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2010年12月29日 (水)

でたとこ能見物(1)

(1)能の大まかな構成(2)小段構成の具体例(3)能の始まりかた(常座・ワキ座・狂言座)(4)能の臍(5)能のクライマックス


さて、屁理屈で言い訳しておいたので、いよいよ、ものしらずの能見物を始めたいと存じます。

本来は習って知るべきところを本によってのみ見て行く上に、あくまで素人記述ですので、勘違いの点は、例によってご指摘・ご指導頂ければ幸いに存じます。

内容は知りませんが、『能は死ぬほど退屈だ』というタイトルの本もありますように、とくに前半部分では歌舞伎や人形浄瑠璃のような大きい動きを殆ど見せない能は、最初よっぽど好条件で出会えないと、近代人の私たちには、見物するのに飽きがくる、むずかしいものだと感じます。
白洲正子さんも、最近発行された平凡社ライブラリー『美の遍歴』におさめられた草稿の中に、こう書かれています。

「お能は芝居や映画の様に、ぼんやり座ってみていても、決して向うから面白くなって来てはくれません。むしろ見物の方から、積極的に協力しないかぎり、これ以上つまらないものはありますまい。」(「能のデッサン〜鑑賞について 『美の遍歴』93頁)

その積極的な協力というのが、また、能に描かれた物語の出典だとか、舞いかた謡いかたや囃子についての知識を持つことではないのだ、と、能をよくお知りになっているかたには仰られるところがまた、案に相違して難しい。それは、やはり白洲さんが『お能の見方』(新潮社 とんぼの本)で引いていらっしゃる福原麟太郎さんの言葉にあるような素直な出会いを、私たちが出来る機会をなかなか得られないところに理由があるのではないか、と、私には思われます。

「近藤乾三氏の熊野(ユヤ)が、南をはるかに眺むればと上扇(あげおうぎ)だか何だかをしたときは、あっと感心した。このおじいさん、何も考えてはいない。ただ形をしているだけに過ぎないのである。然るに実に美しい。ああいうのはどうにもならない。ただ美しいというよりほかに言いようがない。熊野の境涯とか、この能の思想とかいうことは、何の関係もなく、ただ一人の美女が扇を上げている美しさなのである。」(6頁)

いっぽうで、そんな困った状態でいる素人向けには大変親切な本である『能楽ハンドブック』(戸井田道三監修、小林保治編、三省堂 第3版2008年)ではこう述べられています。

「能が演劇だというのなら、観る前に何の準備が必要なものか、事前の用意なしには十分にはわからないというものなら、それは本物の演劇とはいえまい、などと勇ましく、したり顔に言う人がいるが、それは能が『語りの歌舞劇』であることを解さない者の公式論に過ぎない。・・・『語り』の内容を知らずに、それにもとづく歌舞の面白さを十分に味わうことは、無理な相談に近い。その意味で、能は文楽などと同じく、観客に観るための用意を求める芸能ということが出来る。」(33頁)

そんな、能解説者の対立した見解の中をとるのに都合のいい方法はないのでしょうか?

過去の人の生み出した芸能というものは、別段日本の伝統芸に限らず、本来このブログの対象であるクラシック音楽でさえも、その過去に対する理解がなければ「分からない」部分を必ず持ってはいる、と思います。反面、じゃあ分からないから楽しめないか、というと、それはそうでもなかろう、と思います。なまじっか自国の文化であって由来を突き止める方法がどこかにあるはずだ、と前提してしまうから、由来を知らずには楽しめない、なる逆説が生まれてくるような気もします。

といっても、そこは簡単に断定できることではありません。

いちおう、由来を知る手がかりがないとしてでも掴みやすいのは、音や形に出る動きがどのような規則性を持っているかを感じ取ることではないか、と仮定して、それを単純に追いかけてみるのはどうか、と、最初は考えてみましたが、それはそれで、せっかく自国のものなのだから、整理するには幾許かの「由来」のようなものも、ある程度把握しながら進めて行くのが、よりよかろう、と思っております。


そこで、「能」はだいたい10前後の「小段」というものから構成されているところに目をつけていこうというのが、<でたとこ能見物>の狙いです。

この小段の組み合わせかたについては、現在に残る能楽の始祖とも言える世阿弥が、五段構成でのありかたを『能作書(三道)』という書物の中で述べていますので、今回はこれをご紹介するところで以後の準備としたいと存じます。【】の中が、今の能で使われている用語です。

作とは、種(能の素材)をば、かやうに(=前節のように)求め得て、さて、よくよくなす所を定むべし。

まづ、序・破・急に五段あり。
序一段、破三段、急一段なり。

(序段ハ)開口人【多くはワキに当たる登場人物】出でて、指声【サシ】より次第【次第】、一謡ひ(ひとうたい)まで一段。

(是より破)
さて、為手【シテ】出でて一声【一声】より一謡ひまで一段。
そののち、開口人と問答【問答】ありて、同音一謡ひ、一段。
そののちまた、曲舞【クセ】にてもあれ、只謡ひ(普通の謡)にてもあれ、一音曲、一段。

(是より急)
その後、舞にても働き【ハタラキ】にても、あるいは早節・切拍子【キリ】などにて一段。

以上、五段なり。

(小西甚一編訳『世阿弥能楽論集』所収。「三道」は角川文庫でも読めます)


【】で括った言葉についてのみ、『お謡ひ稽古の手引』(藤波紫雪、檜書店)から説明を引いておいてみましょう。ただし、シテ以外については大まかなことが分かる程度に留めます。

ワキ:ワキは古くは脇の為手(シテ)と云った、つまり、シテの傍に在って、これと対立して演技する人といふ意味である。(以下略)

シテ:シテは為手、即ち為(す)る人----演技者の義で、一曲の中心になる人物を云ふ。能楽は、概ね、前後二場に分れて居り、シテは一旦退場し(これを中入【なかいり】と云ふ)、扮装を改めて再び登場するのが普通であるが、この場合には、前場のシテを前シテ、後場のシテを後シテと云ふ。前シテと後シテとは同一の人物であるのが原則であるが、中には、前シテが静御前、後シテが平知盛の怨霊というやうに(注:これは「船弁慶」の例)、全く別個の人物である場合もある。

サシ:これは洋楽の吟誦調(レシタテーヴ)に相当するもので、拍子に合はせずスラスラと淀みなく謡ふ。(以下略)

次第:これは次第の囃子で登場した人物が登場最初に謡ふ謡・・・(以下略)

一声:シテ(又はワキ、ツレ=シテかワキの同伴者)の登場の際に奏される囃子の一種・・・(以下略)

問答:(これは『お謡ひ稽古の手引』には記載がありません。『能楽ハンドブック』によります。)広義の能のコトバによる対話。

クセ:曲舞の主要部分・・・(中略)・・・殆ど全部が地謡(客席から見て右手の板の間に座った人たちによる謡)で、途中にシテの謡ふ部分が一個所ある。これをアゲハと云ふ。・・・(以下略、曲舞については記載なし、他の説明も引用が難しいので今回は略)

ハタラキ:(これも記載ありません。舞台を一巡するだけ、などのように、舞に至らない動作をいいます。)

キリ:一曲の終末をなす謡で、拍子に合ふ。(以下略)

拍子ということについては、単純なようで難しいことがありますし、言葉にするより耳で直接のほうが「ああそうか」と感じられたりしますので、いまは触れずにおきます。

これでも少々煩雑な気がしますが、こんなところで、以後の準備としたいと思います。

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