音楽とどのように出会うか
面白そう!<落語で観るオペレッタ「メリー・ウィドー」>は、2月27日(日)
ハイドン コレギウム第2回演奏会は3月6日(日)
ハイドンの交響曲第2番、10番、ヴァイオリン協奏曲第1番など。貴重な演奏会です。
( )の中に数字を記した部分については、文末の「文献など」に出所や参考となるものを記してあります。
なぜ音楽はあるのか?・音楽と出会う場所・音楽とどのように出会うか
さて、音楽と出会う場所、などというものを拾い出してみましても、決してすべてを尽くすことはできません。
そういいますのも、
「ああ、音楽と出会った!」
と思う瞬間は、きまりきった場所で自分に訪れるわけではないからです。
本などに出てくる例を、ちょっと拾ってみましょう。これが、感動までを書いた文、述べた言葉に出会う機会は存外にすくないのです。音楽のことを語るものは、音楽を「知っている」ことを前提にしてしまっているからかも知れません。
音楽との初めての感動的「出会い」、としては、19世紀フランスの作曲家ベルリオーズのもの。7歳のときかと思われるような記述になっていま す。・・・ちょっとキザに見えるところが面白いのですが、胸に手を当ててみれば、だれでも大なり小なり最初はこんな感じだったのではないかという気がしま す。
「朝の6時に修道院の教誨師が、私を探しにきた。時は春である。太陽は微笑んでいる。そよ風はポプラ の葉ずれの音をたてながら吹いていた。大気がこれほど甘味な馨りに充ちていたことはない。私はまったく感動しきって、聖堂の入口に飛んでいった。堂のなか へ入ると、白衣を着た姉の学友たちが真中に列んでいる。私は彼女たちと一緒に祈りながら、荘厳な儀式の時間を待った。司祭が歩み出て、ミサがはじまると、 もう私は総てを神にまかせる気になった。司祭は少女たちの前にあるきれいな卓の方へ出るように私を招いた。けれども私より少女たちの方がさきになる筈だの にと思うと、聖壇の下にまで男たちが、自分達男性に優先権を与えようとする失礼な不平さに嫌な思いがした。とにかく私はこうした意味のない名誉に顔をあか らめながら進んだ。ついでお供えの聖体パンを受けようとすると、突然、聖餐讃歌の女声合唱が始まった。私はその神秘と感動とでまごつき、並居る人々の注意 をどうしたらそらすことが出来るか分からないほどであった。私は天国が開けるのを見たように思った。愛の天国、聖なる歓喜の天国、いく度も話にきいたもの より、幾千倍も純潔で美しい天国を。真実の言葉はいかに不思議な力をもつことか。真心の旋律はいかに美しいことか!・・・」(1)
18世紀後半の神童、モーツァルトは、多分自分がどうやって音楽に出会ったか、なんてことは考えもしなかったでしょう。が、父親に涙を流させた次の エピソードは非常に有名です。既に音楽をモノにしたはずの大人が、無心に巡り会う体験をしたものです。父の友人だったシャハトナーの回想。
「いつか私は木曜日のお務めのあと、お父上と連れ立って、お宅に戻りましたが、私たちは四歳のヴォルフガンゲルル(モーツァルトの愛称)が一生懸命ペンを動かしているのをみつけました。
父--お前、なにをしているんだね?
W--クラヴィーアのための協奏曲なの。第1部はもうじき出来上がるよ。
父--見せてごらん。
W--まだ出来ていないの。
父--見せてごらん。これは面白い。
お父上がそれを彼から取り上げて、音符のなぐり書きを私に見せて下さいました。その大部分は消したインクのシミの上に書いてありました。つまり、幼いヴォ
ルフガンゲルルは、どうやったらよいのか分からず、インク壷の底まで毎回ペンをさしこんで、それを紙の上まで持っていくので、インクはそのたびごとにこぼ
れてしまうのです。でも彼はそんなことにはいっこうお構いなく、手のひらでこすり、その上に書いてしまうのでした。見たところまったくめちゃくちゃなこの
楽譜に、私たちは初め大笑いしました。しかしやがてお父上は、一番大切なこと、つまり音符や曲の作り方に注意を向け始めました。彼は長い間、じっと楽譜を
見ていましたが、涙が、喜びと驚きの涙がその眼からしたたり落ちました。見たまえ、シャハトナー君、と彼は言いました。すべてなんと正確に、規則どおり書
いてあることだろう。・・・」(2)
子供は子供で、神童でも天才でも、子供なりに感じ取っているものが正直に語られている例は、日本の美空ひばりの、太平洋戦争中の軍需工場慰問をしたときの回想にあります。
「みんな、荒々しい時代のなかで、やさしいものに飢えていたのだ、と思います。わたしは、男の人たち の、つかれてすさんだ心に、ささやかな贈りものをしてさし上げられたのかもしれません。そうだとしたら、あのとき、わたしは、歌い手として、もっとも幸福 なときを持つことができていたのです。」(3)
初めて見たオペラに身も心も奪われたお手伝いさんの、微笑ましくも示唆に富むエピソード。
「筆者がまだベルリンに滞在していたころ、チェコ人の若い女中さんを使っていたことがありまし
た。・・・仕事をしている合間にも、間断なく民謡や当時の流行歌などを口ずさんでいる元気のいい娘でしたが、ある時、ちょうど筆者がオペラで指揮していた
とき----モーツァルトの《魔笛》でしたが----楽屋に、弁当や着替えをとどけに来たついでに、四階の大衆席へ行って、このオペラの終幕を、生まれて
はじめて見たわけなのです。・・・この田舎育ちのチェコの娘は、オペラが終わっても席が立てなかったくらい、感激してしまったのでした。彼女自身の言葉に
よれば、『自分の久しい念願がかなったような喜びや悲しみなどがこみあげてきて、ときどき心臓がとまりそうになった』というのです。家に帰ってからも、
二、三日、ぜんぜん仕事が手につかず、台所の一隅に坐ったまま物思いにふけっているようなふうで、そうっと行ってみると《魔笛》の二幕目に出る節を、ほと
んど全部おぼえてしまって、その歌詞を思い出しながらうたっている始末です。そして、自分はこのすばらしい音楽をきいて、身も心もまったく別の人間になっ
たとか、今までの唄(流行歌)などとはぜんぜん別な世界を発見したなどといっていました。
ところで、話はまだこれだけではありません。この田舎
出の若い娘は、自分を別人のようにしてくれたという、この偉大な音楽の作者が、だれであるか、何年に、どこで作られたかなどは、全然知ろうとも思わぬらし
いのです。・・・おそらく神様が作られたとでも思っているのでしょう。それでいて、名曲の名演に接すれば、雷にうたれたように感激し、また二流の演奏で、
ある楽器がちょっと調子をはずせば、日本の専門家などよりももっと敏感に反応します。」(4)
こういうふうに音楽にうたれてしまったあとの話ではありませんが、音楽療法の世界に積極的に飛び込んだ打楽器奏者で作曲家の片岡祐介さんが上げてい る、施設の人たちとのセッションは、施設の人たちが演奏へと一歩踏みだすときの出会いの例をいくつか掲げています。そのなかの一例。これは、自閉症患者の かたと片岡さんと、どちらにとっての出会いだったと言えるのでしょうか?
「音楽にはあまり関心がなさそうな自閉症のDさん(20代男性)。ほかの人が太鼓を叩いたり、ピアノで遊び弾きをやっている時も、Dさんだけは我関せず、勝手にぴょんぴょん跳ねていた。
ある日、片岡がほかの人といっしょにピアノの即興セッションをやっていると、後ろでDさんは独り、クルクルと丸椅子を手で回していた。『Dさん』と呼びかけて、楽器をすすめてみたが、反応はなかった。楽器には興味がなさそうだ。
ある時、片岡たちの弾くピアノの音がふいに止まった。すると、Dさんの回す丸椅子も急に止まった。
再びピアノを弾き始める。するとDさんも楽しそうに椅子を回し始める。
そうか!!
Dさんは音楽に合わせて椅子を動かすのを楽しんでいたのか。彼は音楽が大好きだったんだ。ぴょんぴょん跳ねていたのも、感極まってのダンスだったんだ!!
それ以来Dさんは、片岡にとってセッションの空間に彩りを添えてくれる貴重な共演者になった、」(5)
先のチェコの娘さんとは違い、音楽を自分でやりたい、と思うようになって、やれるようになるための出会いを求めて出歩くようになることもあります ね。そんなときのことを、ビートルズのポール・マッカートニーが、DVDに収録されたインタヴューのなかで思い出話をしています。
「(ギターの)コードを教わるためだけに、リヴァプール中を回った。B7を知っている奴がいたんだ。 当時、EとAは知ってた。だがB7は知らなかった。そこでバスをいくつも乗り継ぎ、その男に会いに行った。そしてB7を教わった。覚えて家に帰り、友達の 前で弾いてみせる。ジン〜(コードを弾く仕草)、やったぜ!」(6)
自分でやる、となり、訓練が本格的になってくると、辛い思いもします。能の梅若実さん(1959年没)の回顧。
「私は自分で言うのもおかしゅうござんすが、若い時は声に自信があったものですから、充分に聞かせよ うとして、声にまかせてたっぷり謡います。すると何度やっても(師であった父が)許してくれないんです。さあ、もう恥ずかしくてね、大勢の前に立ちん坊に されて、汗の出る思いです。しまいにはぽろぽろ涙が流れてまいります。いよいよいけないんで、父が謡って聞かせてくれますが、こちらに力がないもんで、真 似しようにも出来やしません。おいおい、泣きだしちまいました。後で言って聞かせてくれましたが、お前のナダのダの字がいけない。声で聞かせようとするか ら、仮名がのびる。節で謡え----それで解ったのでした。」(7)
解るか解らないか・・・チェコの娘さんのように、解ろうと思わなくてもいいものなのか。
音楽も人の営みである以上、私はどちらでも構わない、と思います。
が、
もし私たちがほんとうに「音楽が好き」なのであれば、聴かせてくれるかたたちが、梅若実さんのお若い頃のような厳しさを経て私たちのところに届けてくれて
いるものを、これはまたチェコの娘さんのように、敏感に「見分ける」耳を、幼いベルリオーズと似たウブなものとして持ち続けることは、必要なのではない
か、とも思っております。
1)清水脩 訳『ベルリオーズ回想録』音楽之友社 昭和25年 p.4-5 漢字の字体と旧仮名遣いのみ改変
2)海老澤 敏『モーツァルトの生涯1』白水Uブックス 1991年 p.41-42(単行本は1984年)会話部表記改変
3)斎藤 愼爾『ひばり伝』講談社 2009年 p.64での引用。もとは『ひばり自伝----わたしと影』の由
4)近衛 秀麿『オーケストラを聞く人へ』音楽之友社 昭和45年 p.12
5)野村誠+片岡祐介『即興演奏ってどうやるの』あおぞら音楽社 2004年 p.113
6)DVD "The Beatles Anthorogy" ザ・ビートルズ・クラブ翻訳 東芝EMI TOBW3201 disc1 chapter2
7)白洲 正子『お能』所収「梅若実聞書」講談社文芸文庫 1993年 p.202
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント