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2011年2月18日 (金)

シューベルトの交響曲(3)冒頭楽章の特徴について

いきなりいっても聴けるみたい・・・です。保証人ではございませんが。(^^; ↓

Ooibanner


(1)(2)(3)(4)(5)


「交響曲」と呼ばれる作品群で、とりわけのものとされてきたドイツ・オーストリア系のもののなかでも、シューベルトの初期交響曲は、メンデルスゾーンの3・4番以外やシューマンの交響曲同様、ハイドン・モーツァルトの後期交響曲、ベートーヴェン、そして間を置いて成立したブラームスの交響曲からすると1ランク下とみなされる傾向があったのでしょうか? 日本の某オーケストラを長年指揮したドイツ人指揮者S氏が、まだ中堅時代にシュターツカペレ・ドレスデンを振った「シューベルト交響曲全集」・「メンデルスゾーン交響曲全集」・「シューマン交響曲全集」をだしていましたが、そのどれだったか分からなくなてしまっているものの、S氏の述懐として、
「ほんとうはもっとメジャーな交響曲を指揮させて欲しかったが、なかなかさせてもらえなかった」
なる意味合いの言葉があり、メジャーとはベートーヴェンやブラームスを指すのであって、そうでないのがシューベルト、だと補説されていたように記憶しております。

「交響曲」が、20世紀以後のクラシックにおいて特別扱いを受けたらしいことの傍証でもあり、とりわけ、楽譜を読めば理屈が見えるような二大Bが別格扱いをされていたのは興味深いことです。
・・・他の作曲家の交響曲にそれが見えない、というわけでもないのですが。

モーツァルトやハイドンの初期・中期作品はメンデルスゾーンやシューマンとは明確に構造が異なる上に、管楽器の編成も小さいですから、メンデルスゾーンらがBBとランク分けされることの是非はともかく、ベートーヴェン以後をメインにしてきた20世紀オーケストラの主要ジャンルがとりあえずトロンボーンがなくても二管編成を基本として演奏会を行なううえで取り上げられにくかったことは感覚としてわかります。

シューベルトは第1番から第6番にかけて過渡期にあるとみなし得る要素が強く(後述)、かつ、トロンボーンを編成に加えている《未完成》と《グレート》を標準レパートリーとされてしまった(シューマンの影響でしょうか?)ことも手伝ってか、こちらはメンデルスゾーンの3,4番やシューマンの4曲よりさらにいっそう、第1〜第6が演奏される機会を持てずにいたかと思うのですが、史料的な裏付けはありません。

作品構造としては、シューベルトのものが、ハイドンやモーツァルトに比べても、いちばん単純明快ではあるかと思います。
ただ、そのことをもって、シューベルトの、とくに(第5を除き)演奏回数が少ない1〜6番の交響曲は「若書きの未成熟音楽」と断定するのでしたら、間違いだと考えます。
シューベルトの交響曲の単純明快さは、《未完成》も《グレート》も同様ですし、それは《グレート》について某書がその第1楽章の末尾で序奏主題を盛大に再提示していることをさして

これは序破急を思わせるドラマティックな形式であり、終局へ向けての強い志向を貫く。しかもその最後をシューベルトは劇的に演出した。

そのことが

《グレート》においては「出発点」は「結論」でもあったということなのである。

とするのは、ご著者がシューベルトをベートーヴェンと同列、またはベートーヴェンと違うことを新機軸として提示しようと試みていた、なるあたりを強調したいがための「大袈裟」な言い方に見えて、私は好きではありません。

シューベルトが、完成した8つの「交響曲」のうちの6つまでもで冒頭楽章に「序奏部」を持っていることについては記述しました。
本当は、シューベルトの完成版「交響曲」には、冒頭楽章に序奏のないものはひとつもありません。

序奏部のない第5番第1楽章には、主題が歌いだす前に短い序奏がありますし、《未完成》冒頭も、オーボエとクラリネットのユニゾンによる主題の前に、まずチェロとバスのユニゾンの、続いてそれがピチカートに転じた上で鳴る上三声の弦の細かいリズムの、二重の前奏があります。
したがって、シューベルトが完成させた(およびそれに準じるとみなされている《未完成》)「交響曲」に序奏のないものは皆無なわけです。その点で、シューベルトは《グレート》に到るまでの生涯に書き終えた『交響曲』で、前掲引用と同じ某書のいう

「エロイカ」の飛躍

は、同書がそうだと言う《未完成》以後においても、全く持たなかったわけですし、第1から第6を《未完成》以後と繋げて聴いてみますと、シューベルトには<「エロイカ」の飛躍>などというものが必要になったこともなかったと信じていいのではないかという気がしてきます。

ベートーヴェン、あるいはあとの時代のブラームスのような、動機や和声的対位法の技術の積み重ねによる書法には、シューベルトはモーツァルトやハイドン以上に無縁でした。だからそれで彼の初期交響曲の価値が劣るのか、となると、そんなものは主観と嗜好に過ぎないかと感じます。
その歌謡的な、おそらく浮かぶままに書き留められた音楽は、各交響曲の第2楽章で最も真価を発揮しているのですが、それはまた見てみるにしても、冒頭楽章も第2楽章に劣らず、連なる歌で構成されていて、とくにベートーヴェンとは反対側の極に立っているのは既に第1番から明白です。

過渡的な要素、とは、まさに彼の「交響曲」の冒頭楽章がすべて序奏を持ち、そのうちの6曲までもが、主要部と明白に区別できる、ゆっくりしたテンポで長い「序奏部」となっているところです。この「序奏部」は、かつ、すべて第1楽章が書かれている調そのもので書かれているところも、じつは本来注意されてしかるべきことです。主調で書き通して「まっとうに聴ける」交響曲だけを書いたのは、有名作曲家の中ではシューベルトのみではないでしょうか?

また、シューベルトは、第1、第2、第3、《未完成》、《グレート》の5曲では、冒頭楽章の主部でも「序奏」に使ったモチーフのほうを、そっくりそのままの旋律で大切にアピールしています。これもまた有名作曲家の中ではシューベルトに際立った特徴です。

《グレート》は末尾で朗々と序奏部主題に再帰する点で明快でもあり、アピール効果も明確ですが、これは狙った線が異なるものの、第1交響曲で既に取られた手法の「成熟化」であって、エロイカ的飛躍でもコペルニクス的転回でもコロンブスの卵でもありません。
第1の冒頭楽章序奏部は、楽章のいわゆる「再現部」の最初にも現れて、「再現部」の華やかさを際立たせます。(再現部に登場する際は主部のテンポの中で書かれているため、たとえばネヴィル・マリナー指揮の演奏では主部のテンポに乗せ、冒頭より速く演奏されています。ギュンター・ヴァント指揮の演奏では、再現部のその箇所では序奏のテンポに戻しています。)第1の序奏部の面白さは、通常バロック期の作品でなければ聴けないトランペットの高いC音が高らかに鳴り響くところで、シューベルトの序奏はバロック以来の伝統をひきついだものであることを宣言しています。このことは再現部での序奏回帰にもおそらく関係があって、シューベルトは「交響曲」を、意識していたにせよしていなかったにせよ、伝統的なフランス風序曲として企画したのではなかろうか、と勘ぐりたいところです。それを断言するには、シューベルトが10代までにどんな音楽を聴いたり演奏したりしていたのかを把握しなければなりませんが。・・・有名作曲家だけとの比較で有名作曲家を語ること自体が何か誤謬の元をはらんでいるのではないか、との疑いは、私たちは常に持つべきではないかとも思います。
第3の冒頭楽章も主部に入って魅力的な旋律主題をクラリネットが奏で出すのに、これがすぐ、序奏部で使われていた音階上昇型に主役の座を奪われます。
《未完成》冒頭楽章はオーケストレーションの妙で「聴かせる」作品になっているのであって、旋律にそぐう暗い音色の魅力が聴き手をずっと捉えていているものの、構造としては第3のほうの発展形であり、低音の序奏主題が本来の「ソナタ形式」の第1主題であるオーボエ・クラリネットユニゾンの主題を差し置いて「展開部」の主役をつとめているところに、もっと気が回されるべきではないかと思います。そして前にも述べましたように、作りは極めてシンプルであって、音楽形式からだけではそれが「初期交響曲」群より進展しているとは、言える根拠が全くありません。
第2の冒頭楽章だけが、序奏部を活用するという意味ではやや特異でして、主部の主題が序奏部主題と類似性が高い、すなわち楽章全体がシューベルトには珍しく「動機労作」に近いものだとみなせます。

シューベルトの交響曲は、《未完成》・《グレート》を味わう上でも、第1〜第6をも、ひとつは序奏もしくは序奏部に傾注して聴き直され、意義を考えなおされるべき価値の高さを十分に備えているのではないでしょうか?

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