« 武久源造氏の弾くクラヴィコード | トップページ | 転載(4/26日経春秋):仙台で制作のアルゲリッチCD、印税寄付の意志 »

2011年4月24日 (日)

音一つ一つに何を聴き取るか:テュルクから読む場合

松平頼則「美しい日本」第1曲〜第3曲(大井浩明さんによる演奏)
武久源造さんによるクラヴィコード演奏
・・・是非ご覧下さい。


標題に直接触れるような内容には到底出来ないのですが、考えたいことは標題の通りです。

まずは、掲げる演奏の「是非」を、ではなくて、「違い」を読み取りたいと思っています。
(それをもって、自分が音楽を考えるアタマを取り戻していくきっかけにしたいと願っています。)

J.S.Bachのイギリス組曲第2番の演奏を素材にし、ピアノで弾いたもの2例、チェンバロで弾いたもの2例を聴いてみながら考えています。
まだよく整理出来ていないので、支離滅裂な文表現になっていることは、とりあえずご容赦下さい。
あとでまた振り返るためにも、いったん記してみます。

J.S.バッハ演奏でなくても、私が思い描く「演奏」は、自分が独奏者でもなく腕も悪いことから「合奏」での像が先に立つのですけれど、そういう足場から独奏がどう聞こえているか、というあたりに少し自分でツッコミをいれてみようか、と思います。
聴く前提として、テュルクの「クラヴィーア教本」の記述をどう念頭に置いたらいいかを考えます。
J.S.バッハの演奏についてテュルク記述を前提に聴くのは、じつのところちょっとズレがあるのではないかとは思っています。エマヌエル・バッハと五十歩百歩、と言ってしまっていいかどうかは、先の課題とします。ピッチやチューニングの問題はさしあたって一切度外視します。

テュルクの記述の前提となっている「クラヴィーア」は、オルガンでないことは明示されていますから論外です(ただし、たとえばp.181にフリードマン・バッハのオルガン演奏への推測を加えた運指法についての小考が含まれたりはしています)、少なくともフォルテピアノではありませんね。フォルテピアノを説明するのに「小さくて新式のフォルテピアノのなかには、クラヴィーアの形をしたものもある」(東川訳書p.6)とあります。表現に関するテュルクの記述を検討するには、ここは重要なのかなぁ、と感じたりしています。
中間部分の、楽典と演奏法を関連づけながら述べている大部分をきちんと理解しないと本来は読み誤りを起こすのでしょうから、そこへの細かい立ち入りも必要なのですが、私がそこまでの器ではないので、あえて避けて通ります。また、テンポの問題も検討しなければなりませんが、それはJ.S.バッハの組曲での各ピースが、プレリュードを除き舞曲名で規定されている点に着目して別途なされるべきことかと思いますので、そこまでの拡大は次にすることとします。

まず、いちばん目を向けたいのは、ペリオーデ(Periode、英語のperiod。テュルク曰く「大なり小なりの静止部分 Ruhestelle」【訳書p.389注】)と彼が呼んでいる、東川さんは訳せないと仰っているのですが敢てこんなものかと考えるならば「楽節的動機」〜音楽の展開に用いられる断片としての要素的動機ではなくて、完全終止であれ不完全終止であれ「まとまり」をもつもの・・・だからこそテュルクはこれを限られた部分では簡便的にRuhestelleとも呼ぶことにしているのではないかと解釈しました・・・をめぐるテュルクの記述です。

ペリオーデの開始音などはすべて、通常の強拍よりはもっと明確に強調されなければならない。厳密にいえば、この開始音すらも、それが曲全体の比較的大きな部分を開始するのか、それとも比較的小さな部分を開始するのかによって、強く、あるいは弱くアクセントをつけられなければならない。つまり同じ開始音でも、完全終止の後に続く開始音は、半終止後の開始音やただのアインシュニット(文を述べる際の句節点に相当するもの、程度に、いまは捉えておきます)後の開始音よりも強くアクセントをつけられなければならないのである。」(訳書p.389、§14)

これに続くテュルクの記述は、究極は最初に掲げられたこの要約を具体的に説明するものに過ぎません。
これを、「強く」とか「弱く」とかいうアクセントで句節を置くことは、市場に出回っている殆どの演奏はそれなりに責任をもって遂行していて、この点そのものについて演奏の問題はさほど大きく発生はしていません(ただし、独奏の場合。管弦楽規模になるほどおざなりになっているものは「名演」と賞賛されているものの中にも多々あります)。

クラヴィコードならば、現在のピアノに相当するような強弱アクセントでの句節配置が出来るのですが、ではそれがテュルクに遡ったときに妥当な方法だったのか、となると、テュルクの時期には既に混同が生じている、少なくともテュルクの記述にはクラヴィコード的なものとチェンバロ的なものについて混同があるのではないか、との疑いが湧いて来ます。・・・もっとも、混同とは混乱のことではなく、演奏方法の捉え方についてはある種の広がりが生じている、進んだ状況を示しているのではあるのです。それは、ウェイトを置くべきところの音はその音の時価分充分に保持されなければならない、という点と、それを述べる際に<強弱ではなくて音の保持の程度の問題>と言うことによって、実体は保持と強弱の両面が<重さ>を現すという認識がテュルクの中にも眠っているとみなすべきだ、との、テュルク自身の把握・認識にある内在的な領域の広さと関わりがあります。

チェンバロでも、強弱感は単鍵盤でもそれなりに出せる・・・それはテュルクが別の箇所で触れている「重い・軽い(訳書p.414〜416、§43〜46)」の方法を実演上どう扱うかで可能性が幾重にも広がるものだ、とは思います。しかしながら、この「重い・軽い」をどう表出するか、によって、ペリオーデへの取り組みは全く違ってくる。

重い演奏表現では、どの音もしっかり(強調的に)奏し、そして音符の時価がすっかり過ぎ去るまで保持しなければならない。一方、どの音もそれほどしっかりは弾かないで、その指も、音符の時価が規定するよりいくらか早めに鍵から上げるとすれば、その演奏表現は軽いと言われる。・・・ここでいう、重いとか軽いとかいう表現は、音の強弱よりはむしろ、音の保持と中断に関連することである」(p.414〜415、§43)

テュルクはおもにクラヴィコードを前提にしている節はあるのですが、これはチェンバロも視野に置いた考え方であるような気がします。基本的には「重い・軽い」なのでしょうが、具体策としては次のようなことを言っています。(文脈からすると、抜き出すのは必ずしも適切な行為ではありません。そこをあえて、抜き出しで呈示してみます。)

「急ぎやためらいが行なわれ得る箇所をすべて指定するのは難しいことである。・・・忘れてはならないのは、ここで述べる手段は、自分ひとりで演奏するか、非常に注意深い伴奏者と一緒に演奏するかの場合に限って、使うことが出来るということである。/(このような意図的な急ぎやためらいを、序論で述べた誤った急ぎなどと混同してはならないのは、言うまでもない。)」(訳書p.429、§65)

「激烈、怒り、憤激、狂乱といった性格をもつ曲では、もっとも力強い箇所は、いくらか加速気味に(accelerandoで)演奏することが出来る。普通よりは強くして(普通よりは高くして)繰り返される個々の楽想もある程度、速度が加速されることを要求する。穏やかな感情が時として活発な箇所によって中断されるとき、その場合の活発な箇所もいくらか急ぎ気味で奏することができる。」(訳書p.429〜430、§66)

「きわめて優しく、センチメンタルで、悲しげな箇所、つまりその感情がいわば一点に凝縮されているといった箇所では、ためらいを募らせること(滞留、tardando)によって、その効果をとくに高めることが出来る。」(以下略、訳書p。430、§67)

これらについて、とくに§65でわざわざ序論を参照するようテュルクが求めているところからすると、序論(序章)は大事に受け止められなければなりません。該当するのは序章の§37でしょうか、そこではテュルクはこう述べています。

「ある人がいつも急ぐ(少しずつ速くなっていく)かと思うと、別の人は、停滞anhalten(引き摺りschleppen)といわれる、それとは正反対の誤りに陥る。そこで教師は、学習者が最後の音符まで最初のテンポを維持するように、細心の注意を払わなければならない。」(訳書p.30、§37)

テュルクは勿論、初心者が初歩的にテンポを維持出来ない誤りについて述べています。

では、現実に是とされて来た演奏は、どのようであるか。
それとペリオーデの把握はいかようになされているか。

チェンバロの例とピアノの例を、まずはひとつずつ聴いておくことにしましょう。
イギリス組曲第2番(ハ短調)のプレリュードです。

チェンバロは、アラン・カーティスの1980年の録音(apex 0927 40808 2)
Curtis

ピアノは、マルタ・アルゲリッチの1980年の録音(Deutsch Grammophone 463 604-2)
Argerich

カーティスはヘンデル指揮者として名を馳せている人で、録音したこの時期からすると、(今で言うモダンの)オーケストラ奏者からすると「バッハらしい重さ」ではありました。「重さ」の表現のために、音の保持に重点を置いている様子が、良く聴き取れます。一方で、これはこのころの他の人のチェンバロ演奏にも・・・そしてしばしば荘重な曲の演奏に際して現在なお・・・聴き取れる、これは合奏奏者としては「やってもいいの?」なschleppenがあることに気を留めておきたいのです(これが「ミス」ではなく「妥当」に聞こえるのは習慣的なものでもあり、生理的に必ずしも不当とは言えない側面を持つからではありますし、私も「是」と思って来ていることなのではありますが、その妥当性はこうだからだ、と明示的に述べるのは大変難しいことです)。合奏でこのような音の扱いは、メンゲルベルクやフルトヴェングラーの当時でなければまずやらないことになっていました。ただテンポ感だけが同じのまま1980年頃までを迎えています。・・・この方法は、果たして妥当なのかどうか。少なくとも、テュルクのうちにはこう奏してよいとする論拠は全く見当たらない気がするのです。

一方、アルゲリッチの演奏は、同年の録音でありながら、全く対照的です。現今の、むしろ快速で演奏されるようになったJ.S.バッハのプレリュード、たとえば曽根麻矢子のチェンバロ演奏(4分31秒)と近い。では「軽い」演奏か、というと、強弱の起伏によって浮き上がらないように制御されているのが伺われます。これはピアノでの演奏時間が近似するグレン・グールド(4分30秒)とは対照的なものではないかと感じます。

音の時価の保持、という面では、テュルクの考えからすると初歩的な誤りであったものへの「芸術的」逸脱によって「重い」表現がデフォルメされて来たのが19世紀後半から20世紀中盤までの主要な動きだったのかも知れません。そのあいだ、チェンバロは実質上廃れています。クラヴィコードも消えています。となると、20世紀後半になってようやく復活を認知されたチェンバロ演奏は、クラヴィーアとして19世紀以降唯一生き残り、独自の恐竜的進化を遂げたピアノ演奏の遺伝子を受け継いでいるものとして捉えなおされた方がいいのかも知れません。
いっぽう、ピアノ演奏はさらに独立して何らかの展開を遂げ、今回その言葉は引きませんでしたが、テュルクも、テュルクに多くの示唆を与えたエマヌエル・バッハも重視していた「アフェクト(いまはこれもまた、感情表出、という訳語で捉えておきましょう)」に対する何らかのデフォルメを、行ったん淘汰しようとする動きの中で、「保持による崩し」ではなく、「強弱による掘り下げ」の方に舵を切り替えている・・・その最も優れた成果の一つが、このアルゲリッチの例ではないかと思うのです。
ただし、これはピアノだからとり得た方法ではあるのです。
アルゲリッチの録音を聴きながら、はたとそのことに思い当たりました。
ピアノだからこそ、という面は、プレリュードではなく、続く舞曲標題の曲の方で、より際立って気付き得ます。
それが現今のチェンバロの演奏とどのように繋がりあってくるのか、果たしてピアノで弾かれるJ.S.バッハの音楽は、本来的な意味でのJ.S.バッハ音楽足り得ると言えるのか、もしくは他の何ものか、なのか、とは、伝統となっているさまざまな音楽の演奏の現在を私たちがどう位置づけたらいいのか、を検討する際に大きなヒントを与えてくれはしないのでしょうか?

・・・という具合で、すみません、非常に半端な文になってしまったことは否定しません。

|

« 武久源造氏の弾くクラヴィコード | トップページ | 転載(4/26日経春秋):仙台で制作のアルゲリッチCD、印税寄付の意志 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 音一つ一つに何を聴き取るか:テュルクから読む場合:

« 武久源造氏の弾くクラヴィコード | トップページ | 転載(4/26日経春秋):仙台で制作のアルゲリッチCD、印税寄付の意志 »