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2011年10月19日 (水)

「第九」終楽章オーケストレーション 237-330小節

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ベートーヴェン「第九」終楽章の、声楽が入ってからのオーケストレーションが詞の意味を強めているのを、もっとも図式のはっきりした「Seit umschlungen… 595-654小節」部分について、先に観察してみました。

http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/seit-umschlunge.html

バリトンの有名ながら短いレシタティーヴォに始まる「歓喜の歌」の冒頭部分(237小節以下)は、ベートーヴェンは基本の骨組みを「有節歌曲(同じメロディで1番、2番・・・と歌っていく)」として発想しているため、「第九」を最も親しみ深いものにしているこの箇所については、詞の意味を強調するなどというふるまいは見られない、と思われているかもしれません。
2番に当たるところまでは同じメロディになっています。でも、3番にあたる部分は変奏されていて、違ったものに聞こえるはずなのです。そこがベートーヴェンの上手いところで、全く違うかたちの3番が、2番までと同じムードで聴けるようになっていることは、まず留意しなければならないでしょう。
そのうえで、1番・2番・3番の構造の話になります。

1番は、バリトン独唱が「Freude !」と高らかに呼びかけるのに対し、男声合唱のバスのみが力強く応答するのは周知の通りです。それが2度繰り返される4小節の中で、いわゆる「歓喜の主題」はオーボエ・クラリネット・2本のファゴットで(フォルテになっている歌とは対照的に)ピアノ・・・すなわち小さく、この場合は柔らかく予示されるに過ぎません。これは、終楽章前半の器楽だけの部分で初めて「歓喜の主題」が現れ、チェロとコントラバスのレシタティーヴォによって肯定されるときと同じ編成になっています。
「この主題でいくんだ!」
は器楽だけで既に晴朗な響きで肯定してありますので、声楽が入ってからは、いよいよ「歓喜の主題」を歌い上げていくほうに力点をおくことになります。したがって、器楽部での最初の登場ではオーボエ2番・クラリネット2番が後発で「これでいいのかなぁ」と様子をうかがうように出てきていたのに対し、声楽が歌い出すこちらでの予示は「これだったよね!」と確認をとるものになっていて、2番オーボエと2番クラリネットは登場しません。
1番部分は、歌詞を読むと、決して「地味」なものではありません。むしろ、溢れ出すなにかを押えきれずにいるような派手ささえあります。
ところが、ベートーヴェンはこの部分は独唱バリトンひとりだけに歌わせ、まるでハープ代わりであるかのようなピチカートの弦に伴奏をさせます。それに対しオーボエとクラリネットが、これまたのどかなオブリガートを付けるだけです。オブリガート側のリズムは、器楽だけで「歓喜の主題」が頂点を迎えた時に弦楽器が奏でていた合の手を元にしています。器楽の頂点の時には管楽器の側がまるで吹奏楽のように「歓喜の主題」をがっちりした和声で高らかに奏でていたのにも関わらず、歌の第1番の後半リフレインは合唱も弦楽器もユニゾンで、まるで民衆の素朴な斉唱のように聴かせるだけです。・・・いっぽう、管楽器の合の手側に目(耳)を向けますと、これは器楽部の頂点で弦楽器が奏でていた時に比べると曲線的な音型を交えているのがはっきり分かります。
斉唱に持たされた「意味」は、おそらく歌詞中の「Alle Menschen」なのではなかろうかと思います。「みんながひとしく」を訴えたいのであるならば、それは多様に和声や旋律線を分業して歌われるべきではない。そのため、主題側は声楽も弦楽器も同一の旋律線を一緒になぞるのです。また、そうなると、管楽器が持たされる役割のほうが「(歓喜の天使の)柔らかな翼 sanfter Flügel」の象徴ということになるのでしょう。この部分は、1番にあてた詞の「享楽的雰囲気」をいったん保留しておく・・・それは3番までの展開を単調にしないためにも必要だったのでしょうし、Seit umschlungen前の6拍子の高らかな合唱で中間のクライマックスを作るためにも、また、この部分の歌詞本来のムードを後半の開始部とも言える655小節からの2重フーガまで留保することで「歓喜」の強調をはかるためにも、設計上必須だったものと推測出来ます。

2番部分、3番部分の器楽は、声楽抜きでこれだけ取り出しても、とてもまともな伴奏には聞こえない不思議な書き方です。すなわち、2番3番の部分は声楽と器楽、とくに後者が自立できる関係にはありません。2番部分で独唱者のアンサンブルの背後で鳴るホルンの断片的な和音では、「歓喜の主題」はちっとも補強されず、2番後半のリフレインで合唱が参加する部分になって初めて、オーボエとクラリネットの応援を得て「それらしく」なるのです。これは3番部分の木管楽器による独唱アンサンブルの模倣(八分音符音型)が切れ切れであるところについても全く同じことが言えます。すなわち、独唱アンサンブルは、これらの部分ではオーケストレーションの一部として書かれているのです。ベートーヴェンはなぜこんな書き方をしたのでしょう?・・・独唱アンサンブルで形作られる和声を、それ以上厚化粧する必要を感じなかったからなのでしょう。

2番部分は直接的に歌詞と関わるものは何も書かれていません。が、声のアンサンブルが器楽に依存せず自立しているところに注目するならば、多少こじつけの感は否めませんが、「人間としての自立、人間としての同胞の獲得」を、この書法にこめたと見なしてもよいのではないでしょうか? それがこの部分の詞の内容でもありますから。しかも、合唱はまずバスが1音先行して「Ja」の連帯的独立人格肯定を強調する面白さを引き立てます。「(できないやつは)泣いて去れ! Weinend sich aus diesem Bund !」が「去っていく」ようなピアノ(弱音)に転じるのは歌詞に即しているとして有名ですけれど、それは先行する独唱アンサンブルの自立による準備があって初めて効果的になっているわけです。

3番部分は独唱~合唱と木管楽器による、喜んで踊っている足取りの象徴ともいえる八分音符音型と、光がちらちら漏れ来るような弦楽器による装飾音型の二種のみが、321小節に始まるコデッタ部分にたどり着くまで執拗に対峙しているだけです。したがって、提供される図式は非常にシンプルであり、そのことで訴える力を強く持ち、声楽の入った最初の部分の第1段を締めるのに充分な・・・しかも「後にまだ何か続くんだな?」ときちんと期待させ得てもいる・・・面白いコデッタ(小結尾)を形成しています。321小節からのコデッタは und der Cherub steht vor Gott をあらためて強調して扱い、光が勝利した、なるイメージを容易に抱かせますので、20世紀前半の演奏では最後のフェルマータがいかに力強いままどれだけ長く引き伸ばされるかの競争みたいな演奏が多々なされ、録音されれば名演として愛聴されてきました。・・・でも、それではここで興奮が終わってしまいます。ベートーヴェンの仕掛けは、Seit umschlungen まで終わってからいよいよ本格的になるのでして、この楽章の全体をどう捉えるかを考慮したとき、330小節のフェルマータが本当に興奮の頂点的段落を形成してよいのかどうか、は、演奏に際してよくよく検討されなければならないことでしょう。・・・それでも、私なんか、フルトヴェングラーが15秒くらい引き伸ばしていた演奏にとっても感激した口だったんですけれどね! (^^;

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