« 【音を読む】バランスを崩してみる ハイドン:弦楽四重奏曲ト短調 作品20-3から | トップページ | 【MAP】10月22日(土)大井浩明さんPOC#7 リゲティ  »

2011年10月11日 (火)

日本の音痴考

父・・・オヤジとカラオケに出掛けるのが、私はとても嫌でした。 
カラオケでは、オヤジは演歌をいい気分で歌うのですが、声を引き伸ばす部分になると、それが必ずカラオケよりも長く長く伸びる。それでも歌の間はまだどこかで帳尻が合うからいいのでしたけれど、セリフのところになると気合いが入って、これがまた次の歌い出しに間に合わないくらい長くなる。そんなこんなで、オヤジが全部歌い終わるのは、カラオケがとっくに終わってから、さらに1分後・・・とは言いませんが、その4分の1くらいはみ出すのが普通でした。で、 
「あぁ、今日の歌は、我ながら上出来だった!」 

音の高さも全然合わないのですから、リズム・節共々、正真正銘の「音痴」なのでした。 

ところが、そんなオヤジの歌でも 
「おお、いいねぇ!」 
なんて仰るご同輩がまたいらっしゃる。 
そのかたも、歌い出すとオヤジとおんなじ具合なのです。 
・・・あたしゃ具合が悪くなりました。 

でも、オヤジやご同輩は本当に「音痴」なのかと言うと、日本の伝統から見た時にはどうもそうではないらしい、と思われる記述に出会い、仰天しております。 

中世の人々は、音律に合わせて謡うのがどうも苦手だったらしい。たとえば雅楽の伝書『竜鳴抄』に・・・(中略)・・・『笛に合はせんには、この七の声(注:雅楽を始めとする伝統邦楽の調子、一越・平・双・黄鐘・盤渉の7つ)よりほかに知らず』と記した箇所がある。『笛に合わない声』があるかのような書きぶりである。実際このあと、『弾き物に笛のかぎり合はせなるには、さること(合わないこと・・・筆者注)ありがたし。声に従ひてあるらむ故なり。おほやうこれを心うべし。』と記している。箏や琵琶などの弾き物は声に合わせるので笛の音律に合わないことがある、というのだ。」(高桑いづみ『能の囃子と演出』p.47、音楽之友社 2003) 

「祭囃子の笛にしてもにぎやかに祭を盛り上げることが第一義であり、『音』にひそむ力を発動させて神を降ろすことが、メロディを美しく奏でる以上に重要だったのである。」(同書p.49) 

このあと、言葉を引用した高桑さんの本は、とある狂言の小舞に用いられた歌の復元をしてみせているのですが、復元された歌は、声で謡われる部分は笛とは違った<音程>になっている、つまり、歌のメロディは笛のメロディとはズレているのです。 

そんなものを目にしてみると、私が子供の頃に聴いた民謡は、三味線だとか尺八だとかと速さや音の高さがズレていても平気で歌われていたような気がしてきました。もっともそういう類の歌は以後確かめても録音されたものには残っていないようでしたが、録音に残されなかったということは、裏を返せば私の子供の頃(昭和の高度成長期直前)には音程の合わない歌でも構わないという審美感が岐路に立たされた時期だったのかも知れないのではないか、と感じ始めております。 

笛と歌、というのではありませんが、松平頼則という作曲家さんが1970年に『わらべ唄による こどものためのピアノ曲集』を全音楽譜出版社からお出しになっていました。この曲集、音符はそんなに難しくないのですが、最初の曲から、なんだかメロディ部分と微妙に音がズレた伴奏が付いていて、びっくりします。手にしたピアノの先生たちは、教材に使うのに相当ためらいを覚えたのではないでしょうか? そのせいか、この曲集、いまはたぶん、まったく顧みられていません。 
この人にはまた『美しい日本』という、民謡やわらべ唄や平家琵琶に題材をとった長編組曲があるのですけれど、こちらも昨年、現代音楽のエキスパートであるピアニスト大井浩明さんが再演なさるまで、眠りっぱなしになっていました。楽譜も通販などにひょこっと出てくる時には非常な高値が付いて卒倒させられるのですけれど、さて、大井さんの次に演奏会で採り上げる人は、いつ現れるのでしょうか? 

『わらべ唄による こどものためのピアノ曲集』に戻りますと、けれど、ヘタに西洋風のドミソの和音が付けられたものに比べると、私の遠い記憶の、あの「ズレた」民謡の謡われ方の調べに、むしろ近い気がするのです。もしそれが当たった感覚だとすれば・・・外れているのでしたらすべて、ここで申し上げることは狂人のたわごとになるのですが・・・まず、日本の歌というものは、もともと「音が外れている」感じを持っていたのが<正しい>あり方だったということになろうかと考えるのです。 

あるいは、雅楽にしても能にしても民謡にしても、明治以降、欧化政策の一環として五線譜に書き写されることが増えました。 
ところが、まず民謡について言えば、拍子にきちんとハマるように書き写されたものは、どことなくきっちりしすぎて気持ち悪いし、歌ってみるとオリジナルの歌には決してならない。んじゃ、複雑に、4拍子の次は5拍子、そのまた次は7拍子、みたいな書き写し方をされると、ある人の声の引き伸ばし方とは合っていたのかもしれませんが、同じはずの歌を別の人に歌ってもらうと、また全く違ったりするので、 
「あれ? この聴き取り、間違ってるんじゃないの?」 
となってしまう。 

雅楽を五線に写したものは装飾音符だらけになるのですけれど、その装飾音符を洋楽の決まり事のままに奏でてしまうと、雅楽の旋律が持つ<あいまいさ>のようなものが消え去ってしまって、これまた雅楽にならない。雅楽の装飾音は、洋楽のように装飾の音そのものをひとつひとつきちんと音程化するのではなく、一つの音の延長としてなめらかに切れ目なく高く低くへめぐるだけなのです。 

能に至っては聴いた印象のシンプルさ(まあ、それでも能の謡や囃子はけっこう複雑に聞こえるものですが)とは全く違う、とても入り組んだ楽譜になる。これは、高桑さんの本にあったような事情からか、能の謡と笛とではまったく音程が違い、リズムもあわないことに由来するようです。 
能の場合では、稽古用に、ひとくさり(能をなさる方のお考えになるひとくさりとは違って、単純に<区切ってみるなら一区切りとみなせる>程度の意味で使っています)を8つの拍に当てはめる八割譜をお作りになるのですけれど、これが洋風に8拍を8つの等しい時間の長さと考えてしまったらダメで、とくにお囃子のほうは小鼓と大鼓が顔を見あわせ呼吸を読みあって拍と拍の間の長さを変幻自在に伸び縮みさせるのが前提ですので、これは人間的要素が大きく関わるために、五線譜に落とすためには大変複雑に記号を入り組ませたものを書かないといけなくなってしまいます。 

・・・しかしながら、それぞれ、複雑に書き落とすことが、果たして正しいのでしょうか? 
・・・複雑化された五線譜を目にした時戸惑うのは、「聴いていると、その音楽としてのまとまりは、非常にシンプルなんだがなぁ」と、どうしても考え込まざるを得ないからなのです。 

・呼吸で時間が伸び縮みする 
・音程は、一緒にやる人同士で必ずしも同じものにはならない 
・装飾にあたるものは(暗黙の了解でルール化された)気分で、一つの「伸ばされる」あるいは「切られる」声のなかに<ひと繋がりで滑らかに>押し込められる 

というのが日本の古くからの音楽的特徴だったのだとすれば、それはたとえば五線譜のような別の記号に置き換える時には、なるべくシンプルなものでなければならない。 
ただし、それは「呼吸で時間が伸び縮みする」のですから、楽譜上はその点を注記する程度にしか留められない。さらに、音程もズレるのが<正しい>のですから、 
「五線譜に書かれた音程は、歌う人の都合、笛で合わせる人の都合で、勝手に変えてよろしい・・・けど、出来たら邦楽いっぱい聴いて正しいセンスでやってちょうだいね」 
くらいの注釈を施すしか手が無いんじゃないでしょうか? 

極めて乱暴な言い方ですが、そんなあれこれを考えますと、 
「ひょっとしたら、とても音痴だ、と決めつけていたオイラのオヤジのほうが、オイラなんかよりずっと、日本人的には正統な音感の持ち主だったんじゃないだろうか? きっとそうだ!」 
と思い直したくなってくるのです。 

・・・いや、それでもやっぱり、私はまたオヤジとカラオケに行くのはごめんです。 

(><)

|

« 【音を読む】バランスを崩してみる ハイドン:弦楽四重奏曲ト短調 作品20-3から | トップページ | 【MAP】10月22日(土)大井浩明さんPOC#7 リゲティ  »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 日本の音痴考:

« 【音を読む】バランスを崩してみる ハイドン:弦楽四重奏曲ト短調 作品20-3から | トップページ | 【MAP】10月22日(土)大井浩明さんPOC#7 リゲティ  »