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2011年1月 9日 (日)

書かれていない音楽

小倉貴久子さん×大井浩明さん 2台のフォルテピアノによるモーツァルト全曲演奏会第3回第15〜18番)は、2011年1月13日(木)18:30〜 東京・池袋の明日館にて。今回はまたいっそう聴きごたえがあります!

Oguraooi


Douyaruno 「書かれていない音楽」だなんてものは、それこそ沢山あるでしょう。
民族音楽、とよばれる範疇に入るものは、ほとんどすべて、「書かれていない」はずです。
でも、そういう話ではありませんで、お許し下さい。

「書かれていない」ということが何を指すか、も、実はまた難しい。書かれている、というと、それぞれの音楽を聴いた印象を文に綴ったものも含まれますから、上で言ったことをさっそく覆すことになります。それでは趣旨に反しますので、文で綴られた感想・評論の類いは、まず除きます。
次に、音楽を文書に記録する媒体で、譜面なるものを思い浮かべますと、絵画的なものあり、文字で綴られたものあり、記号で綴られたものあり、と、だいたい三様あるでしょう。
で、実は、これだけの方法がありながら、それでも、創作家さんなり採譜をなさるかたなりが、そこに盛り込みきれない「音楽」がある。いま考えてみたいのは、そちらのことです。

絵画的な譜面、というので非常に面白い経験をさせて頂いたのは、そうしたことについてのパイオニアである大井浩明さんが昨年採り上げた松下眞一「スペクトラ第5番」を復活上演なさったときでして、ピアノの蓋に映るこの曲の譜面は、読めない私には、ただの「絵」でしかない。それが音に変わったときに豊かな世界を時空に描く、それを耳で「見る」というのは、まことに不思議な、魅力的な瞬間でした。これについての、とても初歩的な考え方は、野村誠+片岡祐介著『音楽ってどうやるの』96-97頁に、「絵画作曲」と称して出て来ます。こちらは「絵を楽譜だと思って、無理矢理に音楽にする」なる面白いものですが、その、ちょっとしたコツに

あくまで絵を楽譜とみなして、解読する。形、色の組み合わせ、線などを、漠然と見るのでなく・・・

と述べられています。
大井さんの方法は、それを精密に、かつ「無理矢理」ではなく、書かれたものから重要なヒントを読み取っていくものでした。

あるいは、古代ギリシャの音楽は文字譜で記されていましたから、その復元の手続きも、絵画的な譜面を読み取るのと、趣意は異ならないでしょう。

この、「読み取り」について、少しだけ考えましょう。

日本の伝統音楽では、雅楽は文字譜、声明はネウマ的なもの、で、平曲や能になると、その併用となっています(能は正しくはネウマ的ではありません)。併用型は、絵画譜や文字譜に比べると、音楽を書き表す上では、精緻になっていると言えるでしょう。

ヨーロッパで、ネウマではことたりなくなって生まれ、最終的に整えられた五線譜は、記号化された譜面の中でもいちばん分かりやすいものとみなされ、活版印刷にも馴染みやすかったからでしょう、いまでは(たぶん多くの世界で)譜面の標準形とみなされ、「楽譜」と言えば「五線譜」である、と暗黙の了解をした記述がなされているのが普通です。

五線譜は、音符ひとつひとつの長さも、そこに書かれた音楽のテンポやリズムも、平明に読み取れるように記されています。では、それで「音楽」のすべてが書かれているのか、と言えば、優れた作曲家さんや演奏家さんが度々仰っているとおり、そうはなっていません。五線譜で記されない代表的なものは「フレーズ」とでもいうべきもの、音楽がどこからどこまでで「ひとかたまり」なのか、というあたりでしょうか。歌詞が付いている作品ならば、歌詞がヒントにもなりますが、楽器だけで演奏される作品となると、補助的に書き加えられた記号(スラーや、ピアノならばペダル記号や、弦楽器ならば運弓記号など)から読み取るしかなく、それらもない譜面となると、譜面だけではお手上げとなる場合もあります。音符と音符を繋ぐ手段(連桁)で、フレーズの読み取りが妨げられる場合も、数知れぬほど多くあります。

一方、日本の伝統的なものの中でも、「謡」の譜面(謡本)となると、こちらは必ず歌詞があるわけですから、言葉が読めれば区切りについては読み誤ることはありません。音の高さも、謡い出しのところや、変わり目となるところに、文字で指定されています。西洋風の十二音でも、南〜西アジアの微分的に細分された音でもなく、(ヨワ吟と呼ばれるものでは基本的に)4つないし5つの音高が使われるだけであり、そこからちょっと浮くか、下向きに変えた音を派生的に用いるだけですので、初心のわたしたちには難しいですけれど、慣れた人には充分な情報量が書き込まれていると言ってよいかと思います。音の長さも、ゴマと俗称される点(横に真っ直ぐなものを直章【スグショウ】ないし平ゴマ、読点のように右下に下がるものを下章【サゲショウ】ないし下(ゲ)ゴマ、と呼ぶとのことです)ひとつを、普通のスピードのときには五線譜の八分音符ひとつ分だと思えば、その打たれかたや重なりかた、変形された記号(¬の類い・・・通常、点2つ分の音価を基準とします)で、ほぼ読み取ることが出来ます。ただし、とくに句の終わりは特別な区切りがなくても習慣的に延ばされますし、しかもそれが必ずしも常にそうだとは限らないので、これは習慣を知らないと譜面からだけでは分からないことになります。(五線譜にしても、本当は同様です。謡のほうに戻りますと、謡い出しの音の高さも言葉のイントネーションの影響を受けたりしますが、これは謡のほうの固有のことかもしれません。)本格的に演じるときには舞を舞ったり囃子と連繋したりしますので、その情報が最小限しかない「謡本」は能の譜面としては欠落がある、と言われることが多いようですが、文化史的な背景から謡だけで演じられる習慣のほうが巷間に広まっているので、そのための便宜としては不足はないと言えると思います。かつ、そうしたことを「欠落」と言うのでしたら、五線譜であっても、合奏用のパート譜は同様の欠落があると言うべきでしょう。

話がずるずる横道に逸れます。

細々した話に立ち入ると、五線譜と謡本の対比だけからでも、たくさんの尾鰭がびらびらとしてしまいます。
それらは、上で綴った中の小さいことどもから推測もして頂けますでしょうから、御推測頂くことで充分、ということにします。
とにかく、ここまでで言いたいことはただひとつ、

「どんなに詳しく書き込まれた譜面でも、そこに音楽作品のすべてが書かれているわけではない」

なることのみです。

先にちょっと触れましたとおり、作品の背景にある、民族や時代に依存する習慣については、譜面には「書かれていない」ことが当然にあります。区切りや、さらにはイントネーションについても、同様に習慣に依存する面が大きくあり、これは「書かれていない」のがあたりまえだ、と認識しておく必要があるでしょう。ですから、専門の演奏家さんや研究家さんは、そうした習慣を、国々や時代時代の記録なり、残っている道具から必死で探り出したりなさいます。専門家さんなのに、あまりに的外れな解釈を堂々としすぎる態度で公表すること自体には、その影響力を考慮すると、たいへん問題があると言うべきですが、正しいか正しくないかには線を引ききれないのが「書いてしまう」ことの常に孕む問題ですから、謙虚さが保てているならば良しとしておいても構わないのでしょう。

では、仮に時代や習慣に対する「読み」が正しくできたのなら、それでいいのか、あるいはまた、「読み」が正しくなければ、譜面の上に「書かれていない」音楽を奏でることは不可能なのか、なる話が次に来ます。

音楽は、響いてなんぼの芸能です。

根源的な問題は、むしろ、読めるか読めないかよりもこちらにあるのだ、とは、演じ手は肝に銘じなければならないのだろう、と、常々思います。・・・だから、まわりくどくしないで、その話だけに留めてもよかったのです。ただ、ピント外れにならないためには、研究は大変重要なことのひとつではあるので、触れておくべきかと考えております。

響きを楽しむ立場・・・演じ手からみれば、お客様・・・にとっては、背景だの習慣だのがどんな理屈であれ、響いてくるものが、聴く耳にそれなりに整って届かなければ、とたんに退屈になったり、不愉快になったりします。

仕上がった演じ手を自認するひとのものでも、聴き手にそう感じさせてしまうのは、片側には聴き手の上から取り去り難い、聴き手の殆どを覆っている「今の習慣や固定観念」があるからで、これは聴き手側がそれを取り去って純粋素朴に響きを楽しむ耳を持ち、面白がる感性を養う必要もあると思います。

もう片側には、調べても調べても、訓練しても訓練しても、それだけでは「書かれていない音楽」をきちんと整えて提供し得ない、演じ手の能力の限界が立ちはだかっています。技術の難度の高さ故にどうしようもない場合がありますけれど、そこは演じ手が自らの限界を(密かに充分に)認識しているかどうかで演目を緻密に選ぶことにより回避し得ることもあります。・・・そこで「逃げを打てない」と思ってしまうのが落とし穴であることも少なくないかと感じます。「逃げない」ひとには、どこまで行ってもかなり苦しい精進がまっているのは、とくに難曲でも避けずに通らなければならない専門家さんにとっては、そのあたりに起因することではないかと思います。ですからいっそう、素人はよく弁えて、「落とし穴に落ちない」配慮をすることが大切かと感じます。

勉強の途上にあるひとの発表を虚心に聴かせて頂くと、もっと基本的に、
「書かれていない」
ものを
「読み取れている」
かどうか、がはっきり分かるものだなぁ、と驚かされます。そんなこともありますので、勉強途上のひとの演ずるものを見聞きさせて頂くこともまた、大変な勉強になります。
そのときには、聴き手の私は、自らも勉強途上だ、何故なら自分は目の前で演奏しているひととは違って、体にたしかに音楽の困難さを直感しているわけではないのだから、との謙虚さを保つべきであります。

奏でられ、歌われるもののなかに、伝えるべく整えられた、しっかりしたメッセージがなければ、どんな種類の音楽であっても、まずは、音楽として存在する価値がありません。

それを、譜面という手段に拘泥して、そこに並ぶ記号を勢いよく追いかけているうちは、演じ手にせよ聴き手にせよ、音楽を味わう最も大切な「書かれていない」要素の数々を、まだ懐中に抱いていない・・・まったく抱いていない、と言うべきでしょう。

心が大切だ、と表現されてしまうことがままあるのですけれど、それはしかし、たとえそうでも「ムード」としての「心」ではない、と知ることが肝要なのではないかと感じる今日この頃です。

大切なものを本当に手中にするには、いま手元にある「手段」の数々を、もういちど虚心に振り返って、演じるなり味わうなりしなおしてみて、
「これを音楽として掴むには、では何が不足なのだろう?」
なるあたりを、よくよく検証しなおす必要があるケースが、思いのほかたくさんあるのではないでしょうか?

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コメント

横道へそれまくりのコメントで済みません。
小生学芸会クラスのギター初心者で、時々発表会での演奏経験あります。本文章拝読させて頂いて、思い浮かんだことです。

能・演劇等はこの際除外いたしまして、音楽関連の演奏会ですが
(もう何処かでされているかもわかりませんが)
発声は厳禁でジェスチャーありで、①会場はフラット・靴音無し②椅子希望ok
③ドリンクバーあり④読書ながらコーナーあり⑤街角コーナーあり⑥寝転びコーナー有り
・・・・・のような、普段の何気ない生活環境の中で音楽聴く。

なんていう場面の演奏会いかがでしょうかね?
随分・横道でお答えはスルーで結構です。

↑・・拝読しながら思えてきた事素直に書きました。

投稿: 楽・酒・楕円 | 2011年1月 9日 (日) 17時47分

楽・酒・楕円さま

こんな退屈な記事に、とても楽しいコメント、ほんとうにありがとうございます! 

発声なしでのジェスチャーは大変そうですね。
畳の場所での演奏会なら靴音なしはすぐ実現できますね。
とても印象に残ったのは、お寿司屋さんでワイワイやってるなかで歌って下さった青木純さんのカンツォーネの演奏会でした。どんだけみんなワイワイいってても、お歌が始まると、そのときは誰もが耳を傾けるだけのお歌の力があるので、シーンとなるんですよ。青木さんはお話も上手なので・・・力のあるかたはそういう演奏会が出来るという一例でご紹介致します。(青木さんは名歌曲をたくさん作られた越谷達之助氏に教えを受けられ、その後イタリアで本格的にお勉強なさって、帰国後はミュージカルで大活躍なさいました。)
街角コーナーということでは、作曲家の野村誠さんが路上ミュージシャンもやって、それを日記に綴ったものを本でお出しになったりしています(いま、なかなか手に入りません)。
寝転びコーナーは、残念ながら存じ上げません。

読書しながら・・・ってのは、う〜ん、音楽をたのしむ環境に浸りたいときは、ちとやめたほうがいいかなぁ・・・

ドリンクバーは休憩中だと可、みたいなのは、小規模な演奏会だとなさっていることがありますね。

なんだか、つまらんお返事で、すみません。

。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

投稿: ken | 2011年1月 9日 (日) 20時36分

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