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2011年2月12日 (土)

シューベルトの交響曲(2)「グレート」周辺をめぐって

入場の締切は過ぎましたが・・・まだはいれる余地はあるのかっ? ↓Ooibanner



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Schubertsymphonies まだ余談の類です。ただ、普段はあんまりしない(つもりでいる)悪口づくしですので、悪口がおきらいなかたは、どうぞお読みにならないで下さい。

ちょっとした<憤り>からシューベルトの交響曲巡りをしようと思い立つにあたって、さて何がそんなに自分を憤慨させたのか、を考え直してみますと、ちっともたいしたことではありませんでした。

クラシックが今になっても「交響曲」関連本ばかり出している・・・というのは、ちょっとはハズれているようですけれど、目立つのが「交響曲」関連本(オーケストラの小史や指揮者伝のようなものを含めて)ばかりである、というのは間違った感覚ではないとおもっています。
でも、どうやらそのことや、それぞれの書物に立腹したのではない。
最近リニューアルされた諸井誠さんの「交響曲の聴きどころ (オルフェ・ライブラリー)」をあらためてチラ見しましたけれど、(古典派的あるいはロマン派的)交響曲が現代においては役割を終えたこと、ただし未来がどうなるかは分からないこと、などについて的確に述べていらっしゃるのは良いことだと思い、おかげでちょっと無駄に上がったテンションが下がりました。

問題なのは、「分析」を売り物にする人たちのご著作の中に、結局は主観の開陳のウェイトが高くて「分析」の姿勢を貫いていないものが散見されることです。それも、これまでは別段カッカして目にするほどのものではありませんでした。
癇癪を起こしたのは、ただ1冊にあった、次のような趣旨のことばでした(著作を特定するのが目的ではないのでことばを改変します。)

交響曲を修辞学的に論じて欲しい、音楽そのもので記述して欲しい、との要請でこの本を書いたが、「クラシックの幅広いファンのために開かれた本」にするために専門的な著述は「これだけは必要」に留めた。

ほんとうにそれで本が書き進められているのならよいのですが、まったくそうなっていないのに甚だ失望もし、それを通り越してしまったので怒りさえ覚えてしまったのでした。

「開かれた本」であるためには、そもそも掲載された作品を聴いたことがなくても中身が分からなければならないはずですが、この本は作品そのものを耳にしたことがなければ、まず読めません。「分析」のためには、手元に必ず楽譜(スコア)が必要です。当然、スコアを読む素養も必要です。・・・そんなことをしなくても読める「分析本」がありますし、仮にも「分析」を標榜するのであれば、そうでなければならないと思います。かつ、<ソナタ形式>という、少なくともシューマン時代までは決して浸透していたとは言えない形式概念で読む・・・私たちはその読み方にずっと慣れてきましたから、それ自体は支障が大きいわけではないかもしれません・・・と著者が言っていながら、どこでその読みを展開しているのか、これは私の知能が低いから仕方ないのかもしれませんが、さっぱりわからない。

勘弁して欲しい、の頂点が、たまたまシューベルトの記述のところに出て来ました(その前の部分にも耐えかねたのですが)。

その時点で放り投げてかえりみなければ済んだ話でしたが、おかげでかえってシューベルトの「交響曲」もきちんと聴き直そうか、と考え始めることが出来たのですから、これはむしろ恩恵だったのかもしれません。

そのような次第で、今回だけ、私が気に障ったその本の、シューベルトを扱った章の記述にみられる問題点を、幾つか述べておきます。・・・というわけで、その本を買ってしまいました。(アホやん!)

ベートーヴェンの《第九》は交響曲の歴史に金字塔を打ち建てた。後世への影響は必至であり、交響曲制作への重圧は地下水のように浸透していった。しかし《第九》発表後の早い段階で、すでに特筆すべき重要な作品が現れていたのである。

第九はベートーヴェンの生前は初演と再演の後故国では葬られたも同然で、少なくともシューベルトの交響曲について述べる場所でこう語るのは、本段の最後(シューベルトの「グレート」をさす)を述べたいが為の恣意であり、お門違いもいいところです。「第九」の認知度はリストの努力でもドイツ圏ではなかなか一般的にならず、むしろフランスで注目されたほうが早くて(アブネックによる初演・・・ベルリオーズがその際のパリ音楽界の受け止めかたを皮肉っぽく観察しています)、ドイツ圏への浸透が確実になるのは、崇拝者ヴァーグナーが確固たる地位を築いて後のことです。ですから、ベートーヴェンの交響曲が、交響曲制作の本場であったドイツ圏(シューベルトを最後にオーストリア方面で良い作家をみかけることが出来ない不審が残りますが)では重圧を残した、ということばが仮に真実であったとしても(他のかたの著作にも同趣旨が述べられていることからして、私はこれは3分の1はほんとうかもしれない、とは靡きかけています。ただし、歴史的な記録を鑑みますと、残り3分の2は経済事情と世間の嗜好という別の要因ではないかと考えております)、それは《第九》が生み出したものではないでしょう。交響曲に限って言っても、後輩作曲家陣の《第九》への追随はメンデルスゾーンには当然のように、シューマンにもブラームスにも全く、見られません。創作方法からそれらしい痕跡がうかがえるのは、ブルックナー(ブラームスと時期が被りますが)やマーラーからです。
シューベルトの「グレート」が、この文脈上で「特筆すべき」と語られるおかしさについては後述します。

シューベルトはベートーヴェンの作品に対して最大限の賛辞を惜しまなかったというが、みずからの音楽は《エロイカ》の飛躍を体験していなかった。

「ベートーヴェンの作品に対して最大限の賛辞を惜しまなかった」なる典拠が不明です。これはベートーヴェンの伝記(これが最近さっぱり出ませんねぇ)にシューベルトが見舞いに来た際のエピソードが必ず出てくる場面、シューベルトは内気で何も語れずに飛び出した、なる話を、往々にして拡大解釈して述べているのを目にして来ましたから、その延長線上にあることだろうと推察されます。シューベルトが
「心の底では自分でも、何らかの人物になれるかと期待はしているのですが、しかしベートーヴェンの後でまだいったい誰に、何らかの人物になることが出来るでしょうか?」
と述べていた(村田千尋『シューベルト』p.156に引用)ことから、ベートーヴェンの存在に畏怖の念を抱いていたことは明白ですが、その創作に対しては決して素直に賛辞ばかりを呈していたわけではないのが、前回みた発言から察せられます。再度引用します。
(シューベルトら、サリエーリの)弟子達のすべてが打ち込んでいる作曲活動においては、あらゆる好奇趣味から解き放たれて、ありのままの自然が持つ表現力のほうに素直に耳を傾けることが目標となっている。(問題の)好奇趣味は今たいていの作曲家たちの精神をとりこにしてしまっているのだが、その責任は、我らが祖国ドイツの最も偉大な作曲家の一人(=ベートーヴェン)が唯一負うのだと言ってもいい。この好奇趣味は悲劇的なものを滑稽なものに・快適なものを下品なものに・至高の神聖を荒唐無稽に一緒くたに混ぜこぜにして区分けもせず、人間をして、愛の内に霧消させるべきところを興奮の渦に投げ入れてしまい、神の高みに至らせる代わりに爆笑へと誘導する。この好奇趣味を自分の弟子達のサークルから追放して、代わりに純粋な聖なる自然に目を向ける(べくいざなう)ことは・・・それを守り続けて来た芸術家にとって、最高の満足であるに違いない。(1816年6月16日。實吉晴夫訳『シューベルトの手紙』p.35訳文改変。)
なお、《第九》で始めた一節にいきなり<『エロイカ』の飛躍>なる表現が出てくる飛躍にもぶっとんでしまいます。それは割り引くとしても、ベートーヴェンとは違う人格であったシューベルトが、ベートーヴェンと同じ形での「飛躍」を経なければならないはずだったわけがありません。(筆者によれば、それはシューベルトには《未完成》交響曲で訪れた・・・となっていますが、理由が「分析的に」明示されていません。もっと立ち入れば、「未完成」でとった書法は「グレート」には全く引き継がれておらず、むしろ「グレート」と同年のイ短調ピアノソナタで展開がなされています。)ベートーヴェンはベートーヴェンで、死の床でシントラーに見せてもらったシューベルトの《美しき水車小屋の娘》その他の歌曲・歌曲集に「シューベルトには神の火花が宿っている」と言った話は有名ですが、まあ、それは、おまけ話か。

続いている《未完成》をめぐる部分については、とばします。ここもおよそ分析的とは言えない主観的記述が続いています。《未完成》のなにをもって、「そこにあるのは外から内への転換であろう」などと推測しているのでしょう? 分析を標榜するなら、いかに素人向けとはいえ、きちんと明示して欲しいものです。書法的には、交響曲をだけ対象に《未完成》を「聴く」と特異性がある(冒頭楽章に独立した序奏がなく、序奏の主題は楽章中で【ソナタ形式なるものの公式的・形式的な】第1主題本体を飛び越えて重要な位置づけをもたされている)ように感じられるものの、それはシューベルトの交響曲の中で唯一遅い冒頭楽章であり、それゆえに短調の暗色が際立つからであって、序奏音型をなんらかのかたちで重視した作法は既に第1交響曲で用いており、成人してそのアイディアが【いわゆる展開部で序奏主題を最優先する試行をするかたちで】発展したのだ、と捉えても不自然ではなく、むしろそうみたほうが彼の人間としての一貫性を確かめ得るはずです。

次の部分は《未完成》云々に先行して出てくるものです。

彼はある時「大交響曲への道」(1824年3月31日付、レオポルト・クーペルウィーザー宛の手紙)を熱く語ったことがあった。

シューベルトが熱く語ったのは、該当書簡を参照すると、交響曲について、の思いも確かに欠けていないのですが、その部分は熱いというよりもむしろ創作家らしい慎重さがあり(そのへんは受け止めかたで左右される感想かもしれませんが、モノを作るかたなら、シューベルトの「のぼせていない」アタマを覗けると思います)、究極の情熱を向けていたのは演奏会を開くことについてであったものであることが分かります。
「リートの方では、あまり新しいものは作らなかったけれど、そのかわり器楽曲をたくさん試作したよ。弦楽四重奏曲を2曲、八重奏曲を1曲。それにもう1曲、四重奏を作ろうと思っている。ともかく僕はこういうふうにして、大きな交響曲への道を切り拓いていこうと思っている。----ウィーンの一番新しいニュースは、ベートーヴェンがコンサートを開いて、彼の新しい交響曲、新しいミサから3曲、それに新しい序曲を一つ披露するという事実だ。----もし神の御心ならば、僕も来年には似たようなコンサートを開催しようかと考えている。」(「シューベルトの手紙」p.135)
経済的事情からでしょうか、交響曲を盛り込むことは出来ませんでしたが、シューベルトはこの手紙から四年後にようやく、生涯ただ一度の自作コンサート開催にこぎ着けます。それはこういう内容でした。(村田著p.114)
1828年3月26日(ウィーン、楽友教会ホール「赤い針鼠」)
1)弦楽四重奏曲
2)4つの歌曲(「十字軍」・「星」・「漁師の歌」・「アイスキュロスよりの断片」
3)グリパルツァーの詩による「セレナーデ」
4)ピアノ三重奏曲
5)歌曲「流れの上で」(ホルンとピアノにより伴奏)
6)歌曲「全能の神」
7)二重合唱「戦いの歌」

《未完成》から《グレート》の間に創造の飛躍があり、グレートの前年にベートーヴェンの《第九》が初演されていること、そして《グレート》に《第九》の引用があること【綴り手注:これは演奏する人が必ず気付く終楽章のほぼ中間の部分です】は何を意味するのか。この方程式を解くことはそれほどむずかしくはなかろう。明らかに《第九》体験は、シューベルトの交響曲創作の飛躍のバネとなったのだ。もうちょっと現実的な書き方をすれば、シューベルトは《第九》の圧倒的な感銘のうちに《グレート》創作の筆を執ったにちがいない。だからこそ、シューベルトは自分の記念碑的な交響曲に、ベートーヴェンの名を刻んでおきたかったのだろう。これが「引用」につながった。そうすることで、《第九》への思いを吐露し、ベートーヴェンへの感謝の念を表明しておきたかったのだろう。なぜなら、なぜなら《第九》は交響曲と音楽が持つ可能性の啓示であり、シューベルトにとっての交響曲のありかたを示す指標であり、目標となっただろうからである。では《第九》がシューベルトに啓示したものとは何だったのか。

・・・ん? 筆者は19世紀末のお生まれなのでしょうか? 某評論家のようなご長寿のかたの見解をはるかにとびこえて、非常にロマンチックな無根拠記述をなさっているのは、重要無形文化財に推挙すべき功績ではないでしょうか!!!
まず、ベートーヴェンとシューベルトの晩年当時の社会において、ベートーヴェンの《第九》は決して交響曲の規範扱いされていたわけではないことは、最初の引用文の後で述べたとおりです。では、シューベルト故人にとっては例外的に交響曲創作の規範となったのか、と考えてみると、《グレート》のつくりとベートーヴェン《第九》の作りにまったく共通点がないこと、あわせて、これは補作のかたちで耳にすることしか出来ませんけれど、《グレート》の後に書かれ(1828年?)、未完で終わったD.936aのニ長調交響曲断片の楽想と構成にもベートーヴェンの交響曲全部と共通する何ものをも聴き取ることが出来ません(この断片はBrian Newbouldの補作で、マリナー/アカデミーの演奏で録音されています newton classics 8802033 6枚組 同じ人物の《未完成》補作同様、おそらく補筆した部分の後期ロマン派的なオーケストレーションや楽想にシューベルト本来の意図が隠れてしまっているきらいはありますが、それを割り引いても、このことは言えると思います)。シューベルトがベートーヴェンの記憶を留めたい意図がほんとうにあったとしても、「作品分析」を標榜して作品を読むのでしたら、ベートーヴェンが音楽の上までを支配することはなかった、なる点を正面から見据えるべきであり、それに逆行する記述法は「今の」学者さんとしてはお粗末なのではないか、と強く言いたくなるところです。
以下の記述で作品「分析」がようやくちょっとだけ顔を出すのですが、4ページ足らずであり、これまた楽譜を参照して小節を数えたりしながらでないと決して読めない書き方であり、「開かれた」態度の話し振りとは思えませんから、ここで本をゴミ箱に送ることにします。《グレート》の分析をどうしてもしたい、というのなら、冒頭に掲げた諸井さんの本や、『名曲解説全集』でも読んだ方が、よっぽど役に立ちます。

・・・ああ、ゴミ箱送りにするんだったら、本を買った金額分、なんか食った方が良かったな!
・・・ブックオフに売ったって10円にもならんもんな。

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