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2010年11月 5日 (金)

非夢の領域:伊左治直の世界

大井浩明さん"Portraits of composer"第3回は11月13日、いつもの門仲天井ホールにて。リンク先をご覧下さい。
演奏する作曲家さんたちについて、平凡社「日本戦後音楽史」にある記載を下記リンク記事に抜き出しましたので、ご参照頂ければ幸いです。
・塩見允枝子さん http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-b8cc.html
・伊左治直さん  http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-176e.html
当日演奏される塩見作品については、大井さんのブログに既に掲載されています。
 http://ooipiano.exblog.jp/15379131/


Isajialbum「非夢」なんてことばは、辞書にも世の中にも存在しません。

とりあえずいちばん入手しやすい伊左治直(すなお)さんのCD「熱風サウダージ劇場」fontec FOCD2565 を拝聴して、なんとなく浮かんだ文字でしかありません。

で、毎度のごとく、ド素人の訳の分からぬ印象を述べようか、と考え続けておりました。

聴いているととっつきやすい伊左治作品ですが、その「とっつきやすさ」とは裏腹に、何で「とっつきやすい」のか、を文字にしようとすると、はた、と困ってしまうのに気付きました。

サウダージ saudade なることばについては、wikipediaにも説明が載っていまして、「郷愁、憧憬、思慕、切なさ、などの意味合いを持つ、ポルトガル語およびガリシア語の語彙」で、ひとつの単語では言い表しがたい意味を持っているとのことです。

で、伊左治さんのこのアルバムに収められた作品群の素材は、たしかになにか情感をそそられるものが使われてはいるのですが、全体の印象としては、からっとした明るさがある。・・・聴いてみて頂ければお分かりになると思うのですが、ことばのある作品(歌)の詞の中に夜に関わる語彙があっても、強い曙光を感じさせられる気がするのです。夢ニ非ズ。

何故だろう、と思って添付のリーフレットを読みますと、伊左治さん自身の言葉で謎解きがされていました。

「サウダージにはノスタルジーよりも、はるかに多層的な感情の重なりがあり、それゆえに(誤解を恐れずに言うと)激しい熱さえも帯びている。だからこれは、過去の作品への単なる郷愁ではない。邦題で『熱風』を加え強調されることで、より一層ノスタルジーとは峻別されるものだ。」(リーフレットp.2)

そんなこんなで迷っているうちに、今回はゆとりがなくなってしまって、伊左治作品にどう接したら、その作品への愛情をよりきちんと示せるのか、を見つめきれずに、ギリギリの時を迎えました(大井さんによる集中演奏は11月13日ですし!)。
ですが、大慌てであっても、伊左治直の音響世界は、まことに心底愛されてしかるべきものだ、と確信していることを、ド素人なりにお伝えしたいと思います。

11月13日のPortraits of Composersで演奏される曲目はアルバム「熱風サウダージ劇場」には含まれません。
では「熱風サウダージ劇場」に含まれる曲はどんな印象なのか、は、じつはここで駄弁を弄するよりも、伊左治さんのご性格なのでしょう、アルバムのリーフレットの文言だけでかなり具体的にイメージを持つことが出来、それを読んだ後でCDを拝聴しても、おそらくイメージに大きなズレは生じないだろうと思います(私は聴いた方が先でリーフレットを後から読んだのですが)。

原義としてのサウダージが各作品やその連結に濃厚に存在するとしても、伊左治作品はこのアルバムの中で少なくともリアルな3つのタイプには別れるのではないかと思います。
ひとつめは、現代日本の音響そのものへの(やや入り組んだ)パロディで、「フィネガン前夜祭」・「チューバ小僧」・「THE」がそれに入るかなあ、と感じます。
ふたつめは、これが最も多いのですが、物理の世界では決して出来ない「時空の旅」のリアルな実現で、「綱渡りの娘、紫野の花」・「機械の島の旅(夜明け)」・「橋を架ける者」・「墜落舞踏奇想曲」(「奇」は糸偏が付く)。
そして三つ目は、音世界そのものへの、作曲者によるオリジナルパロディ。「ゆっくり蛇の足」は純粋にこれかな?

こんな区分けが良いのかというと自分で首を傾げますし、それぞれがそれぞれの領分をまたいでいると言った方がより適切な気がしますが、共通するのは、伊左治作品はじつにあっけらかんとした光のもとにある点です。

それが曲調を明解で明朗にする。

ひっかかってならないのは、「響き」としては明解で明朗であっても、構成としてはかなり巧みに「文学化」されているのを忘れると、なんだか煙に巻かれたような、狐につままれたような気分が後に残る・・・そんな術が仕掛けられていることにくれぐれも注意しなければならないだろうことです。

伊左治作品は「音楽的構成」なるものをとっている、とは、私には思われません。
ことばを伴うと伴わないとに関わらず、これらは一種の「文学」ではないのでしょうか?

それだけ具象的なメッセージ性に富む。ただし、ことばをもってしては書けない「文学」がここには書かれている。ですから、目覚めていないと伊左治作品に対する耳がほんとうには開かない気がするのです。
隣接する領域としては、もしかしたら映画がいちばん似た表現手段なのかも知れない、とも思いました。でもやはりそうではないのは、伊左治作品は映像にも集約されないことからはっきりするのです。

ひとつの愉快な例が「フィネガン前夜祭」です。
なんとなくヴィジュアルも浮かんでくるようなこの作品、途中だけ取り出したら、全日本合唱コンクールで課題曲に選ばれてもいいような音響を持ちます。
でも、コンクールの主催者は、この作品を絶対に課題曲にはしないでしょう。
理由は簡単です。

・課題曲には長過ぎる
・課題曲にするには詞がナンセンスでありすぎる(とても素敵な文学作品からとられているのですが)
・課題曲には相応しくない発声をしなければならない箇所もたくさんある
・合唱のひとが、なんでだかわからんがけったいな鍵盤ハモニカ演奏しなければならない

ものすごい作曲賞を取った作家さんでありながら・・・いや、だからこそ、なのでしょうか・・・素人アタマにこんなことを並べ立てて面白がってみたくなる強烈な皮肉が感じられるのは、まことに愉快です。

で、毎度のことながら、伊左治さんご自身は純粋に「サウダージ」の情感の一環としてこの作品を仕上げたのであって、こんな私の感想なんか目に入れてしまったら、

「けっ!!! へぼ聴き手めが、皮肉だなんて、とんでもない妄想でおいらの大切な作品を台無しに言い表しやがって!!!」

とアタマのてっぺんが噴火するかも知れないので、こんなところに致します。

・・・せめてもう1回チャンスがあったら、もうひとつくらいイタヅラ綴りたいなあ。
・・・ほんとは四の五の綴る前に、好きなんです、こういう響き。

なお、アルバム「熱風サウダージ劇場」では、大井浩明さんがクラヴィコード(「機械の島の旅(夜明け)」)とオルガン(「橋を架ける者」)を演奏しています。

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