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2011年8月22日 (月)

『人生が絡まるくらくらしっく音楽入門』ほんとさがしリスト〜序章編

序章第1章第2章第3章第4章もうおわり


地味〜な記事で申し訳ございません。

かねてから、本というのはご著者がさまざまご研究なさり、さらに熟考なさったご自分の脳みそを漬物石で潰していい塩梅になったのを見計らってお書きになる、恐れ多いものだと思っておりました。だから敷居が高いのかな〜、という具合にです。
ですが、昨今、本は大変お気軽に出来上がり出版される、そしてそのスピードの鮮度が大事なものになったようで、活き活きしたものを読めるのは大変に喜ばしいことであります。
で、急いでかかれるが故に、読者にもまた新たな楽しみを提供する「おまけ」がつくようになりました。
書かれていることが果たして本当なのかどうなのかを当てる、というのは序の口であります。序の口には危険もいっぱいで、たとえばクラシック音楽についてのその類の本に
「レクイエムを葬儀で流して涙を流す人たちはバカに見える」
なる記述があったとしても、決して怒ってはなりません。
レクイエムが歴史的にはヨーロッパでも葬儀で用いられたことの傍証は、たとえばず〜っと前に日本語訳も出た『音楽都市ウィーン』(音楽之友社)などに目を通せばあっさり分かります。が、「バカに見える」記述に対し正義感に溢れて「ふざけるな!」と頭に血をのぼらせて文を綴ろうものなら、そんな文はこの世から抹殺されます。くれぐれも、クレーマーにならず、辞を低くして丁寧にご指摘申し上げなければなりません。いや、事実がどうであるか以前に、どんな音楽を背景にしていようが関係なく葬儀で涙している人を「バカ」と決めつける感性が変態である訳ですが・・・いかんいかん、そんなことは絶対に文にしてはいけないわけです。ご指摘申し上げようが黙っていようが、ご著者様にはなんの影響もございませんので、このことは、記事削除のやむなきに至ったことのあるブログの綴り手として、強く強く御警告申し上げておきたいと存じます。

じゃあ、序の口から発展して、ホントがどこにあるかわからないくらい渦を巻いてしまっているのを目撃したら、私たちはそれをどうすればいいのでしょう?

・・・すみません、どうすればいいのでしょう、ではありません。

どう、楽しめばいいのでしょう?

ほんとはどこにあるのかな〜 (^^)」
と、笑顔いっぱいに探せばいいのです。

恰好の書物が出版され、マニア(?)のあいだで重宝されているようですので、小分けにしてご紹介していこうというのが、本記事の趣旨でございます。

ストレートにタイトルをご紹介してしまいますと、マニアックな価値が減少しますし、かつは決してこれを「クラシック音楽」入門として読んではいけません・・・初歩者が読むにはパズルが難解ですし、私も実はそこまでの資格がありません・・・から、仮に本記事標題のようにさせて頂きました。

このタイトルの前半部は幾通りにも読めるのですが、ちと遠慮しておきます。
出版社はこんなスピーディ仕上げの本ばかり出していらっしゃる訳ではなく、丁寧な記述の本も少なくありませんので、もしかしたら今回のはご出身者かどなたかがのれん分けしてもらったのかもしれないと勘ぐっております。ですので、その前の名称を推測で申し上げますと、減糖者親書という、ある病気の方の故人もとい個人版元さんではないかと思っております。

初回でもあり、前置きが長くなりましたので、序章から幾つか。
どれがただしいか、ただしそうか、ただしくなさそうか、ということは申しませんので、どうぞご自由にイメージを膨らませて下さい。
なお、今回のリストにつきましては、文句をつけると「難癖」になるきわどいラインのものが多ございますので、イマジネーションの過大な膨張にはくれぐれもお気をつけ下さい。どこの頁に記載があるかは念のため注記します。また、確かな研究等で参考になることがある場合は、その一部のみ、今回に限らず併記して参ります。もうすでに実物を手に取っていらっしゃるからからすれば拾い落としもあるかと存じますが、ご容赦下さい。

あ、「ほんとだね〜」というものには、別にマイナスイメージを持つ必然性はまったくございません。・・・って、マイナスイメージを推奨する訳ではございませんです、はい。

<序章>から

私の場合は、クラシック音楽を聴いて心が安らぐというのではなく、作曲家・指揮者として音楽を実際につくるにあたって、どんなときでも沈着に最善の対策をとれる心のトレーニングを、長年積み重ねてきました。(16頁)

少なくとも私自身は、心に音楽があることで、混乱のなかでも正気が保て、冷静な判断や的確な行動をとることができました。(同)

いわゆる「ポップス」だけでは、人間が抱える複雑で奥深い心のヒダを、広くカバーしきれるでしょうか?(20頁)

ポップスだけでは手の届かない痒いところが八割か九割残る、そんな感じがします。たとえば、災害のさなかにある人、大切な人を失った人、そんな人たちの力になる音楽は、大半のポップスの射程より遠くにある。(21頁)

【注意】ご著者は別段ポップ等を軽く扱う意図はないことは29-30頁の記述から伺えますので、そこは勘案してイメージを描かなければなりません。

ポップスと違って、クラシック音楽の多くは歌詞がありません。(24頁)

【参考】
ざっとしたことで精密でないことを予めお詫び致します。
まず、ここに記載のモンテヴェルディの作品表に器楽曲は見当たりません。
http://www.interq.or.jp/classic/classic/data/perusal/saku/Monteverdi.html
バロック以前には器楽曲は一般的ではありませんでした。1960年代までならバロック以前はクラシックとは別に聞かれていたかもしれませんから、まあ、上文もその延長だと見れば良いのでしょうか?
それ以後になりますと、単独作曲家の例では不足、かつ極端なのもいけませんが、たとえばリヒャルト・ヴァーグナーの器楽作品は普通には聴く人はいません。ヴェルディ作品とプッチーニ作品は弦楽四重奏しか聴かない、ってかたは、希にはいらっしゃるでしょうか? 希でもなかったらごめんなさい。
聴かれている聴かれていないに関わらず、一般に、大バッハ以降の作曲家の作品の実数は器楽曲のほうが多く見えますが、作品の編成などについてはその作曲者の職掌と密接に関わっているのではなかったでしょうか? 比較的そこから逃れた最初のほうの例であるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトについては、その交響曲(幼時から没する数年前まで書き重ねられました)の演奏を録音全集にまとめても、嚆矢のひとつベーム盤でCDは10枚で完結、これは彼のウィーン時代「だけ」のオペラをCD化した場合より少ない枚数に過ぎません。このウェイトをどう考えたら良いのか、是非教えて頂きたく存じます。シューベルトはドイッチュ番号が990までの作品表を参照しましたが、A、B等の符号をつけた同番号作品もあるとはいえ、この中で器楽曲は管弦楽25、室内楽41、ピアノ曲134の計200作です。シューマンやブルックナー、ブラームスの作品の内訳なども数えてみて下さい。・・・わぉ、ほとんどドイツ系ばっか!

過去につくられたクラシック音楽が未来志向になる理由の一つは、オリジナル音源にとらわれない音楽であることにあります。(26頁)

クラシック音楽は常に「いま誕生した音楽」「生まれたての音楽」として私たちの前に現れます。(28頁)

バッハの《ゴールドベルク変奏曲》は、もともと、不眠症の王侯貴族が安眠用に作曲させたものでした。(31頁)

【参考】
バッハの弟子フォルケルによるゴールドベルク変奏曲についての記述(クリストフ・ヴォルフ『ヨハン・ゼバスティアン・バッハ 学識ある音楽家』日本語訳585頁から引用、春秋社)
(依頼者であるドレスデンのヘルマン・カルル・フォン・カイザーリンクが)「ある時、バッハに、『私の(お抱えのハープシコード奏者ヨハン・ゴットリープ・)ゴルトベルクのためにクラヴィア曲を書いてほしい。私が眠られぬ夜に、それを聴いて少し陽気になれるような、静かで、幾分生き生きとした性格の曲を』と言った。」
この記述が上文の説の元になったものです。ただし、ここには安眠のため、とは全く記されていません。また、この記述が真実だとするとハープシコード奏者ゴルトベルクはこの当時14歳でちょっと都合が悪く、また作品自体にカイザーリンクへの個別の献辞がないことから、この「変奏曲」は個別に委嘱されたものではなく、「クラヴィーア練習曲」シリーズ全体の概念に統合されていたもの(ヴォルフ)との見解が、現在では受け入れられています。

・・・序章からは、これくらいにします。

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