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2011年8月31日 (水)

大井浩明さん POC#6~#10 9月23日から

チラシ:http://ooipiano.exblog.jp/16592815/
野々村禎彦氏POC推薦文  http://ooipiano.exblog.jp/16672319/

昨年度は日本の作曲家を5回シリーズで取り上げた同シリーズですが、今年度は
9月23日:クセナキス
10月22日:リゲティ
11月23日:ブーレーズ
12月23日:韓国の現代作曲家たち
1月29日:シュトックハウゼン
です。
(詳細はそれぞれの回に先立ってまたご紹介したいと考えております。)
先だって関西ではミックスプログラムでの演奏会もなさっていますが、韓国については多様な特集となるものの、それも含め基本的に1回1回がひとりの・ひとつの芸術観を私たちにくっきり示してくれる、たいへん楽しみな会になります。

Poc2outsides_2 すでに「音楽之友」149ページでも紹介され、8月28日には朝日新聞夕刊に、8月29日には日本経済新聞朝刊にも掲載され、開催1ヶ月前にして世間の耳目を集めていることは、喜びに堪えません。
(朝日新聞web:http://www.asahi.com/showbiz/music/TKY201108300310.html

さらにタワーレコードインタビューにも掲載されています。http://tower.jp/article/interview/81724(ん? 菩薩???)

演奏会の意義については上記新聞雑誌記事(朝日新聞のものはリンク先で読むことが出来ます)が、また取り上げる人と作品群の、やや大げさにいえば人類史的な、もうちょっと抑えめに言えば文化史的な価値については、野々村禎彦さんの推薦文(これも上記リンクで大井さんのブログに掲載されたものを読めます)に充分に語られていることであり、いまさら素人の1ファンの、門前の小僧の又弟子程度の私が述べられることは何もありません。

Poc2insides 私自身は、大井さんの演奏との出会いは、たぶん世間一般からすれば大変イレギュラーなことに、ベートーヴェン演奏のCDと、モーツァルトの「クラヴィアとヴァイオリンの為のソナタ」群の教会並びに近江楽堂でのライヴというものでした。
大井浩明さんという人が、前衛音楽演奏でそれまでならしてきたかただ、ということに全く無知なまま、その人の古典演奏の「構築の美」に感嘆し、魅入られてしまったのでした。
大井さんは、いわゆる前衛の難しい楽譜が読めるから凄いんだ、という認識は、愚かな私にはあまりないのです。もちろん、それらを的確に読む困苦は、知らない者縁のない者の想像を絶することだとはつくづく思って、のうえで、ではあります。自分自身はアマチュアとしては学生時代にやっぱり学生さんが書いた習作的なものを楽団の一員として演奏させて頂いた浅い経験はありますが、その他には所属団体に変拍子の編曲を持ち込んだとたん「演奏不能」と却下された思い出しかない私にとって、20世紀後半の音楽はおろか、変拍子の混じった音楽というだけでもう縁遠い生活になってしまった、なる寂しい状況しか経て来ず(少しだけ誇張はあるとはいえ・・・これ凄いでしょう?(^^) )、憧れてはいても、「新しい響き」とは百年の隔たりをあけられたまま半世紀を生きてきてしまった私でした。
それが、目の前で、古典で心酔させて下さった演奏家さんから、ある日突然、若い日に憧れた響きの数々をキラキラと舞い散らさせて頂くのを耳に出来たことは、生涯の僥倖ではありました。

若い日の憧れだっただけに、昨年聴かせて頂いた日本人作曲家さんたちの世界は当然初めてのものであったし、今回もたとえばシュトックハウゼンの響きなどはトランジスタラジオの向こうからぼそぼそと聴こえていたものを宇宙からの電波に乗った異世界の言葉を聞くようにただ呆然とききほれていたものでしたから、それが至近距離まで届くのだというだけで、もういつ死んでも悔いがないと思っています。
(残念ながら日程的に全プログラムを拝聴できそうにないので、それはいまからガッカリをしております。)

中世ヨーロッパの大聖堂の数々は、その構造を支えるものについて、いまだに科学的には全貌を解明できないそうです(佐藤達生・木俣元一『大聖堂物語』河出書房新社ふくろうの本 54-55ページ参照)。
前衛、と呼ばれてきた、あるいは自称してきた作曲家さんたちは数式を用いたり楽理の用語を極めたりして音楽を作り、語ってきたケースが多くはあるように見ています。これは知らないが故の浅薄な見方かも知れませんが、仮にこの間違っているかもしれない見方の通りだったとしても、その人たちがかき鳴らしたかった音楽は、数字や術語で語ろうとしたこととは、もしかしたら真逆のものだったのではなかろうか、と私は浅知恵で考えています。なぜなら、説明がすべてだったら、彼らはもう音楽なんか、わざわざ構築する必要がなかったからです。
それでも、彼らの音楽は、彼ら自身が説明する必要がありました。従来「これが音楽だ」と人間が限定してきたものから、なんとか一歩を踏み出そうという野望ではあり、であるがゆえに、従来の価値観に覆いを被せられた目・耳から、聴く人を、だけでなく、自分自身をも解き放たなければならなかったからだろう、とは、これまた私の浅知恵の積み重ねです。
それでもこれは、別段「前衛」の人が人間として初めてやったことではなく、ベートーヴェンもモンテヴェルディもノートルダム楽派の人たちも、・・・いまではその音世界を再現しようのないオリエントの人たちも、それぞれの時代の「大聖堂」を築き上げるために繰り返してきたことだったのではないでしょうか?

私は大井さんのクセナキスについてのご示唆、新ウィーン楽派の演奏、日本人現代作曲家作品の演奏を通じて、ようやくにして百年前の音響から数十年ひっぱってきて頂いてきました。
そんな数年を過ごして来れた幸せをかみしめつつ、また無知なアタマと無知な耳で、言葉には決して収斂されない「音宇宙の構築」世界に包まれるパラダイスの、せめて入口に立たせて頂けるこの機会を、喜びをもって迎えたいと思っております。

未経験の方も、ぜひ、足をお運び下さいますよう。

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