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2010年10月10日 (日)

山本裕之のまぢめないたづら(2)

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Canticumさて、大井浩明さんが10月16日にPortraits of Composers( POC)第2回でピノ作品全曲を演奏する作曲家、山本裕之さんを「素人耳線」でどう聴くか、です。
山本さんは大変真面目なお方のようですし、山本さんの周辺の方もさまざまお詳しいのではないかと推察されますので、はなはだ失礼な「聴き方」になっているのではないか、と憂慮致しますが、そこは素人、シンプルに参りたいと存じます。

じつは、大井さんがこの企画について「ラヂオつくば」のインタヴューに答えた際、山本作品はバロック的である、という意味のことを仰っていましたので、
「へえ、そうか」
と、山本作品を単純にバロック音楽と対比させて聴いてみよう、というわけです。

で、山本さんの作品はいくつかのCDに収録されているようですが、山本さんの作品だけで1枚、というCDは「山本裕之|カンティクム・トレムルム」(fontec FOCD 2555)という一枚でして、これを少し前から聴いておりましたので、この中からサンプルを選びます。

専門的な素養がないわたくしが全くサラで山本作品を聴く時、山本さんが
「たとえば楽譜を書くとき、音を一つの音符という形にデフォルメしようとすると、その際に削り取られる魅力ある曖昧な部分、つまり数える事が出来ない、音符には書き表せない様々な要素がこぼれ落ちてしまう。そんな捨てがたい音の片鱗を私は作品の中でクローズアップしようとしている」(上記CDリーフレット)
と仰っているにも関わらず、そこから「曖昧な」ものではなくて、何らかの明瞭なものを見つけようと思いつつ聴くわけです。聴く、という体験は、素朴にはやはり、視覚像を「見る」体験が同様であるように、(使い古された言葉ですが)ゲシュタルト--具体像、のようなもの--をもとめるのではなかろうか、と思います。

そう思いつつアルバム「カンティクム・トレムルム」を聴きますと、創作者としての意図は私には思い及ばないものの、まず気付くのは、私の耳に捉え得る山本さんの作品は、もっともホモフォニックな「カンティクム・トレムレムII」をも含め、音作りがヘテロフォニックだということです。複数の線が延々と別々に描かれるように見えながら、お互いが相手の線に寄り添おうとするのですけれど、例えば似ても似つかぬ線Aと線Bがあるとき、線Aが
「おお、線Bに寄り添えたぞ」
と喜んだ瞬間には線Bはすでに線Aのほうに姿を近づけてしまっているがために、結局のところA・B二者が入れ替わってしまうというすれ違いを起こしていて、お互いの本当の接点はついに持つことが出来ない、という「いぢわるな」図式が成立しているように感じます。・・・その「イヂワルさ」が面白い。
で、そのあたりを「聴きやすく」するには、「カンティクム・トレムルム I」を除き、ある定型的なサイン・・・これはCD収録作品については必ずハッキリと聴きとれるようにしかけてあものばかりです・・・を捉えたら、それを求心点として鼓膜にプロットしておき、前後の変容を味わって行けばいい、と、そのような無手勝流で山本作品に触れてみたわけです。

すると、皮肉なことに、中でも「私に触れてはいけません Noli me tangere」(約10分の曲)にあえて触れるとき、これが最もバロックの様式に似たものを明瞭に聴き取らせてくれますので、そこから拾ったものをお聴き頂きたいと思います。

まず、冒頭部分。

この部分の出だしの動機が出てくる部分を区切りと見なすと、小さくは6つ以上の部分になってしまうのですが、大雑把には3分ちょっと刻みのところに出てくるものを定点とすると3つの部分があるのだと感じられます。これがバロックの「コンチェルト・グロッソ」ないしは複数楽器のためのソナタに現れる語法とよく似ているのです。そういう点でバロックの様式はヘテロフォニーとの類似性を持ちます。アルトサクソフォーンと9楽器(フルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン、打楽器、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、ダブルベース)のための作品で、コンチェルト・グロッソになぞらえるとアルトサクソフォーンが「コンチェルティーノ」、他が「リピエーノ」になるかと思いますが、山本さんご自身は「ソリストとアンサンブル間の、協奏でも競奏でもない曖昧な関係」がこの曲の表わすところだと説明なさっています。・・・それは聴いていてとても納得がいきます。

バロックの例として、Giovannni Ravenscroft(1650-1708)という人の作品から聴いて頂きましょう。


ALTE MUSIK KOELN "ROMA" myrios classics MYR002
(10月13日にモーツァルトのソナタで大井さんと共演する阿部千春さんがヴァイオリンで参加しています。)

バロック音楽ですと、この短い例で際立ってよく分かりますように、あるモチーフが最初に発生されたものそのままに真似され追いかけられていたかと思うと、気付いた時にはいつのまにか微妙に形がズレていて、ときに我に返ったようにまた最初の形を取り戻そうとするのです。

山本さんの「私に触れてはいけません Noli me tangere」では、どうでしょうか?

第2の部分の前後。始まってだいたい3分過ぎたあたりです。

区切り点が、拾い出したこの部分のちょうど中間点くらいにあるのですが、その前後でバロック音楽と類似した追いかけあいや対立を繰り広げているのを認識し得るのではないでしょうか? 前半部は鉄琴がサックスに雫の落下の逆モーションのごとく絡むのですが、これは雅楽の弦楽器群(はじいて弾くものばかりです)が管楽器群に絡むのに似ています。後半はソロがトリルのような振る舞いでヴァイオリンのラインにまとわりつくのです。(1)のおしまいに入れたトリルのサンプルが思い出されてにんまりしてしまいます。

で、第3の部分。これは始まりから7分弱くらいのところ。金管楽器群が眼を醒まさせるように登場した後、ミュートされたトランペットがサックスのお株を奪い、サックスはもうろうとしたままそれに引きずられて行く図です。この締め括り方がまた、ヨーロッパ音楽の、古典派以降にではなく、バロック期のものによく現れるのです。上の例をもう一度お聴き比べ頂ければと存じます。

本当に面白いのは、このあとにやってくる、夕日をじっと涙目で見つめる子供のようなたたずまいの終結部でして、最後はそれを親が無理やり手を引っぱって家の中へさっと引きずり入れてしまう風情でばたっ、と終わるのですが、これは是非、CDをお買い求め頂いて、お耳でじかに確かめて頂ければと存じます。(元営業職でございます。)

あんまり
「バロックに似てる似てる」
ってばかり言ってしまうと、作曲者様並びに演奏者様に叱られるかもしれません。
今回もそうですが、山本作品の面白さは、小分けにすると消え失せるなあ、ということを思い知り、じつはたいへんに怖いのですが、もう1回だけチャンスを頂いて、
「単純に似てるんじゃあないんだぜ!」
というところも面白がって頂けるようにしたいと存じます。

・・・とりあえず、脱走。



バロックから現代音楽まで公汎に追求し続けている大井浩明さんは、10月16日に第2回《Portraits of Composers(POC)》で、20世紀をフルに生きた松平頼則と、新世紀のいま、音とは何かを模索し続ける山本裕之の作品を採り上げます。


大井さんはその前の10月13日(木)に古楽ヴァイオリンの阿部千春さんとフォルテピアノで共演しモーツァルトの「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」作品2を、(この作品の演奏には不思議なことに非情に稀である)出版時の曲順で演奏なさいます。リンクでは大井さんの師ブルーノ・カニーノがサルヴァトーレ・アッカルドと共演した演奏のサンプルをお聴き頂けます。

曲目解説はこちらに掲載されています。
http://ooipiano.exblog.jp/15255153/

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