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2011年8月24日 (水)

『人生が絡まるくらくらしっく音楽入門』ほんとさがしリスト~第2章編

序章第1章第2章第3章第4章もうおわり


時間のあるときでないとできませんので、第2章に参ります。
第1章が【参考】過多となりましたので、気をつけます〜。
ってか、拾い出すだけで疲れるので全部はリスト化しません。【参考】はホントは端折りたい・・・

コーランの朗唱は初期《グレゴリオ聖歌》と同時代の、古代アラブ語キリスト教聖歌と密接な関係があります。(56頁)
【参考】
というか、古代アラブ語キリスト教聖歌なるものを私はまったく知りません。何冊も本をめくりましたが出てきませんし。。。
第1章編でも記しましたが、コーランの朗誦はキリスト教聖歌との類似点は全くありません。だってコーランのテキストそのものを唱え聞かせるものなんですもの。

聖アンブロジウスの作詞による《アンブロジウス聖歌》(57頁)
【参考】
たとえば
http://2style.net/misa/kogaku/early022.html
アンブロジウスが作詞した保証のある「アンブロジオ聖歌」も、探せば中にはあるのでしょうかね? アンブロジウスが作詞した、と明記されたアンブロジオ聖歌は私は見つけておりません。

残響の少ない巨大なゴシック教会ができたおかげで、より複雑な構造を持つ、「白けない音楽」が誕生した(62頁)
【参考】
教会建築の音響効果については
http://www005.upp.so-net.ne.jp/kensoken/ken3103-2-22.html
(武蔵野音大 溝口武俊名誉教授・・・音楽・音響空間論)
省略した本文にはロマネスク建築よりゴシック建築のほうが響きが少ないと繰り返し言われているのですが、このサイトを拝読するかぎり、残響についてそのような傾向は窺われません。反響と残響の混同があるのではないでしょうか?(疑問は言わないんだったな!)

ヴィヴァルディをはじめとするイタリアのバロック音楽には「転調」が少ない。(66頁)
たとえば(略)ヴィヴァルディの(略)「春」とバッハの《ブランデンブルク協奏曲第三番ト長調》(を聴き比べてみて下さい。・・・67頁)
【参考】
・・・のまえに、ソロコンチェルトである「春」とそうではないブランデンブルク協奏曲第3番が何故聴き比べの対象になるのか、と素朴に奇妙に思っております。(意見は言わないんだったな!)
試しにソロコンチェルト同士で楽譜を「見比べ」ます。
ヴィヴァルディL'Estro armonico Op.3-6(イ短調)とゼバスティアン・バッハのイ短調ヴァイオリン協奏曲なら、ヴァイオリンのソロコンチェルトである点でも調性でも同じですから、少しはバランスのとれた比較が可能でしょう。その冒頭楽章についてだけ簡単に記しておきます。
ヴィヴァルディのほうは4分の4拍子79小節、バッハのほうが4分の2拍子171小節ですから拍子を前者と等価にすれば85小節相当で、これなら作品規模もさほど変わりません。
バッハの最初のトゥッティ部分が独奏前にホ短調(属調)に転調する点ヴィヴァルディより凝っていますし、音の動きには調を一時的に変えたと見せかける動きが目立ちますが、大きな固まりとして部分部分を支配する調を観察しますと、全体の構造としては(区分点はアバウトこのあたり、です)
ヴィヴァルディ:1)31小節まで【イ短調】2)57小節まで【ホ短調】3)最後【イ短調】
バッハ:1)58小節まで【イ短調】2)98小節まで【ホ短調】3)122小節まで【ニ短調】4)最後【イ短調】
で、バッハのほうが1セクション多いかと思います。
それでもせいぜい1セクション多いだけ、と言えば言えます。
擬似的な転調(本格的な転調ではないから、そのセクションを支配する調に味を加える役割をしていると見なすべきでしょうか)がバッハに目立つのはバッハという個人の個性であってイタリア全般と対比されるものであるとは思えないのですが、まあ、第1章編に引き続き、主観です。ただ、擬似的な転調を孕みながらも、各セクションを支配する調への「しがみつき度」は、バッハのほうが強いと感じます。
ヴィヴァルディも第2のセクションは明確に属調に転調しています。また、第2のセクションの後半と最終部分は擬似的な転調で飾っており、ほぼ似た遷移を見せますが、最終部分のほうについてみるならば、イ短調〜ニ長調〜ト長調(部分的にハ長調)〜イ短調(部分的にイ長調)というぐあいに凝っています。
擬似的な転調に使用されている調はバッハの作例も全く同じ範囲に収まっています。

イタリアとドイツでは、そもそも低音の呼び名からして違います。イタリア語では「バッソ・コンティニュオ(basso continuo)、通奏低音と呼ばれます。コンティニュオは英語の「コンティニュー(続く)」と同じですから、まさに「通奏」です。それに対して、ドイツ語は「ゲネラルバス(Generalbass)」ジェネラルつまり「一般的な低音」です。では、実際にはどこが違うのでしょうか?(68頁)
【参考】
Generalbassの日本語訳は新たなご提案でしょうか・・・
英語を使って分かりやすいご説明痛み入ります。ところで、論じられている「低音」の呼び名は英語の場合はthrough bassですけれど、これはまた何か違うのでしょうか? イギリスバロックでは低音はスルーされる?
いろんな辞事典でも本でもそうですが、たとえば橋本英二『バロックから初期古典派までの音楽の奏法』(音楽之友社 2005)の230頁では日本語の「通奏低音」に対してイタリア語はbasso continuo、ドイツ語はGeneralbass、フランス語はbasse continue、英語はthrough bassが当てられています・・・ってか、それらの外国語の日本語訳が「通奏低音」なんですね。
また、先のイ短調ヴァイオリン協奏曲の冒頭楽章同士ではヴィヴァルディとバッハの書法に大きな差があるとは、節穴の目の私には全くその影もかたちも見当たりません。

何と言ってもドイツ的ポリフォニー、多声楽の特徴は「各声部の平等」です。(69頁)
【参考】
・・・になるようなものを知りません。ドイツ的ポリフォニーと典型的に呼べるものをも私は知りません。大バッハより後の世代でご勘弁願えるなら、ハイドンやモーツァルトの弦楽四重奏曲を例にとっても、それぞれの初期作品での第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの扱いがせいぜい対等だというくらいで、同じ初期作品の中でヴィオラやチェロがヴァイオリンたちと対等な書法で書かれているだなんてお世辞にも言えません。弾いてミソ。

そんなプロテスタントの多声楽での「低音」ゲネラルバスは、さまざまな転調を含め、ニュアンスと表情を次々と変えながら動く、いわば「歌う低音部」なのです。(69頁)
【参考】
・・・のちほど。

平均律は、プロテスタントの音楽が大いに工夫して発展させた新しい音楽音響の世界(70頁)
【参考】
ヨーロッパにおける「12等分法」はルネサンス期のイタリアにはもう見られていた、と承っております。12等分律を算出しやすくする音程の現行の単位「セント=1オクターヴの1200分の1」の考案者は、イギリスの音響学者アレグサンダー・エリス(1814-90)です。(1880年代の考案)

バロック時代の鍵盤楽器の多くは、純正律そのものではありませんが、「中全音律」(ミーントーン)などの(綴り手補:平均律に比べて、と仰りたいらしい)「より純正律的なチューニング」で調律されていました。(72頁)
【参考】
まあたとえばこれなんか読みましょうか・・・
http://www.amazon.co.jp/dp/4393930223
高い本ですね〜(><)
中全音律たちが「純正律により近い」のはいわゆる平均律(12等分律)が普及した後の結果論に過ぎないことについては、このキルンベルガー著作などをベースにしたうえで音律について触れた書籍を読めば切に感じられることかと思っております。

バッハが愛用した「平均律」的な調律(73頁)
【参考】
いちおう「平均律《的》」と《的》がついていますね。んじゃこれ以上はやめようか。
と思いましたが、これもあちこちで注意を促すのを目にできますけれど、先の橋本著214頁の脚注にこのようにあります。
「バッハの《Das Wohltemperierte Kliver》2巻が『平均律クラヴィーア曲集』と訳されているのは不正で誤解を招きやすい。等分した平均律の意味はどこにもなく、wohlは『よい』、したがって『よい調律のクラヴィーア曲集』と理解すべきである。」
なお、バッハがどのような「良い調律」を愛したかについては何も分からないというのが正解だと私は思っております。

プロテスタントの世界では、「宗教家」と「音楽家」の区別もあいまいでした。つまりバッハは、音楽を通じて信仰する宗教家として、神の創造した「調和」の素晴らしい秘密を音楽で解き明かそうとしたのです。(75頁)
【参考】
「宗教家」とは何をさすのか、が根本的には問題かと思いますが、いちおう「聖職者」と同義だとの前提に立つならば、ヨハン・セバスティアン・バッハや音楽家になったその息子たちが「聖職者」だと解された伝記的事実があったかどうかは全く確認がとれませんでしたので、取り急ぎここにご報告申し上げます。

長く天動説を捨てなかったカトリックに対して、プロテスタントは地動説と相性のよい宗派です。(75頁)
【参考】
・・・になるもんなんてあるんかいな。

クラシック音楽はキリスト教抜きに語ることができません。(77頁)
【参考】
雅楽は神道抜きに語ることは出来ません。
能楽は鎌倉期の日本仏教抜きに語ることは出来ません。
京劇は道教抜きに語ることは出来ません。
ガムランはヒンズー教抜きに語ることは出来ません。
・・・ってか?

バッハ自身はプロテスタントですが、カトリック教会からの作曲依頼も受けました。なかでも一番有名なのは《ロ短調ミサ》でしょう。(77-78頁)
【参考】
もう、どうでもいいや・・・
と言ってはいけませんね〜
第1章編であげたヴォルフ『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ』(春秋社)にある次の記述だけをあげておきます。
「私たちの知る限りでは、《ロ短調ミサ曲》は、バッハが何か特別な機会のために書いたものではなく、パトロンに委嘱されたものでもなく、また、1750年より前に全曲演奏されたことはない。」(p.692)
なお、ルター派においてはラテン語テキストによるミサ等も許容されたとの記述はあちこちで見かけるはずですけれど、面倒なのでいまは探しません。
カトリックと対峙するものを「プロテスタント」という一語に集約して捉えることの是非は、日本の仏教を平安仏教と鎌倉仏教に二分して捉えることが何を引き起こすかについて類推してお考え頂ければよろしいかと思います。

(ここからしばらくはとばします。西ヨーロッパがどうのカール大帝がどうのについても、すんなり行く話ではないし、参考を並べ立て出すとかなりぐちゃぐちゃになりますから、同様と致します。)

ハイドンは生涯に104曲、モーツァルトは41曲の交響曲を書いています。(83頁)
【参考】
それぞれ、最初にホーボーケン番号なりケッヘル番号がけられた当時に判明していた数です。現在はそれぞれもう少し多めに作られたと思われていたり、欠番が生じたりしています。

ハイドンやモーツァルトが毎年何曲もの交響曲を書くことができたのは、彼らがソナタ形式を含む一定のパターンを持っていたおかげです。(84頁)
【参考】
ゼバスティアン・バッハだとかエマヌエル・バッハなんかも「一定のパターン」があったから多作だったのかどうかは一切判明していません。

・(ベートーヴェンの交響曲は)全部でたった九曲、ハイドンやモーツァルトに比べるとかなり寡作(89頁)
ピアノソナタに関してはモーツァルトよりベートーヴェンのほうが多作。あるいは、仮に作品番号ベースで数えられるものが多作寡作を判別する要因になるのであれば、ベートーヴェンのほうが総合的にはハイドンやモーツァルトより多作。あるいは交響曲だけについて言うなら20世紀のミャスコフスキーはモーツァルト並マイナスちょこっとくらいには多作。あるいは作品が有名ではない人たちにはチェルニーやライネッケのようにとんでもなくたくさん作品番号を付けていた人たちもいる。あるいは、シューベルトはベートーヴェンよりさらに後輩だが多作(ただし交響曲の数はベートーヴェンよりちょっとだけ少ない)・・・等々。

イエス・キリスト名歌手説問題、山田一雄さんの名前の表記問題については触れないでおきます。

あいだがあくと思いますので、ちょっと言ってしまうと、ハートメッセージを大切にしたかったのなら、「知識の披瀝」みたいな本になさらなければ良かったのに、と、この種の書籍を覗くたびに残念に思います。小泉純一郎・高嶋ちさ子・宮本文昭諸氏のような本にしてしまえば、充分だったんじゃないでしょうか?

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