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2011年5月22日 (日)

表現としてのテンポをいかに把握するか:テュルクから読む場合2

松平頼則「美しい日本」第1曲〜第3曲(大井浩明さんによる演奏)
武久源造さんによるクラヴィコード演奏
・・・是非ご覧下さい。


(故郷方面の震災後、「考える」ことが出来なくなってしまっており、その間、子供たちが・・・おかげさまで、それぞれ自分で行きたがっていた学校へ・・・それぞれ進学が決まり、安堵する間もなく子供たちへの新たな応援体制を築く必要に迫られたり、職場は定年の方が2人、期間契約が切れていらっしゃらなくなる方が1人いらして、もともと小所帯である職場で業務の割当が増え、家庭も会社員生活も多用になりました。自分で考えられる範囲がいかに狭く、自分が考えてみた中身がいかに些末であるかを痛感はしておりますが、それでも「考えられない」ことに比べれば致命的ではないのだな、と、強く思っているところでもあります。ぽつりぽつりと、ガラクタ脳の働きの回復を模索していきたいと存じます。)

間が空いてしまいましたので、「音一つ一つに何を聴き取るか」で考えたことと齟齬があるかもしれません。
前は、テュルクの言うペリオーデに注目して、演奏の部分部分でのテンポ変化、デフォルメの適切さとは何かについて粗々(かなり雑に!)考えてみたのですが、それは鍵盤楽器作品の場合、チェンバロからピアノへと楽器が変化したことにも影響を受けていながら、そうした時程的な変化が演奏上必ずしも考慮されて来なかったし、聴く側もそのあたりへの関心は全くといえるほどに持ち合わせていなかったらしいあたりをちょっとだけ見て来たのでした。

全体としての「テンポ」にも同様の問題があるのではないかと考えてみようと思います。現れかたが「部分」ではないので、気付きにくいことではあります。

バッハのイギリス組曲を素材にしていますが、彼が組曲(suiteないしpartita)と称したもの、あるいは後の世代の人によってバッハの「組曲」に擬せられている作品(管弦楽「組曲」・・・元来"Overture")は、舞曲の集合体になっています。管弦楽組曲の第1曲はすべて例外ですが、いま考えたいことの中ではハナから考慮の外に置いて差し支えがないかと思います。
これがまたsuiteかpartitaかで若干の差異があったりする気もするのですが、それについても今は考えません。
管弦楽組曲を含め、大括りなところのことについては、昨年の3月4日から6日にかけて、ラモその他の作例も鑑みながら「浅く」観察をしております。

組曲を形成する「舞曲」については、ただし、「踊られる」ものとして書かれている場合もあり、そうでない場合もあるかのようで、そのあたりの区分については素人が考えるには史料・材料が不鮮明で、確かなことは言えそうにありません。
ただし、バッハ(ゼバスティアン)に限って言えば、「踊られる」ための舞曲ではなかったと推測しても大きく外れることはなかろうと信じております。「踊られる」ための、とは、この場合、あくまで舞踏会のような場を想定すべきであって、家庭を始めとするプライヴェートな空間をも前提に含めると収拾のつかないナンセンスな事態を招くことになるでしょう。

それぞれの舞曲の性質・定義については昨年3月5日にリストを作成しましたので、繰り返しません。

「踊られない」のであれば、舞曲の持つ性質は、舞曲の種類を明記した音楽作品のテンポを規定する、と、まず大雑把に言ってしまうことを許容するでしょう。
テュルク「クラヴィーア教本」では、そんなに大きなウェイトを占める部分ではないものの、既に舞曲についての規定がテンポ寄りでなされていることが目につきます(東川氏による訳書p.468-472、Loureについてはマッテゾンの記述を参照していたりしますが例外的です)。これはテュルク著作が著された時期(1789年)を考えあわせると、その記述分量にも関わらず、非常に重い事実でもあるかと感じます。、以下を、昨年3月5日のリスト(とくに浜中康子著書から引いた後半部分)と比較してみて頂ければ、そのことがはっきり分かるかと思います。

テュルクからは3つだけ引用してみます。

アルマンド Allemande は4/4拍子で、アウフタクトから始まる。その演奏表情は厳粛で、あまり急速には奏されない。アルマンドはしばしば、組曲やパルティータに現れれる。この名称はアレマネンAllemanen、つまり昔のドイツ人に由来すると言われる。アルマンドのもう一つのタイプは舞曲として用いられる。このタイプは2/4拍子で、陽気な性格である。したがって、速い動きに加えて軽い演奏表現が要求される。

ブレ Bouree は、2/4拍子か4/4拍子で書かれていて、4分音符のアウフタクトから始まる。性格はいくぶん快活である。そこで、ほどよい速さで奏され、その演奏表現はかなり軽くなければならない。

ガヴォット Gavotte は、ほどよく速いアッラ・ブレーヴェ拍子のテンポを要求する。二つの4分音符のアウフタクトから始まり、感じがよくて、かなり陽気な性格をもつ。これに基づくと、その演奏表現も容易に決定することができる。

さて、このテュルクの記述を参照した上で、グレン・グールドの弾くアルマンドを聴いたら・・・グールドの弾くバッハは「バッハの音楽」だと言えるのか、それとも「グールドがバッハの作品に基づき編曲した音楽」だとみなすべきなのか、は極めて明瞭ではないかと思います。

グールド

「グールドのバッハ」と言われるものは、「グールドのバッハ解釈」と置き換えられるのは決して適切ではなく、やはり「編曲」なのではないか?
かつてハーティがヘンデルの「水上の音楽」を近代オーケストラ向けに「編曲」したのと同様の意味合いで、楽譜はオリジナルを追いかけたようであっても(ただし、そもそも近代ピアノ向けに直されたバッハの楽譜はオリジナルとは大小さまざまな違いがありますが)、グールドの演奏は実は「編曲」行為ではなかったのか?
なぜならば、簡単に言えば、グールドの弾くアルマンドが、バッハから時代の下ったテュルクの物差しからしても、またテュルクに影響を与えたはずの前世代の舞曲テンポ感からも逸脱していて、とても「解釈」という枠に収まるものだとは見なし得ないからです。これはグールドの弾く「ゴルトベルク変奏曲」ではもっと顕著に言えることではないでしょうか?

曽根麻矢子演奏と聴き比べてみて、このあたりに少し思いをめぐらせてみるのも、これからの音楽享受を考える上で面白いと思います。

曽根

さらに裏返して言えば、チェンバロでの演奏でさえもまた、バッハをはじめとするチェンバロ時代の鍵盤作品の「編曲」行為である可能性も孕むのであり、なおまた「編曲」は「解釈」とは峻別し難いながら、演奏者は聴き手に対し、自分の演奏が「解釈」なのか「編曲」なのかを明示していく重い義務を負うのだと言うことは、またあらためて問題としていかなければならないことではないかな、と思っております。いま、ゴルトベルク変奏曲についてだけ例示すれば、レオンハルトによるその主題演奏も、チェンバロを用いながら「編曲」になっているのではないか。そう言う根拠は、レオンハルトの採用しているテンポがグールドに近いところにあります。次世代の奏者はそれを無反省に踏襲しているケースも少なくありません。ゴルトベルク変奏曲の主題(アリア)の想定するテンポが、チェンバロの糸の響きが途切れる寸前まで引き伸ばされるほど遅いものであるとは、到底考えられない気がするのですが、いかがでしょうか?

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