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2010年11月18日 (木)

モーツァルト:1781年の2つのコンサートアリア(K.369、K.374)

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ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

「イドメネオ」はこの年の3月3日に最後の再演がなされていますが、寡作だったこの年の中で、「イドメネオ」上演直後に位置する2つの声楽曲は、クラヴィアのための変奏曲群のリニアな進化とはまた趣の異なった彼の成長の結晶となっています。

"Misera dove son!…Ah! non son' io parlo"(あわれな私よここはどこなのか・・・ああ、話しているのは私ではなく)K.369はミュンヘンで、アマチュア歌手パウムガルテン伯爵夫人ヨーゼファのために書かれ、3月8日の日付をもっています。
3月12日にはモーツァルトは大司教コロレードに呼び出されてウィーンに赴き、運命変転の戸口に立つことになるのですが、"A questo seno deh vieni…Or che il cielo a me ti rende"(この胸にさあいらっしゃい・・・天があなたを私に返して下さる)K.374は、大司教の父の伯爵の家でプロ歌手フランチェスコ・チェッカレッリ(カストラート)が歌うために作曲され、4月8日に演奏されたとのことです。

この2作は、構造が非常に対照的です。
シェーナとアリアであるK.369は、これまでのモーツァルトのアリアの、ささやかながら見事な果実となっています。
それに対し、レシタティーヴォとロンドであるK.374は、「後宮からの誘拐」を飛び越えて「フィガロ」や「ドン・ジョヴァンニ」中のアリアを予見させる軽妙さを発揮しており、目線を未来にとっています。

アルフレート・アインシュタインが既に適切に述べているように、K.369は「劇的な状況が完全に捉えられている。曲はわれわれが初期のアリア以来よく知っている、あの情熱的な婦人フルヴィアの最後のアリアであって、いっさいのものが失われたように思われ、情熱が希望のない諦めに道を譲る瞬間を描いている」(浅井真男訳、白水社 498頁)作品ではありますが、「職業的女性歌手になら要求したであろうことを、彼女【パウムガルテン伯爵夫人】には要求し得なかった」(同頁)から、近過去にアロイジア・ヴェーバーの為に書いたアリアのような技巧を取り入れなかったのだ、という見方は一面的である気がします。「イドメネオ」のアリアの数々も、エレットラのものを除けば技巧的要求は後ろに退いていることを思い起こしておかなければなりません。
この曲の最初の和音は、なにも考えずに耳にすれば、瞬間、交響曲第39番の冒頭と混同するでしょう。調性が同じなのだからあたりまえ、だというわけにはいきません。交響曲の方は一斉に鳴り響く塊としての和音であるのに対し、こちらでは内声部はシンコペーションを、バスは弧線形の分散和音を奏でているのです。それにもかかわらず、オーケストラが荘重に響くのは、管楽器がフルートとホルンという、組み合わせると神秘的な翳りをもたらすものを選択しているところに第一の理由がある、と、私には思われます。かつ、3小節目以降は「ターラララ・ターラララ、ラッタッター」(なんて綴ると「天才バカボンのパパなのだ」になってしまいますが)という動機が、歌の転調を先取りながら他のリズムを交えず執拗に反復されるところに、序のシェーナ部分が変ホ長調に始まりながら次第に湿り気で重くなっていく仕込みがなされているのを、私たちは見て取ることが出来ます。アリアも、まずは4分の3拍子のAndante sostenutoで、シェーナ部のテンポをそのまま引き継ぎ、加わった重みが大気中に逃げ去らないようラップで覆った状態を保たせており、それゆえに、81小節で突然テンポがAllegro(4分の4拍子)に変わって音楽が疾走し出す、その加速効果を高めることに成功していると言えるでしょう。

対するK.374についてアインシュタインは(おそらく、より高度な技巧を仕込んでいる、とのニュアンスをもって)「それは全く器楽ロンドのように楽しむことができる」(同頁)と述べています。しかしながら、耳で聞く限りは、こちらのロンドにK.369より際立って高い技術が要求されている、などということは私たちには感じられないはずです。アインシュタインの言は、明らかに、楽譜の視覚的イメージを前提としているものです。実際には、聴き手にとってK.374から感じ取れるものは、要領の良いレシタティーヴォがあっさりと終わる快適さと、続くロンドの親しみやすい軽妙さのほうではないでしょうか? ロンドは24小節の器楽に先取りされ、同じ主題で歌われ始めます。この形式は、ウィーン期にモーツァルトが歌劇作品で一貫して、有節アリアなどで活用していくものとなります。歌が最初の器楽主題をすべて歌うのではなく、合の手的な動機については冒頭は弦楽器群が演奏していたものを管楽器に移して役割を明示させて効果的に歌のあいだに挟み込む、という手法もまた、この形式を彼が採用する際の重要なポイントになっています。ただし、本作では合の手動機は器楽による初回の呈示からは変形されたものになっている点、まだ後年のように固定的手法となるに至っていません。合の手に続く歌は、器楽だけのときよりも引き伸ばされ、のびのびと広がっていきます。これは、「イドメネオ」に至るまでの彼が取得した技術の延長線上にあるものです。

ほぼ1ヶ月の間しか経ずに書かれたこの2作が、一方はモーツァルトの過去をさらりと精算にかけ、一方は未来(それがたとえ10年という短い期間のものだったにしても)への大きな羽ばたきを自ら予言しているのは、クラヴィア変奏曲の堅実な進展と相互に見合わせたとき、非常に興味深いことではないかと感じております。

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