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2010年11月21日 (日)

「原点」と「享受」・・・ベートーヴェン第7を例に・・・

ベートーヴェン「第九」ファクシミリ、アカデミア・ミュージックで特価販売中。入手のチャンスです!



ふと、案外たいせつな問題なのではないかなあ、と思い始めたことを、ざっと綴ります。

素朴に音楽(いちおうジャンルを問わないながら、新しい音楽は除きましょう)を好きで聴く・歌う場合には、考えなくていいことだと思いますので、気に留めないで下さい。
あるいは逆に、マニアックに聴く、こだわって演じる、ということに似た話題に見えるかもしれませんが、私の心づもりはそこにはありませんので、そちらをお考えの場合も素通りなさって下さい。

ただ、年月の洗礼を受けて来た「音楽」を、私たちはどう捉えていくべきか、ということに関心がおありでしたら、ちょっと目を留めて頂ければ幸いです。

自分自身はおよそ三十年、アマチュアのオーケストラ弾きとして、「ごく一般的」な演奏スタイルの中に、ひたすら没入して過ごしてきました。そのあと、環境の関係で、五年ほど、ウェイトが「聴く」、それも録音を主にし、「クラシック」プラス「日本の伝統音楽を含む民族音楽」というほうに傾斜してきました。
その間、「クラシック」は「古楽」運動が以前には想像もできなかったほど前面に押し出されて来ていながら、それはメジャーなメディアには稀にしか乗らない、ということに奇異の感を持ってみたり、民族音楽の中には、長い時代の経過を読み取れる一方で、「現在」が常につきまとっているのを思い知らされたりすることが増えたりしました。

いまは具体的には松平頼則作品に平曲(平家琵琶)から題材を拾って来たものがあるのを聴かせて頂いたことがきっかけで、平曲の構成を自分なりに見直してみようか、なることを始めているのですが、関連する本などを読んでいますと、
・平家琵琶、あるいは平家物語の「原点」はどんなものだったのか
・平家琵琶はどのように享受されて来たがゆえにいまあるものになったのか
なる2つの問題が、テキスト・演奏の両面において密接に絡み合っているようなのです。

古典文学の研究では、作品が年月を経て変容していることがごく当たり前に前提とされるので、必ずと言っていいほど、その作品は「最初はどういう本文だったのか」が追求されます。・・・でもって、愉快と言ったら叱られますが、研究者さんがよってたかって取り組むわりには、その「最初の本文」が突き止められるケースは非常に稀です。平家物語の研究は、それが琵琶を手にして語られるものであるという性質からでしょうか、「最初の本文」については、究明に向かう道は泥沼の中にあるんじゃないか、とさえ思われてきます。それでも、平家物語、ひいては「平家琵琶」の本質に迫るためには、傍目に滑稽であろうが、原点を考え続けることは、たしかに大切なものではあるのです。(こうした「原点」追求は、新約聖書における福音書の原型はなんであったか、を突き詰める方法論から大きな影響を受けています。)
いっぽうで、平家物語はいま一般に読まれるようになっている「覚一本」の美しい本文に収斂するのにどのような政治的動きが絡んだかや、その後武家のみが愛好することにより武家政権の崩壊とともに危機を迎えるにいたったか、などの享受史の問題も浮かび上がってきます。その中で、語られ方にもどうやら変容があったのではないか、ということが、こちらは近年やっと薄々感じ取られ始めていたりします(山下宏明『琵琶法師の「平家物語」と能』、兵藤裕己『琵琶法師』など)。

以上に立ち入ることはここではしませんが、こうした平家物語/平家琵琶に見いだされ出した問題点は、音楽の「クラシック」・・・日本に於いては18〜19世紀の西欧「芸術」音楽・・・になされているアプローチの、とくに第二次世界大戦後の趨勢の変化が抱え込んでいるだろう問題と、非常に似通っていると思われてくるのです。

ひとつの典型例として、ベートーヴェンの交響曲を採り上げます。

いま、『第九』の優れた自筆譜ファクシミリが、地デジ対応テレビのやや大きめのものと同じ程度の値段で手に入るという、これまでになかったチャンスが来ていますので、私も思い切って背伸びをして手にしたのですが、なぜファクシミリを手にしたいと思ったか、のいちばん単純で表面的な理由は、印刷されたベーレンライター新版がそれ以前のものと数ヶ所違っているので、やはり「原点」に返ってその是非を確認したかった、との思いがあったことでした。で、この違いに関して言えば、ベーレンライター版はベートーヴェンの自筆をきちんと見直したものである、との確証は得られました。
では、自筆譜をきちんと見直したのであれば、それが「原点」なのか、となると、実はそう断言するのは非常に難しいのだろうな、ということにも、初めて思い至りました。
『第九』はそのあたりの議論がもっとも活発で、私のような素人が今更しゃしゃり出る意味はどこにもありません(印刷譜と自筆を比べたときに興味深いところについては、いずれ少しだけご紹介しようと思っております)。
で、平家〜第九と迂回して来て、それらを用いてではないところがお恥ずかしいのですが、同じベートーヴェンの「第7」のほうに、耳で聞いても分かる面白い例がありますので、それを使って、そのあたりを簡単に感じ取って頂きたいと思います。素材は第1楽章に限って2つだみておきましょう。

・序奏部では、最初にオーボエが主題を呈示した後で、弦楽器が十六分音符のの上昇音型の積み重ねの後にそれを引き継ぎますが、楽譜によってはそれにスタカートがついているものもあり、演奏でもそれを意識したものがあります(ノリントンなど)。ベーレンライター新版に則ったものとして大々的に売り出したDavid Zinman/Tonhalle Orchestra Zulich(1997)はその極端な例です。

が、ベーレンライター新版の楽譜では、ここにはスタカートがついていません。この第1楽章序奏の演奏は他にもトリルを上から始めるという、これは「古楽」のImmerseel/Anima Eterna(2006)の演奏でもやっていないことをしていて、ちょっとビックリ、極端に非スタンダードなのですが、装飾の問題はともかく、依拠したはずのスコアにはないスタカートを演奏しているのは、別の根拠があるからなのでしょうか?
「XX版の楽譜使用」と謳った演奏でも、その楽譜だけに忠実に依っているわけではない、とは、よくよく承知をしておかなければならないことのようです。

・第1楽章主部の展開部で、これはGunter Wand/NDR(1987)の録音の例ですが、内声部をレガートで演奏しています。

この箇所はベートーヴェン「第7」の印刷されたスコアを私が斜めに目にした限り(5種類程度)では、レガートの指示を記したものはひとつもありませんでした。これもまたImmerseel/Anima Eternaを引き合いに出しますと、この箇所はWand録音ほどではないにせよ、レガートに近い処理をしています。となると、こちらは先の序奏部の処理根拠以上にまた、一般には目にし得ない根拠資料が存在すると見なすべきなのでしょうか? あるいは単にある口頭の伝承が一部の人たちの間ではなされ続けていて、それを採用したのだと考えるのが妥当なのでしょうか?

上記2例とも、しかしながら、第二次世界大戦終結直後まで引き継がれて来た「一般的な」演奏とは、はなはだイメージを異にするものです。ヴァントの演奏はそれでもニュアンス付けに気付かなければ分からなかったりするのですが、ジンマンのものは・・・同じ読みを取り入れた演奏の中でもひときわ・・・異質に聞こえます。それは、私たちが以前の演奏で耳慣れているせいだけなのでしょうか?

「第7」についてはベートーヴェンの自筆を参照していないのでなんともわかりません。が、万が一、序奏主題のスタカートや展開部の内声のレガートがベートーヴェンの自筆に示唆されているのだとしたら、これらは「原点」に回帰することを目指したものとして評価されてよいのか、という問題を提起します。もしそうでなければ、ではどうしてそういう解釈【の亜流】が生まれたか、ということに話がすり替わるだけです。
ここにあるのは、「原点」か「解釈」か、の錯綜でしかありません。

一方で、「第7」も含むベートーヴェンの交響曲は、傾向としてはベートーヴェンの死後、19世紀のオーケストラが常態的に規模拡大していく中で音響やアーティキュレーションが形成されていったのであり(19世紀中の演奏法の変遷については、難読の書ですが、Clive Brown "CLASSICAL & ROMANTIC PERFORMING PRACTICE" OXFORD UNIVERSITY EXPRESS 1999が体系的にまとめていますし、20世紀初頭のオーケストラ演奏録音を聴くとそれがなお引き継がれている様子が分かりますが、20世紀に入っての奏法変遷について研究をまとめた書籍は私の視野には入っていません)、「古楽」運動はそれを「原点」に返らせたらどんな響きがするのだろうか、という素朴な疑問から始められたものであろうにもかかわらず、ヨーロッパから遠くはなれた日本では、そのあたりの批判精神をきちんと把握しないまま(奏法そのものについても奇妙な誤解を堂々と主張している某書籍には、また、「レクイエムは葬儀などで演奏されることはなかった」なる、19世紀ヨーロッパの史実には反することが堂々と書かれていて呆れかえったことがあります、この書籍は悲しいかな、まだ販売し続けられています・・・「レクイエム」が葬儀でも用いられたことについては、かなり先行して翻訳されていた『音楽都市ウィーン』などの書籍に明示してありますのに)、<猿真似>としてしか採り入れていない<メジャーな>あるいは<メジャーになりたい>人たちがいるのも悲しい現実です。・・・日本に関して言えば、そうでない「古楽」の人たちは、どちらかというとまだ地味に活動していますし。

で、「古楽」は・・・楽器の復元知識や技術の向上に伴って、おそらく以前よりはるかに信頼できるかたちで19世紀音楽にまで妥当性の高い様式の再現が可能になったとはいえ、やはりそれは突き詰めれば突き詰めるほど<原点>そのものとの乖離を真摯に考えざるを得ない局面に立つものであるはずです。
そのことを抜きに、20世紀中葉までに確立されて来た演奏様式を頭ごなしに否定することは、否定という行為が歴史意識として果たして正なのかどうか、なる部分の検討を試みないまま、議論の目を「独断で」圧殺するものであり、ひいては私たちがクラシック音楽を「古楽」VS「モダン」なる対比で厳密な二分法で演奏批判ないし享受を行なうことは果たして是なのか、となると、現状では首を傾げざるを得ないのではないか、ということをも、私などは思います。

・「原点」はこのようだ、と推測できるが、それで充分か?
・その後いつどんな変容から「巨匠の時代」と称された時期のような演奏が成立したのか
・これらの変遷が、音楽創作にどのような影響をもたらし、音楽享受にいかなる変化を与えたのか
・以上をとりまとめて、20世紀とはどういう時代であったのか

が見つめ直されることが、これからは案外肝要なことに思われてなりません。(こうした問題へのアプローチとして、少々極端な記述ではないか、と思いつつも、兵藤裕己『〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代』【 講談社学術文庫、もとはNHKブックス】には非常に魅力を感じます。)

このあたりが宙ぶらりんなままなのが、学校向けながら市販もされている「西洋音楽史」類で、こららのなかで、どうでしょう、20世紀後半で突然、題材とされる音楽が「クラシック」から「大衆音楽」に角度を変えてしまうという、学者さんたちのどうにも割り切れない態度に直結してはいないでしょうか?

あるいは演奏家さんたちの実践の面でも、「モダン」と「古楽」の間に、本来ならばあるべきではない境目を作り、たとえばベートーヴェン作品を「大岡裁きの前のお白州」で無用に引っぱりあい続け、あきれたお奉行さんがいつまでたっても現れない状況を生み出してはいないでしょうか?(全部が全部ではないところが、こちらの曲者であるところなのですが。)

駄弁ご容赦下さい。

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