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2011年2月 2日 (水)

シューベルトの交響曲(1)能書き

Ooibanner


 

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ヨーロッパのオーケストラ音楽を享受にするあたって、日本は、とくに「交響曲」と呼ばれる曲種を偏重してきたのではないか、自分もそうではないか、という思いが、このごろ強く湧いて来ます。ですから、「交響曲」もしくは「交響詩」と称された古典以外の管弦楽曲についてはほとんど知らない。アマチュアオーケストラの選曲をするときに、詳しい人が持ち寄って来たもので、かろうじて違う種類の作品を認識し始めたようなものだったのではないかなあ、と、今にして感じます。まして、豊富なオペラやオペレッタについては、私たち、と言って語弊があるのでしたら、少なくとも私は、あまりにもその僅かな片鱗しか知りません。
そこで本当はせめてロッシーニやらオッフェンバックやらから改めて覗いてみたいところなのですが・・・ロッシーニについてはこないだ、何故突然オペラを書かなくなったかを妄想して綴りました・・・舞台や映像にかかるドラマは、鑑賞を綴るにもなかなか相手にしづらいところがあります。(モーツァルトがいま『後宮よりの誘拐』を目の前にして鑑賞ストップに陥っているのも、似た理由からです。)

そこでちょっと、シューベルトの交響曲さんたちに前座をしてもらおうと思います。

前座、などというのは、しかし、まったく失礼な話でして、彼の交響曲は1813年から18年までに完成された1〜6番と称されている初期作品(シューベルトの16歳から21歳の時期に当たります)も、よくよく見直されるべき作品である、と考えております。

主にドイツ・オーストリアの交響曲の(日本で書かれた)歴史は、ベートーヴェンより後の世代の作曲家が書いた交響曲について、近刊の講談社選書メチエのものまで、「ベートーヴェンを強く意識し、克服しなければならなかった」みたいなことをしたり顔で語り続けています。
本当にそうだろうか、という問いかけが、シューベルトの完成した交響曲7曲&「未完成」からはなし得るのではないでしょうか?
あるいはブラームスの交響曲もまた然りなのであって、活字なんか脇においてブラームスの交響曲に耳を傾けるとき、私たちは決してそこにベートーヴェンを重ねあわせることはありません。ブラームス自身、自分の第1番を「ベートーヴェンの第十」と呼ばれることにあまりいい気分ではなかったと記憶しております。
マーラーの交響曲も9番までしか完成せず、ブルックナーは9番の完成まであと一歩のところで没したりして、それにベートーヴェンも交響曲を9番までしか完成し得なかったことを重ねあわせて、いたずらにベートーヴェン神話を作り上げたのは、ブルックナーもマーラーも組していたヴァーグナーが強烈な「ベートーヴェン賛美」を繰り返したことが投影しての「迷信」であることは、こんにちでは明白であろうかとも思います。

私自身はベートーヴェンの交響曲は20代の頃は2番を除き全曲、主要旋律を落とさず鼻歌で歌えたくらいに大好きです(記憶力がダメになって来て、いまはもう出来ませんが!)。が、それはそれです。

シューベルトの「グレート」の一隅にベートーヴェンの「歓喜の歌」の断片が聞こえるからと言って、それが本当にベートーヴェンを「克服」しなければ出来なかった交響曲なのか、その決め手になるとも思えませんし、書籍にそんなことを綴った方がどの程度この点を強調したくていらっしゃるのかも、私はせいぜい立ち読みしかしておりませんので理解出来ておりませんから、書籍がどうの、ということは抜きに、自分なりにシューベルトの交響曲を見つめておきたいのです。

立ち読みとはいえ、ある交響曲関係の書物で奇異に感じる一例は、シューベルトが「未完成」や「グレート」で、ベートーヴェン経験を通じたが故に飛躍した、とのこだわりを、ご著者がどうしても繰り返し述べずにいられないところなどにあります。とくに「グレート」終楽章がいくらベートーヴェン第九終楽章主題のパスティッチョを意図していたかもしれないからと言って、そのパスティッチョを形成するに至る構成の仕方があたかもこの作で初めて現れたように語っているのは、私にはまったく理解出来ません。他者の主題のパスティッチョがどうの、という前に、主題を登場させるまでの修辞法はシューベルトは既に第1交響曲で用いているからです。作品を「啓蒙的に分析」してみせようとする書籍は、どうしても何かしら立派なこじつけをせずにはいられないようで、正直のところ手にするのも不愉快です。が、気分のことは措いて、それはそれで、シューベルトの交響曲を見ていく上では落ち着いて読まなければならないのかも知れません。努力はしてみましょう。

そのへんはまたの課題としまして、シューベルトの交響曲そのものに見られる特徴の一つだけ、綴っておきましょう。

シューベルトの交響曲は、5番と「未完成」を除き、すべて冒頭楽章に緩いテンポの序奏を持っています。
ベートーヴェンの交響曲でゆっくりした序奏を持つのは、1、2、4、7番、と、第9を除いて観察すれば半分です。交響曲を作りかけては断念したシューベルトですが(作品表上、断片は少なくとも4つあります)、序奏のある割合はベートーヴェンより高い、と言っていいでしょう。
さらに序奏の質について言えば、ベートーヴェンのものとシューベルトのものに共通した性格を見てよいのはベートーヴェンの第2番とシューベルトの第4番だけでしょう。後者が短調なので、分かりにくくはありますが。
また、シューベルトの作った序奏はすべて主調で堂々と開始され、速い主部に向けて掛け入っていくような書法をとっているのは「グレート」のみです。ベートーヴェンの序奏で明確に主調で始まるのは2番と7番ですが、7番は主部に向けて主部の動機を新たに生成するため一旦鎮静する性格を持たせた序奏であって、シューベルトと共通する性格はありません。

以上の事実だけを見ても、シューベルトにおいては「グレート」ですらベートーヴェンとの単純比較で評価することに危険性が孕まれているのではないかと推測されるに足るはずです。

また作品ごとにおおまかにみて行きますけれど、シューベルトの作り上げた音響は、当初はまずモーツァルトのオーケストレーションや旋律作法に近似したものがあり、構成はハイドンに近く、さらに和声はドイツのメンデルスゾーン、シューマンを感じ取らせるものが徐々に生まれていきます。あまり細かく見ていくわけではありませんが、「ここはこんなでしょ?」との例示はしてみたいと思っております。
また、「天国的な長さ」と評されることになる「グレート」の特徴も、先にちらりと述べましたとおり、第1番にすでに見られる点は留意しておくべきであろうとも考えております。

なによりも、シューベルトがベートーヴェンをどう見ていたか、がはっきりしている次の日記文には、もっと注意が払われるべきでしょう。

「(シューベルトら、サリエーリの)弟子達のすべてが打ち込んでいる作曲活動においては、あらゆる好奇趣味から解き放たれて、ありのままの自然が持つ表現力のほうに素直に耳を傾けることが目標となっている。(問題の)好奇趣味は今たいていの作曲家たちの精神をとりこにしてしまっているのだが、その責任は、我らが祖国ドイツの最も偉大な作曲家の一人(=ベートーヴェン)が唯一負うのだと言ってもいい。この好奇趣味は悲劇的なものを滑稽なものに・快適なものを下品なものに・至高の神聖を荒唐無稽に一緒くたに混ぜこぜにして区分けもせず、人間をして、愛の内に霧消させるべきところを興奮の渦に投げ入れてしまい、神の高みに至らせる代わりに爆笑へと誘導する。この好奇趣味を自分の弟子達のサークルから追放して、代わりに純粋な聖なる自然に目を向ける(べくいざなう)ことは・・・それを守り続けて来た芸術家にとって、最高の満足であるに違いない。」(1816年6月16日。實吉晴夫『シューベルトの手紙』35ページ掲載の訳文を、そのままでは意味がとりにくいので、シューベルトの原文に忠実に読めているかどうか不確かではありますが、私の<読み>に改変したものです。その点はご容赦下さい。1816年はベートーヴェンは45歳、作曲は3年前の第8、第7や戦争交響曲でほぼ休止状態となっていた頃です。)

これが仮にシューベルトの中でその後も持続した感じ方ではなかったにせよ、「グレート」や「未完成」の創作までには6年〜9年しか間がないことを考慮すべきでしょうし、ベートーヴェンの作風への感じ方とベートーヴェンへの敬意を、それこそ「一緒くた」にして考えなければならない理由もまた、どこにもないということも注意しておくべきかと思います。

このつぎに取り組むときから、シューベルトの交響曲の特徴のなかで際立っているものを拾い出して観察してみたいと思います。

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