「自分」は引退出来ない。
大井浩明さん"Portraits of composer"第3回は11月13、いつもの門仲天井ホールにて。リンク先をご覧下さい。
演奏する作曲家さんたちについて、平凡社「日本戦後音楽史」にある記載を下記リンク記事に抜き出しましたので、ご参照頂ければ幸いです。
・塩見允枝子さん http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-b8cc.html
・伊左治直さん http://ken-hongou2.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-176e.html

というのがキリスト教の諺にあるんだとかないんだとか、うろおぼえだし出典も確かめませんけれど、だから西欧の絵画に「死の舞踏」が盛んに描かれて来たんだ、と、ものの本で読んだことがある気がします。探せばあるはずですがポンペイの遺跡を発掘するくらい手間がかかるので探しません。
ヨーロピアン・クラシックファンには馴染みが深いリストやサン=サーンスに『死の舞踏』を描写した作品があるし、個人的にはショスタコーヴィチの交響曲第2番も「死の舞踏」ではないか、と思っているのだけれど、これら近代の「死の舞踏」は、<死の恐怖>のほうに偏向していて、多分、本来の「死を想え」には程遠い。いや、もう中世以降、ペストの大流行なんかがあって、そんな偏りは既に芽生えていたのかもしれません。
キリスト教にも、そのベースとなったユダヤ教や、旧約聖書を共有するイスラームにも、パラダイスというものがあります。
「仏教にも極楽があるではないか」
と言われるかもしれませんが、原始仏教や、インドの原始的なヴェーダ系の宗教には、極楽だの天国に当たるものはなかったと思います。ゾロアスター教にもなかったのでは?
ギリシャ神話の世界でも、メソポタミアの世界でも、そしていちおう「天国」に相当するものの萌芽はあるものの古代エジプトの宗教でも、明るいあの世というのは創り出されていません。古代ギリシャ人はそれ故に、ダンテの『神曲』でみんな、責め苦こそ受けないけれど地獄の片隅に住まわされています。
日本もそうですが、古代の人々にとって、あの世はあくまで闇でした。そこから
「死を想え」
を振り返ってみると、本来これは
「死んだ先は闇である・・・すなわち、我々には永遠に分からない・・・だから、いまこの生(があること)を(奇跡だと)よくよく振り返りなさい」
なることを同時に言っているのでしょう。
自分の体が辛い時、次いで、人とのやりとりにへとへとになったとき、
・・・ああ、これで死んじまったらどうなるんだろうな、
と、感じます。
これは、「死を想う」ことではありません。「生を振り返る」ことができていないからです。そういう、精神的な営みが、体や心が疲れきると欠落してしまいます。
ぎりぎりいっぱいに世間を思い過ぎていると、だから、いまこの体が保つのだろうか、なることだけにとらわれて、「死」のことも「生」のことも、本来的な意味合いで捉えようとすることを忘れてしまうのではないでしょうか。
お給金で雇われている人には定年があります。定年が来たら思い切り好きなことをやるんだ、と、大抵の人が言います。でも、いざその日が来ると、大抵の人が腑抜けになる。だったら、突然に心臓が破れ、途中でへし折れてしまった私の家内の方が数十倍も数百倍も幸せです。やつは間違いなく精一杯生きました。自分の生、ということだけについてなら、家内には悔いがないでしょう。それだからこそ、あの人の死に顔はにっこり微笑んでいたのでしょう。
が、私が今でも引っかかるのは、どうしてカカアが
「ああ、五十になりたくない!」
と、日々の疲れから繰り返し繰り返し子供たちを前に愚痴ったのを私が止められなかったのか、という一事です。
それを言わせてしまったこと、おさえられなかったことは、家内と私や子供たちとが「死を想え」・「だから生を苦しみ楽しめ」といった本当の生の意味を共有出来なかったことなのではないか、と、傷みを覚えずにはいられません。私は夫シッカクであったのでしょう。
勤め人には制度としての「引退」が「定年」なり「契約切れ」なるもので訪れるように見えます。
が、実は、その先にも「生」は続くのです。
「サボりたい」を口にするくらいはまだかわいいし、それも出来なかったら息が詰まるでしょう。
が、根源的な「引退」とは「死」でしかないのだから、「引退」という言葉は軽々に口に出来るものではないはずです。
あるのだとすれば、
「さて、死の日まで、次はどうやって生きてみようか?」
なる自己への問いかけしかないのかも知れません。
・・・以上は、けっして「哲学」なんかではないと思っております。
話は偏り続けますけれど、へたくそなまんまの音楽の活動をどうしてきたか、を、振り返ってみます。
私自身は、アマチュアではあるけれど、オーケストラの一線を引いてから1年4ヶ月が経ちます。腰掛けではこの夏まで弾いたけれど、腰掛けであったに過ぎません。
楽隊に出席していない限り楽器を持つチャンスは皆無に近い。
練習が最も大事だ、と考える人たちから見れば、お粗末この上ない環境です。
でも、これは、「引退」なのでしょうか?
元々が怠け者なので、私はあんまり「練習」ということには重きを置いて来たことがありません。楽器を持てない数年間のブランク、は、楽器を始めてからの四十年間・・・ここまでの人生の五分の四・・・の中で何回かあります。
そんなとき何が大切か?
「ああそうか、次に自分で音を出せる日にはこうしたらいいのか!」
という刺激を人様から頂き続けること。あるいは音を出す日が再来しないのであっても、
「音がこんなふうに話しかけてくる・・・僕はそれとどう会話すればいいのだろう?」
なるあたりなのでしょうか。
何回も訪れたギャップの、またそのただなかにいながら、何度同じ経験をしても、確信は持てません。
ふと、テレビを地デジ対応のために40型にしてから、手持ちのオーケストラ映像は見たことがなかったな、と気付いて、休日前なので、三つばかり、部分的に眺めました。
三つとも、ある指揮者たちの最後の来日公演のものです。
定年のあるオーケストラの団員を相手にする指揮者には、定年がありません。だから、三つの映像の三人の指揮者とも、肉体的にはガタが来ています。それを、定年のある人たちがどう感じているか、が見物です。
カール・ベームとウィーンフィルの1980年公演のベートーヴェン7番、冒頭楽章。ベームがもうよれよれで、コンマス(ヴァイオリンの先頭にすわってオーケストラをリードする役目)のヘッツェルさんがアマオケのコンマスみたいにオーバーアクションしていますが、前奏部でのテンポ感が管楽器より遅い。ベームはいくらよれよれでも、本当は管楽器が吹いている方のテンポを要求しているように見えます。でも、ベームはヘッツェルさんを信用しているから文句のある表情をしません。ただし、この日のホルンがヘタクソで、へまをやるとベームは露骨に「ケッ!」という顔になります。笑えます。木管が倍管(2本で吹くように指定されているところを4本で吹く)ですが、マーラー以後のマンモス化したオーケストラがいちばん良いバランスを保つ術を見つけた、その音がまだ残っているので、今の同様のオーケストラのようにキンキン言いません。まだ木の音がします。
オイゲン・ヨッフムとコンセルトゲボウ、1986年のモーツァルト33番(現在はアマゾンには映像へのリンクはありません)。ヨッフムが三人の中ではいちばん矍鑠とした棒を振っているからなのか、楽団員の日頃の組織の良さなのか、どちらもでしょうけれど、誰かがオーバーアクションしなくても、アンサンブルがピッタリ合っています。が、後半のプログラムがブルックナーであるためだったのか、第1ヴァイオリンが6ないし7プルト(12~14人)、ヴィオラが4プルト、チェロが3半、コントラバスが2半いて、音響がキラキラし過ぎています。・・・この時期はしかし、これが規範的な響きだったのだ!!!
ギュンター・ヴァントとNDRの2000年公演。シューベルト「未完成」の第1楽章。三人の中で唯一、ヴァントだけが立って指揮をしています。棒はさすがにテンポを正しく打てなくなっています。が、オーケストラのメンバーのありようが美しい。コンマスのオーバーアクションはウィーンフィルと同様ですが、ウィーンフィルと異なるのは、どのパートトップもコンマスと同じように明らかに合図を送っている! 指揮者の表情としては、ヴァントがいちばんボケていません。厳しい音が要求される時の厳しい眼光は間違いなく団員にあまねく伝わっています。
三者三様ではあれ、「死まで引退がない」人を・・・そしてその人の死は間違いなくそう遠くないうちに訪れるだろうことを誰もが予感しながら・・・、そういう人を眼前にして、それぞれが
「その<生>を私に教えて下さいませんか?」
と問いかけながら音を出している。
そんなふうに映像を眺めたのでは、穿ち過ぎだったでしょうか?
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