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2010年11月 7日 (日)

書籍:塩見允枝子『フルクサスとは何か』

大井浩明さん"Portraits of composer"第3回は11月13日、いつもの門仲天井ホールにて。リンク先をご覧下さい。
演奏する作曲家さんたちについて、平凡社「日本戦後音楽史」にある記載を下記リンク記事に抜き出しましたので、ご参照頂ければ幸いです。
・塩見允枝子さん http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-b8cc.html
・伊左治直さん  http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-176e.html



Shiomibook塩見允枝子さんについては、ご存知のかたはご存知なのでしょうね。
とても活動的なかたなんですね。

世間に疎い私は、存じ上げませんでした。もったいないことでした。

第3回POCで大井さんが採り上げる塩見さんの作品については、大井さんのブログに既に解説がアップされています。
で、伊左治さんの場合のように(そして他の日本の作曲家さんの作品に新鮮に触れてみられた時同じことを繰り返して来たように)録音への@素人オバカ感想を綴っていけばいいのかな、それが自分流の楽しみ方かな、と思っておりましたが、塩見さんにはご著作があります。この中に、CD『音と詞の時空』fontec FOCD2568 に収録された曲についての塩見さんによるお話が、周辺のことがらと合わせてご本の方に出てきます。

上記CDはたいへんに素晴らしい集成で、心躍ります。是非にとお勧めします。

とはいえ音だけ拝聴しても何か視覚的なものを思い描くこと無しにはいられない、深い夜の中の華やかな母胎を思わせる塩見作品は、ご本の方を拝読すると、やはりその「胎動」を赤子として享受することなしには、その豊かさの半分にも触れ得ていないのだな、との感を強くします。

駄弁はこれくらいにして、塩見さんの魅力的な思考には、ご著著『フルクサスとは何か』(フィルムアート社 2005)から少しばかりの抜き出しをすることで包まれておきたいと思います。

なお、「フルクサス」は創作と発表を一括りにしたイヴェントを表わす語彙にもなっていようかと思いますが、れっきとしたグループ名でもあります。「フルクサス」のメンバーであることの要件は、「フルクサスとは何か』の18-20頁に掲載されています。「フルクサス」を記述するのが本記事の目標ではありませんので、「フルクサス」については塩見著でご確認下さいますようお願い致します。

以下、魅力的な本文の、僅かばかりの抜粋です。


このとき【1987年のイヴェント「再現・草月アートセンター」】のパフォーマンスは、後でNHKのテレビ番組でも紹介されました。インタヴューを受けたある青年が、「へぇー、これが60年代の前衛ですか。今でも結構、前衛なんじゃないですか」とコメントしていたのが印象的でした。というのは、その頃はもう、前衛なんて意識は、まったくありませんでしたからね。(中略)前衛が成り立つのは、蹴って跳び上がるべき、しっかりとした地盤があるときです。60年代のそうした地盤というのはアカデミズムや伝統でした。反発すべき地盤が軟弱になったり、砂地のようにサクサクと崩れやすくなると、前衛という意識は意味をなさなくなり、消滅します。現代はどうなんでしょう? 物は豊富で表現も自由、何でもありでほどよく共存でき、立ち向かうべき相手が見えない時代と言えるのではないでしょうか? 現在では、前衛なんて言葉はおそらく死語に近いでしょうね。しかしどんな時代にも、人間を抑圧している要素は存在するはずで、それを意識するかしないかの違いに過ぎないのです。IT革命は、文明としては前衛と言えるでしょうが、それは技術と企業の競争原理から生まれたもので、人間の側からのものではありません。芸術における前衛というのは、人間の復権の声として出てくる行動なのです。もし今の時代に前衛が、つまり時代の最先端で問題点を捉え、時代をリードしていく動きがあるとすれば、それはかつてのように、エネルギッシュな破壊力に満ちたものではなくて、もっと性質の違ったものになることでしょう。若い世代の皆さんのなかに、それを見たいものです。(139-140頁)


今の若い人たちはパフォーマンスが好きですね。見るにしろ演ずるにしろ。この積極性はどう解釈すべきなんでしょうか? 人間のコミュニケーションが次第に間接的になり、街へ出ても黙って機械の間を通過するだけで目的が達成できたり、どこにいても液晶画面を覗くだけで事足りることの多い時代に、これは一種の危機感からくる反動なのか、と思ってみたりもするのですが、パフォーマンスは人間が人間であることをプリミティヴに、かつクリエイティヴに自覚できる機会ですから。人々がこれに集うのは健康な現象であると言えるでしょう。(218-219頁)

フルクサス作品のパフォーマンスに限って言えば、専門的な技術はいりませんが、むしろ精神的な態度が重要になるのです。パフォーマンスに入ると同時に、行為の抽象化、つまり日常的な自意識を捨て去って、自分が行なうべき行為に没頭できることが重要なんです。(219頁。以下のメッセージが示唆的ですが抜ききれませんので、是非本書を手に取ってお読み頂きたく存じます。)


たとえば、「具体主義 concretism」。マチューナスが言うには、古典的な絵画での具象主義や写実主義は本当はイリューショニズム、幻影主義だというのです。つまり、いかに本物らしく穴が描かれていたとしても、それはそれらしく見えるだけで、本当は、穴の形にこびりついている絵の具の塊に過ぎない、という即物的な考え方です。もし、本物の穴が開いていれば、それが本当の具体主義だというわけですね。(234頁)


普通、創造というと、無から有を生み出すとか、自分のなかにある何かを表現するというように考えられていますが、私はむしろ、すでにどこかに存在するのだけれど、まだ誰も気付いていないものを発見し、発掘する行為だというふうに考えています。だから、自分は表現する主体というより、たんなる媒体に過ぎないんだと。(中略)結果も、もちろん大事なんだけれど、この「日毎に自分は新しい」という感じが、行動するエネルギーの源になっているような気がします。この感覚があって初めて、日々、自分が生きている意味を納得することが出来るし、他人に対しても寛大になれるような気がするのです。このことは、どんな仕事に就いている人でも、おそらく同じでしょう。(248頁)

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