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2011年8月24日 (水)

『人生が絡まるくらくらしっく音楽入門』ほんとさがしリスト~第1章編

序章第1章第2章第3章第4章もうおわり


序章からリストを作る前には前置きが長過ぎましたので、さっそく、第1章に参りたいと存じます。
指針は序章の際と同じです。
ホントもあるかもしれませんから・・・って、嘘もあるかもしれないってことですか?・・・よ〜く眺めて下さいね〜!

減糖者親書『人生が絡まるくらくらしっく音楽入門』第1章から。体力的にパズル焙り出し全部は無理です。

一般的な西洋音楽史の本を開けば、その歴史は《グレゴリオ聖歌》から始まったとされます。(34頁)

【参考】
http://ow.ly/6ante
そうだったんですか・・・知りませんでした。(T_T)
音楽科のある高校なんかでも副読本によく使われている、岡田暁生『西洋音楽史』(中公新書)の小見出しにも
「初めにグレゴリオ聖歌ありき」(p.7)とありました。勉強になるなぁ。
ちなみに、皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』(旧版 講談社現代新書 1977)は、ヨーロッパ音楽の古代との断絶を概説した後、東方教会聖歌(シリア、アルメニア、コプト、アビニシア、ビザンツ)から具体的記述を始めています。皆川さんのご説明の通り、以後の時代のアラブやトルコの影響が推測されるものの、これらのほとんどは、実際に歌われている録音がCDで出ています。また、グレゴリオ聖歌は「古代末期から中世全般という長い年月をかけて、ひろい地域のもろもろの音楽的要素を同化し融合しつつ、徐々に形成されていった結晶体」(p.35)であると述べています。
「一般的な西洋音楽史」ではないかもしれませんが、ゲオルギアーデス『音楽と原語』(木村敏 訳、講談社学術文庫 訳書1994)では、古代ギリシャの押韻の規則と中世ヨーロッパ(カロリング朝期)音楽の連環を探る試みを具体的記述の最初に持ってきています。いずれの書も、岡田著のように「グレゴリオ聖歌こそ後の西洋音楽に直接つながっていく、その最古のルーツ」(p.7)のような断言は(おそらく注意深く)避けています。それは、記譜された音楽が中世期には教会のものに限られたとの事実を踏まえているからだろうかと思いますが、これは私の主観です。いずれにしても、皆川著作・ゲオルギアーデス共に、グレゴリオ聖歌を通じて、そこに見られる特徴のほうに注目しているのであって、グレゴリオ聖歌そのものを「目的」にした記述はしていませんので、御興味がありましたら覗いてご覧になって下さい。(あ、取り上げたのは勇み足だったかな? 本書第2章ではこの点補足がありますね〜)

もし《グレゴリオ聖歌》を聴かれるなら、私はマルセル・ペレスたちアンサンブル・オルガヌムの演奏を圧倒的にお薦めします。初期の聖歌がイスラムとも深い関係にあったことがイスラムとも深い関係があったことがはっきりわかる、屈指の名演です。(35頁)

【参考】
そもそも信仰を歌うのに屈指の名演が特定出来るのかどうか・・・私にはなんとも申しようがございません。
なお、キリスト教聖歌の歌われ方の古態がどのようであったかは知りようがありませんし、イスラーム関連の朗誦の古態についても同様です。これが古態だ、と確実に言える歌い方の録音が存在するのでしたら、ぜひご教示下さい。なお、上記録音に限らず、イスラム的かどうかは分からんがアラブ的だなぁ、と感じられる録音は、案外豊富にあります。
また、キリスト教聖歌の成立はコーラン(クルアーン)の朗誦よりも当然古く(皆川著では紀元400年頃のアウグスティヌス『告白』からの記述を傍証に引いていますし、聖書にも、さらに先立つ歌唱の記述があることはご存知の通りです)、影響関係を言うなら時系列が逆ではないかという気がします・・・あ、言っちゃった。
(><)
まあ、それもまた先行する東方聖歌があったのがアウグスティヌスの記述から判明するので、所詮、ニワトリが先か卵が先か的な話にしかならないのですが。この点は、先に皆川著に「以後の時代のアラブやトルコの影響が推測されるものの」といったような類の記述があるところから推して知るべしです。
ただし、各種のキリスト教聖歌は、クルアーン朗誦の音声を聴くかぎり、クルアーン朗誦とは全くの別物であるとしかお感じにならないだろうと思います。これもCDで聴くことができますし、幸運にもイスラムの信者のかたをお友達にお持ちでしたら、実際に拝聴するチャンスに恵まれるかも知れません。

(ついでながら、すでに21世紀に入って10年以上経つのに、20世紀初頭、明治時代につくられた音楽を「現代音楽」と呼ぶのもおかしな話ですね。)(37頁)

【参考?】
次の作曲家の作品のうちに「現代音楽」と呼ばれているものがありますかしら・・・ご教示下さいませ。
明治より後も含みます。
マーラー、リヒャルト・シュトラウス、フォーレ、サティ、ドビュッシー、プッチーニ、レスピーギ、プロコフィエフ、ミャスコフスキー、ショスタコーヴィチ、コープランド、エルガー、ブリテン、瀧廉太郎、山田耕筰、橋本国彦、諸井三郎・・・

(略)ハンス・フォン・ビューローや、(略)エドゥアルト・ハンスリックなど(略)が、1世紀ほど前につくられたドイツ語圏の音楽を「古典」と称したのでした。(38頁)

【参考】
フリードリヒ・ブルーメ『西洋音楽史3 古典派の音楽』(白水Uブックス 1992、原著1974)から
「『古典』という語がいつ、どこで音楽史の語彙に登場したか、それを正確に述べることはできない。・・・ダメリーニ【1942】によると、この言葉を音楽に対してはじめて使ったのはアンドレ=エルネスト=グレトリの『回想録または随想』(Memoires ou Essays, 1789)【綴り手補:フランスです】で・・・音楽史に『古典的』様式期なるものは存在しない。」(p.12-14)
ハンスリックにつきましては『音楽美論』(訳書は岩波文庫 1960のp.28)で
「ハイドンの有したオリンピア的古典性」
なる表現をし、モーツァルト、ベートーヴェンと併置していますけれど、「古典派」云々というレッテルでこの3人を定義づけることはしていないと思うのですが・・・かつ、『音楽美学』はドイツにおける当時の音楽に対する見解は述べているものの、それを他国と対比することはしていません。あえて対比しているとすれば、それは(理想の中の)古代ギリシャです。・・・読み違いがあるようでしたらご教示下さい。
ビューローが古典派云々やそれに対する発言をしたかどうかは私は知りません。

長年ドイツ語圏を支配してきた神聖ローマ帝国は、「ローマ」の名から明らかなように、ラテン語文化がエラいとされるカトリック文化の国でした。(38頁)

【参考】
ルターによる宗教改革は(教科書的に言うと)1517年。
なお、「神聖ローマ帝国」の呼称には変遷があり(菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社現代新書 2003 巻末年表参照)、オットー1世が戴冠した962年はたんに定刻、もとい、帝国となったのであり、1034年の公文書で「ローマ帝国」が使われ、1157年に招集状で「神聖帝国」と使われたとのことです。公式文書に「神聖ローマ帝国」が初出するのは1512年の由。その解散宣言は1806年ですが、実質的には1648年のウェストファリア条約で解体しています。

独立心旺盛なドイツ人にとっては、「ローマより古いギリシャ」という要素が重要でした。ギリシャ文化を後ろ盾にすれば、「神聖ローマ帝国」に対して、自分たちのほうが、より深いヨーロッパ文明の源流だと誇ることができます(ちなみにこれがおもしろくなかったフランスは、ギリシャ文化に対抗すべく、ナポレオンのエジプト遠征でピラミッドやオベリスクなどを持ち帰ってきます・・・以下略)(39頁)

ピラミッドも持ち帰ったんですか???
【参考】
その1
ナポレオン遠征当時までにドイツ圏にギリシャやローマから運ばれた古い何か、あるいは模造した何かがあったかどうかは全く知りません。
フランス〜パリにはエジプトのものばかりではなく、1797年には古代ギリシャやローマの美術品が運び込まれています。
ナポレオンのエジプト遠征の政治的目的はイギリス牽制であったことは周知の事実です。
その2
古代ギリシャネタの歌劇とその作曲者・・・を並べようと思いましたが疲れるのでやめました。ドイツ圏の作曲家が他地域に比べて著しくギリシャネタに偏向しているわけではありませんし、ギリシャネタにしてもイタリアやフランスの作品の、むしろ二番煎じだったんじゃないかと主観的には思うし、そもそも、オペラ誕生当時のオルフェウスネタを除くと、ギリシャネタが「文明の源流だから」という意識で当時の歌劇の台本が書かれたとは思えないし、日本の歌舞伎の神話ネタと変わらん気がするのですが・・・はい、主観です。

フランス音楽ではドイツで見られたような古典派的なスタイルは大きく発展しませんでした。イタリアも同様です。(40頁)

【鍵】
そもそもそんな必要があったのか?(お考えにお委ねします。)

ブラームスはベートーヴェンの後継者という意味で「新古典派」とも呼ばれていました。(40頁)

純粋に、ご教示を乞いたいところです。ブラームスの作品に「新古典派」なる呼称を最初に用いたのは誰で、定着させたのは誰なのでしょう? 三大Bはビューローの造語ではありますが、新古典派なる言葉でブラームスを形容したことはなかったはずです。また、ブラームス自身は反リストではあっても反ヴァーグナーではなかった、と、最近では繰り返し言われています。

創立の瞬間から世界一であることを宿命づけられた国策オーケストラ(略)それが、新しく誕生したドイツ帝国の首都ベルリンで結成された、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団です。(42頁)

ドイツ帝国って、いつ新しく誕生したのですか?

【参考】
残念〜。
ベルリンフィルは国策で誕生したのではないことは幻冬舎新書『世界の10大オーケストラ』を参照すれば分かりますよね〜。面白い読物としては菅原透『ベルリン・フィル その歴史秘話』(アルファベータ 2010)があります。なお、1882年に雇用問題を発端にベンヤミン・ビルゼの楽団を退団した連中が結成した「旧ビルゼ楽団あらためベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」は5年後までには人員が当初の団員がかなり退団したとのことです。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は(略)1842年、神聖ローマ帝国の都ウィーンに、シュトラウス一家の率いる民間楽団として誕生しています。(43頁)

【参考】
これも残念でしたね〜。ただしいかただしくないか簡単に分かっちゃいますね〜。
神聖ローマ帝国の1806年解散は前述の通り。
ウィーンフィルの成立についてはベルリンフィルと同じ書籍参照。
設立前史についてはクレメンス・ヘルスベルク『王たちの民主制 ウィーン・フィルハーモニー創立150年史』(文化書房 博文社 1994)に詳しく記載されています。ちょっとだけ言っておけば、残念ながらシュトラウス・ファミリーは全く関与していませんけど・・・ウィンナワルツでのニューイヤーコンサートなんてず〜っとあとに始まったのも周知の事実でしたね〜

なお、これらのオーケストラと対比してロンドン交響楽団を「自由なタイプ」と形容していますが・・・なして? 「そこには、徹底的に統率されたベルリンフィルの音色とは違うやわらぎがあります」(44頁)・・・ロンドン交響楽団は徹底的に統率されていないのでしょうか? あんなに緻密なアンサンブルをするオーケストラが?

レオポルド・モーツァルトは、わが子の「神童」ぶりをあちこちで積極的にアピールします。教会と貴族が相手だったバッハの時代とは違って、一般市民の人気を得るためには、そういう、ややアヤシゲな売り方が効果的だったんですね。(48頁)

【参考】
子ども時代のモーツァルトが父と出向いた先は一般市民の中ではありませんでした。
手近な年表から、15歳までに訪ねた主な相手先を拾ってみます。
1762年〜バイエルン選帝侯、皇帝フランツ1世&マリア・テレジア
1764年〜フランス国王ルイ15世、イギリス国王ジョージ3世と王妃
1766年〜デン・ハーグのヴィレム5世
1768年〜マリア・テレジア
1770年〜フィレンツェのトスカーナ大公他、ローマの枢機卿

カントも、大学では物理学の教授で(49頁)

【参考】
カントが物理学教授であったことはありません。・・・まあ、ニュートンもそうだったことはなかったかとは思いますが。ニュートンは後年物理学と言われるようになった方向に貢献を深めましたが(それにしても、物理学って呼称はいつ定着したのでしょうね?)、初期には自然哲学にのめりこんで宇宙論もものした、とされている(宇宙論は入手が大変なんで買っても読んでもいませんが)カントは結局そっちにはいきませんでしたものね。

ベートーヴェンは(略)《第九》の第四楽章に(略)オスマン・トルコの軍隊行進曲の楽器であるシンバルやトライアングルなどを鳴り響かせました。《第九》の初演はカトリックの都ウィーンで行なわれましたが(以下略、51頁)

【参考】
トルコの楽器を使った先行有名作はいうまでもなくモーツァルトの「後宮からの誘拐」ですが・・・「カトリックの都」ウィーンで初演されていますが。。。
ご著者はベートーヴェンをそんなにカトリックと戦わせたいのかなぁ?
なお、ベートーヴェンの第九終楽章のマーチ部分は、「エロイカ」が革命時のフランスで流行した葬送行進曲と同様の精神的背景の延長にあると仮定するなら、すでにトルコ音楽としてではなく、やはりフランス革命とともに流布した行進曲の一種だと見なすべきかと思うのですけれど・・・はい、主観です。

事前には、もう少しリストアップしたのですが、まじめなはなし、本当に力つきました

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