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2010年12月26日 (日)

でたとこ能見物(0)前屁理屈

ど素人 平曲考

(1)入口(2)曲節概観(3)琵琶の手(4)平曲の構成(5)口説(6)初重(7)三重(8)中音(9)拾等(10)折声、差声、歌(11)本文から想像する曲節(12)『横笛』鑑賞


でたとこ能見物

(1)能の大まかな構成(2)小段構成の具体例(3)能の始まりかた(常座・ワキ座・狂言座)(4)能の臍(5)能のクライマックス


何も分からんままに平家琵琶の音楽についてみてきました。

で、何も分からんままに、能に突入します。

「平家」、いわゆる平曲の延長の上に能の発想があるから、ではあります。

今井勉さんの平家琵琶のCDで解説をしている薦田さんが平曲を整理するにあたっては、その先人たちの能楽構造にたいする分析と整理があったそうですし、実際、平曲の曲節名は能に通じるものがあります。いずれもダイレクトに聲明から引き継いで発展させたのか、あるいは能楽は「申楽の能」の延長線上でのちに「楽」と付されたのですから、申楽が聲明から導入したものか、その辺は分かりません・・・たぶん前者でしょう。
いままでの野次馬は、無条件に薦田さんの整理して下さった類型から金田一春彦さんの文を元とし、藤井制心さんが五線譜に採譜したものを参考にしながら、平曲の曲節を中心とした目でしてきました。文学的な話はご専門のかたがかなり立ち入っていらっしゃるので、資料の制約のある素人が、別段、そちらまで云々する必要はありません。

ただ、では「能」が音楽だけを切り離して五線譜を補助手段として観察できるか、となると、つらつら考えるに、不可能です。
「純」音楽として観察しようと思うと、舞・謡・囃子の三態がありますが、それらは絡み合ってはいるものの、実際に鑑賞してみると、切り離すことができない。でありながら、それそれの約束事は別々であり、なぜそれらが一体となりうるのか、頭では分からないのです。
(念のためですが、感覚としてはたぶん、分かるのだと思います。)

能は、完全なかたちで演じられる他、半能、一調、仕舞、素謡など、部分的にとりだして演じるかたちでも楽しまれています。
仕舞や小謡は能が武家の式楽になり庶民から縁遠くなったために生まれた楽しまれかたであり、一方では本当の「能」の敷居の高さを思わされるのですが、もう一方では、それでも誰もが触れてみたかった魅力を秘めているのだろう、と食指を伸ばしたい欲求をそそられるものでもあります。

享受人口の多い能は、謡本や舞の振付けの本が入手しやすいものの、残念ながら囃子についてはとくに、外から詳しく理屈を覗く資料がなく、謡や舞についても、実際にはちゃんと先生について習わなければ本当には理解できないものだと感じます。(この辺りは、私たちは義務教育で習いますので無自覚になりがちですが、五線譜にしても実は同様であることは強調しておきます。)

したがって、外野の素人の目耳からの能、ということに話が留まって行くかと存じます。

平曲からの延長で見て行くため、いちおうは、音声的なところに主眼を置いてまいります。
お詳しい方からご覧になって、間違っていること勘違いしていること、が多々出てくるかと存じます。
そのあたりは是非ご教示頂きたく、お願い申し上げます。

ただ、少しの間ひたすらに、次の言葉を拠り所として参りたいとも思っております。

結局芸術というものは、教えられて覚えるものではありません。ピアノの譜と、謡のゴマみたいな節付の間に、何程の違いがありましょう。お玉じゃくしはいかに科学的に見えようとも、結局心覚えの他、何のタシにもならないことを、音楽家は誰でも知っている筈です。ましてそれ以上のこまかい説明や書き込みにおいてをやです。
(白洲正子『美の遍歴』102頁、平凡社ライブラリー 2010.12)

お能に雰囲気をつくり、風情を与えているのは、言葉の力ではなく、意味でもなく、肉声であり、その抑揚であり、更に言えば姿の美しさなのであって、囃子が音楽でないように、謡は文学ではないことを、見物は・・・納得するのです。
(同『お能の見方』100頁、新潮社 とんぼの本 1993)

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