぇ本なんだよ・・・だからこそ役者さんたちが頑張っていて面白くしているんだ」といった趣旨のご発言をなさっているのに通じます)、萬斎さんの演出の面白さ、演じる万作さん万之介さん(2010年暮れに逝去)その他の役者さんたちのセリフや演技のリズムによって初めて生彩を帯びるのだと、映像を通じ痛いほどに感じることが出来ます。
逆に言えば、演じられて活きる本を書いたシェークスピアや高橋さんの凄さは、「舞台で演じられることで面白くなる」余地をきちんと残した、喜劇の舞台を知り尽くしている手腕から伺い知ることが出来るのです。
ノリの良い演技を生むためのリズミカルなことばをよりすぐった高橋さんの素晴らしさは、高橋さん亡き後、野村萬斎さんが人気番組「日本語であそぼう」で、『間違いの狂言』のプロローグ
「ややこしや、ややこしや。」
を取り出して大ヒットとなったことを思い浮かべれば誰もが腑に落ちるものではないかと思います。ですので、ご鑑賞に当たっては、映像と本の両方をご覧になることをお勧めします。

C0016702 『間違いの狂言』は、演じる舞台に最小限の加工をしている以外には、狂言に用いられるだけの道具で作り上げられていて、オリジナルのシェークスピアの精神を、オリジナルのシェークスピア喜劇を忠実になぞるのではなく、間違いのない狂言の様式に換骨奪胎することで実現させ、これにより完成の域に達しています。本当に驚くべきことだと思っております。

泣く演技、召使い太郎冠者をぶつ演技、台詞まわし、背景の囃子などは、伝統的な狂言の型をそのまま踏襲しています。男性だけがのぼる舞台で、西洋喜劇ならばすっかり女装したり、日本でも歌舞伎ならば声色まで女性に変えるところを、「女出立」という、衣装も簡単な縫箔と女帯に頭を美男鬘なる長い白麻布の被り物をつけただけで男声色のまま(イントネーションは女性風にします)、と、シンプルに仕立てておしまいです。大道具も一切ありません。
そんなシンプルな作りの舞台を面白くするのは、ちょっとだけ特別に組まれた舞台の枠と幕、伝統的な狂言ではありえないだろう、狂言用の面の豊富な活用であって、これらもつきつめてみれば、伝統の上にある最小限の装置に過ぎません。
2005年に再演されたとき会場で配られたプログラムに、観客がこの狂言を面白く見るポイントが書かれているのを引いてみます。

「この作品の舞台は、瀬戸内海の『黒草』という架空の島。『白草』の国の商人・直介(野村万作)は、妻と双子の息子たち、従者として引きとった双子と船旅をしていたところ、嵐に遭って妻と息子一人、従者一人と生き別れになってしまいます。数年後、成人した直介の息子『白草』の石之介(石田幸雄)は、従者の太郎冠者(野村萬斎)とともに、それぞれの兄弟を探しに『黒草』の国に出かけますが・・・・・・。一体どちらが『白草』の石之介で、どちらが『黒草』の太郎冠者? 二組の双子の取り違えが大騒動を巻き起こします。
 ここで観劇のための鍵を一つ。『黒草の主従は舞台左手の黒い幕から、白草の主従は舞台右手の白い幕から登・退場する』。このほかにも演出的な仕掛けがいくつか隠されています。こうした演出の法則を知っていただけると、登場人物たちの混乱ぶりをいっそう楽しんで頂けるでしょう。」

C0087139 幕以外の演出の法則で分かりやすいのは、面の使い方です。黒草の人々が面をつけていないときは、白草のメンバーは面をつけています。面そのものも、主人公である双子の石之介は「うそぶき」を、太郎冠者は「賢徳」をつける決まりで、現代劇として演じるときには至難である双子の表現を面の着脱でたやすく克服している点は最も愉快な見物のひとつです。
人が肩を組み合って作る門の前後で、面の取り付け取り外しで双子の太郎冠者が滑稽に演じ分けられる場面は、単に演技の巧妙さだけからではなく、舞台装置の省略が産み出す簡素な美を背景にしている点からも、注目すべきであると思います。
狂言の特質である時事の容易な取り込みも、時事というほど大げさではなく2002年上演当時のエンターテイメントネタなのですけれど、映画「タイタニック」の船首でのカップルの場面や「もののけじゃ〜(もののけ姫)」のセリフを取り込んで活かしているところに踏襲されています。

なにより、古語を擬製していながら分かりやすいセリフを、近代劇で弾丸のような勢いでまくしたてるのとは違い、古語のもつ、どちらかというとのんびりしたリズムでゆるゆると流して行くところが、全編なにかの音楽を聴いている感触を与えてくれますので、私には心地よく思われます。

作品が創作された流れでいうと、21世紀の「間違いの狂言」は日本の高橋康也が17世紀のシェークスピアを下敷きにしたもの、17世紀の「間違いの喜劇」はイギリスのシェークスピアが紀元前2世紀ローマのプラウトゥスの喜劇(プロットは『メナエクムス兄弟』、膨らませるために『アンピトルオ』)を活かしたもの、と、また比較に興味をそそられる条件が揃っているのですが、そこまでは首をつっこまずにおきましょう。古代ローマの喜劇が日本人からももっと興味を持たれるべきものだということは、小林標『ローマ喜劇 知られざる笑いの源泉』(中公新書2017、2009年 http://www.amazon.co.jp/dp/4121020170/)を参照下さい。台本そのものの翻訳は、いまのところ遺憾ながら古書でも高価です。

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