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2010年10月12日 (火)

山本裕之のまぢめないたずら(3)

(1)(2)(3)



3回とも、どうも私は脱線し過ぎてるんじゃないか、という結果の文になってしまってお恥ずかしいのですが、まあ、私は聴き手としてそんなレベルだ、ということでご寛恕頂ければ幸いに存じます。

音楽が、いわゆる「無調」と称されるからといって、それが直ちに「不安定」で「末期的」と決めつけてしまう見方には、今の私は賛同できません。
あるいは、「前衛」という言葉で自らのテリトリを築きさえすれば、理論が分からない聴き手と「初歩的な」コミュニケーションをとれなくても構わない、とする考え方がもしあるのだとすれば、それも良いとは思いません。
・・・「無調」とは西洋音楽の長調短調から逸脱しているのがもっとも原初的な形で、そこにはまだ何らかの「旋法(メロディをつくる決まりになる約束事)」があり、それを「簡単に歌ってみればこうだよ」と示せることも必要なのではないかと思います。「旋法」をも拒否したところに、音楽の作り手は「それならこんなゲームはどうだ?」とのあらたなルールを模索しているのであって、音楽という土俵の上でのゲームである以上、ルールについて面白がってもらえなければ、そもそも音楽として聴いてもらえることは望めず、音楽である価値は存在しないと言ってしまったら、「前衛」を標榜する方には嫌悪と軽蔑しか受けないでしょうか? これは冒頭に述べた通りのレベルですから、そういう場合は私ごときは爪弾きされても仕方ありません。

ただ、思うに、スポーツを、その厳密なルールについては無知のままでも、観衆が無手勝流で楽しんでしまうことが多々あるように、音楽もまた音楽である限り、いかに変形されようとも、「音楽」であることをアピール出来る何かは残しておかなければならない。
自分たちが「終末の諦観」の中にいるのではなく、曙光を浴びて明るく背を伸ばしているのだ、ということがアピールできなければならない。

そうしたアピールがあるんじゃないかな〜? と感じるから、私には「山本裕之」がとっても面白い。

松平頼則作品もそうですが、山本裕之作品も、POC前回の松下眞一・野村誠両氏の求めた・求めている、どちらかというと汎世界的志向のようなものとはまた違って、「日本のもの」という側面で音世界にどんどん突っ込んで行く面白い角度がある気がします。

松平さんは、プロットされた音の間に日本人ならば聴き取れるだろう要素を(実際の音符はMIDIでは再現出来ない微妙なものを多々含むのだと承っていますが、それでもなお)書かずにおいたのではないか、と感じられる面を持つのに対し、山本さんはあえて、プロットとプロットの間を埋めるものを、おそらくは譜面ないし譜面に準ずるものの上にビッチリと描き込んでいるのかもしれず、山本作品には
「音を徹底的にいぢくってしまつてやらう、いひひひ」
みたいな隠微な楽しみが秘められているのではないかと勘ぐります。

ヘテロフォニーでバロックのコンチェルト風楽章を書いてしまうというのも、かたちが結果としてバロックに似たのであって、それは山本さんが前もって西欧のバロックを骨組みにしようと意図したからではないのでしょう。ですから、同じ語法を追求して行く中で、当然ながら全く違う「西洋楽器によるヘテロフォニー」の形式を見せてくれるのは、YouTubeにあった最近作の"On the Seashore"にも明確なようです。
ただし、この作品にはタゴールの詩を用いてみたり、あるいは(1)でこの作品の上に掲載した「バッハの音をいぢってみる」ことをしてみたり、なる面を拝見しますと、山本さんは過去作では聴き手に「日本的」に聞こえたかもしれない語法を、さらに汎世界の方向に持って行こうという「暗黒の帝王」たらんとする野心があるのかもしれず、興味深く思われるところです。・・・もしそうだとすれば、その創作ベクトルは、とくに松下眞一が歩んだ生涯とは逆向きであることになります。

管弦楽の1998年作「カンティクム・トレムルム I 」は、洋楽器を用いているところに気をとられると正体不明であるところが第一のミソ、もしかしたら日本の舞の音楽の系列に繋がるんじゃないかと思った時に、ほんとにそれでいいの? と、たとえば素人聴き手の私が困り顔になってしまうのを「暗黒の帝王」山本さんが「ふぉっふぉっふぉーっ!」とせせら笑うところに、受け身の仮面ライダーたる私と仕掛人ショッカーの対峙が生まれるという戯画的な様相が呈される、戦後のヒーローものがここまできたかみたいな興味で楽しめる要素が多分に孕まれているのではないでしょうか・・・なんて、もっともっとお目玉を食らいそうな方向に私の妄想は広がって行くわけです。

冒頭部はこんなふうです。

「私に触れては行けません」とは違い、定型的なものが区切り点を構成することがないのは、それがティンパニを伴った弦楽器の素早い上行グリッサンド・下行グリッサンドの反復で現れていることから、すぐ分かります。ティンパニと弦楽器のグリッサンドは管楽器とは違って段差がないので、あたかも「かけ声」のようです。これが、聴いただけでは拍節が明確とは言えない山本作品の中で、本作を際立ってリズミカルに印象づけますし、これを(他のものでもいいのですけれど)声だと思えば、このリズムは西洋風な明確さを持たないが故に、日本ならではの舞を思わせるのです。(演奏でティンパニと弦楽器の・・・あるいは管楽器と打楽器のタイミングがもっと厳密に揃っていれば、もっとアピール度が高まったのではないかと感じるのですが、将来もっと演奏技術が上がったらきっと実現されるのでしょう。音程についても然りです。)

で、このうちの「上行」への執着が、本作の主部を執拗に形作って行きます。
その開始はこの辺なのかな、と、私が感じるのは。3分過ぎたこのあたりです。(それまで弦楽器が呈示していたモチーフが管楽器にどのように引き継がれているかにもご傾聴下さい。)

弓を押しつけたノイズまで含めている、引き伸ばされた上行形は、一気に崩れ落ちる下行形で区切られることで、「舞い手が見栄を切るのに備えて矯めを作る」様相を感じさせてくれます。それがこの先続く主部でさまざまにいろどられていくところが、この作品の楽しみどころとなります。

最終の部分は、少し長く引いてみます。

8分あたりまで上行の矯めの連続で次第に形作られていくクライマックス・・・そこに「モチーフの複雑な展開」を挟まず、むしろ引き延ばしを執拗に続けるところが<非クラシック>であって、また面白いのですが・・・、それが最後の部分に来てピークの直線を描き、一気に下降へと崩れて行くところに、日本版「ドン・ファン」を聴き取らせてくれる。しかも、R.シュトラウスのそれとはちがって(R.シュトラウスは決闘で切られたドン・ファンの喉笛がヒューヒューなるというグロテスクな締めくくりを、「サロメ」以前でもあったせいか、控えめに短く示して曲を閉じるのですが)スチール・ドラムによるどこかエキゾチックな弔鐘を鳴らすところで終わらせるのが、叙事詩的にこの作品を聴いた時、心に余韻を残してくれます。

連作のようで連作ではない(?)「カンティクム・ソレムルム II 」は、この弔鐘で開幕し、「 I 」と比較するとはなはだ多色刷りの音楽を響かせることで、人間に密着した世界とはまた違う世界へと私たちを誘ってくれるのでして、この2作がたとえ連作ではないとしても、続けて聴いてみた時に生まれてくる「鎌倉期の日本仏教徒がインドに憧れて見た鮮やかな夢」みたいなものを想起させてくれるようなスリップ感をもたらしてくれるのも、私にはえも言われぬ魅力です。

作曲者への失礼も顧みず、素人の受け止め方を綴りました。申し訳ございません。

大井浩明さんの第2回POC(10月16日)で、この3回で感じたものとはまた違う展開をもった世界を聴かせてくれるであろう山本作品に、大きく期待を膨らませております。

文に多々不備がありますことを、重ねてお詫び申し上げて、わたくしの無謀な駄文を締めくくらせて頂きます。



バロックから現代音楽まで公汎に追求し続けている大井浩明さんは、10月16日に第2回《Portraits of Composers(POC)》で、20世紀をフルに生きた松平頼則と、新世紀のいま、音とは何かを模索し続ける山本裕之の作品を採り上げます。


大井さんは先立つ10月13日(木)に古楽ヴァイオリンの阿部千春さんとフォルテピアノで共演しモーツァルトの「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ」作品2を、(この作品の演奏には不思議なことに非情に稀である)出版時の曲順で演奏なさいます。リンクでは大井さんの師ブルーノ・カニーノがサルヴァトーレ・アッカルドと共演した演奏のサンプルをお聴き頂けます。

曲目解説はこちらに掲載されています。
http://ooipiano.exblog.jp/15255153/

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