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2010年9月15日 (水)

ダウランドとパーセルのはざまで

日本人作曲家の作品を集中的に紹介する大井浩明さん《Portraits of Composers》(POC)、第1回2010年9月23日(祝)が近づきました。以降、2010年10月16日(土)、010年11月13日(土)、2010年12月15日(水)、2011年1月23日(土)です。1回券はローチケ(ローソンチケット)で(入手法まとめました)・3回パスポート・5回パスポートはopus55にて入手出来ます。当日演奏される野村誠さん作品の解説こちら


ヨーロッパ在住の非常に優れた古楽奏者阿部千春さん(Vn.コンチェルト・ケルン等で活躍)による「バロックヴァイオリンコンサート」は10月8日(金)新高円寺のスタジオSKで。


上記の阿部千春さん・大井浩明さんによる「モーツァルト:作品2」昨年大好評の作品1に続きより充実の響きです。10月13日。(リンクでは大井さんの師カニーノとアッカルドの演奏引用で曲のサワリをご承知頂けます。)


その他、10月のコンサートは日が近づいたらまたご紹介します。


Revolutionダウランドはイギリスバロックの先駆、パーセルはその完成者、と一般には思われているそうです。

が、まず、少なくとも日本で読める西欧音楽史書籍の大半で、バロック音楽の節にイギリスが登場しません。
いや、美術史の本でも、バロックにイギリスが登場するのは音楽より稀です。
年代としては間違いなく、ダウランドはバロック音楽草創期に、パーセルは盛期に重なっています。それぞれの音楽の様式にも、同じ時期のイタリアもしくはフランスとの類似性が見られますのに、これはいったい、どういうわけなのでしょう?

大きくは、二つの理由が考えられるかと思います。

第一は、この時期のイギリスが激動の社会だったこと。
いわゆるピューリタン革命の発端が1637年(ダウランドの死後11年)、名誉革命が1688年(パーセル29歳)で、この表面的な事実だけからでも、同時代の西欧諸国の中ではイギリス社会は特殊だったことがうかがえます。
イギリス、と、私達はひとくちに言いますが、実際には元来この「連合国家」はイングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランドの4つの「国」から成っていたのでして、それらはダウランドの活躍したエリザベス朝期直後までは緩やかで流動的な結合しかしていなかったようです。2つの「革命」を経て、18世紀初頭に至り、結合は今日見られるようなものになっています。
「ピューリタン革命」については、「革命」と呼ぶのが適切かどうかについて、近年は否定的な論が多いようです(岩井淳『ピューリタン革命と複合国家』山川出版社 2010年)。「名誉革命」もまた、フランス革命以降の市民革命とは性質が違っていることは、ブリテン連合国家が以後安定的に王室を保持したままで近代を迎えたことから判明するかと思います。
ただし、ブリテン連合国家の特殊性は、それが複数の「国」から成っていたところにあるとは言えないでしょう。エリザベス朝の同時代に王国として広い領域を強固に統一していたのは、フランスとスペイン、スウェーデンくらいではなかったかと思います。むしろ、ブリテン連合となっていく4つの「国」の特殊性は、その結合が、緩やかではあっても、実質上、ひとつの王家を頂いてなされていたところにあるかと感じます。・・・複雑な議論はあるので正確さには欠けますが、大略はこのような特徴を見ておいてよろしいのではないかと考えております。(錯綜した政治の駆け引きは考慮していません。)
同時期の大陸側西欧は、小さな領域が別々の支配者を持ちながらも宗教と世俗にそれぞれのシンボルを共有して均衡を保っていたのであって、ブリテン連合とは様相を異にしています。

第二の、より直截な理由は、文化の流通の違いに求め得るでしょう。
イギリスにはバロック建築が存在しません。他の国でバロック建築がなされていた頃のイギリスは前代のルネサンス建築の様式を受け入れ、発展させて、独自の形式を産み出したとされています。バロック建築として計画されていたセント・ポール寺院も、結果的に違う形式のものとして仕上がりました。
「バロック」の発祥はイタリアにあり、イタリアと直接交流しあえた大陸各国はその影響を直接受けることもあったのでしょうが、イギリスは海を隔てていたからでしょうか、このような違いがうまれています。
音楽面でも、バロックの象徴とも言えるオペラは、パーセルの死後、ヘンデルが移住して来た前後の頃になってようやく盛んになっています。
ちなみに、ヘンデルは音楽の「バロック時代」に属するとはされているものの、ブルーメの記述によれば(『バロックの音楽』訳書 白水社 1974年ベーレンライター原書)「あたかもプロクルステスの寝台のように」無理矢理バロックに当てはめられているとのことです。「プロクルステスの寝台」とは、その寸法に合わないではみ出た足を切り取られ、あるいは寸法の足たりない分だけ足を引き伸ばされたという、ギリシャ伝説の盗賊の責具です。
パーセルの前時代にしても、イギリスでは劇音楽はオペラとはなっておらず、セリフの合間に奏でられ、歌われる様式が好まれました。シェークスピア劇はシェークスピアの戯曲そのものにその片鱗が窺えますし、上演時に使われた音楽もいくつか残っています。対岸のフランスはリュリによりバレエと結合したオペラ文化が「太陽王」ルイの権威とむすびつくことで定着し、遅ればせながらバロック音楽が形成されたのでした。が、イギリスにおいては、2つの「革命」の間にいくつかの試みがなされても、またパーセルという大作曲家の登場によっても、オペラが定着することはありませんでした。18世紀初頭になってようやく盛んになったのは、「名誉革命」を経て国土が安定し経済的に栄えたのを見計らってやってきたイタリア音楽家たちの働きかけがあってからのことで、ヘンデルも(そしてクリスチャン・バッハも)イタリアでの活躍があってからイギリスに来ていますので、そうした流れの延長に位置づけられてよかろうと思われます。

遡って、ダウランドについて言えば、彼は前半生を王室音楽家としては受け入れられずに大陸を遍歴したのち舞い戻って来たのでして、先輩格のタリス~バードの系譜には属さず、イタリアの歌をも多数導入し、自らの作品にも明確にカッチーニ的な初期バロックの影響を見せています。こうしたことにより、ダウランドはイギリスに留まらない国際的名声を得ることになったのではありますが、それだけに彼の音楽はイギリスのものとしては例外的な存在であったとみなせるのでしょう。

それでもダウランドやパーセルの歌が「イギリス的」なのは、ヘンリー7世に始まるテューダー朝がウェールズに出自を持つことと関係しているかもしれません。
ウェールズでは、古来、バード(Bard)と呼ばれる詩人たちが、紳士(ジェントリ)階級の正統性を証明するための、いわば<血筋の歌>的なものを、ジェントリ階級から託されて歌う慣習がありました。「歌」が心情表現の手段ではなく、権威をもつものとして存在し続けたゆえに、劇に同化されることを暗黙のうちに拒否して来た、というような精神的背景があったとは推測出来ないでしょうか?

ピーター・ウォールズという研究者は、イギリスのこの時代、とりわけ前半の音楽を「仕方なしのバロック」と呼んでいます(『オペラの誕生と教会音楽』音楽之友社 西洋の音楽と社会3 原著1993年)。そもそも音楽のバロックがパトロンによって育成を応援されたものであると捉えるならば、イギリスは緩い結合の中で4つの「国」それぞれが集中的な特権階級を持たず、音楽は・・・上流階級的市民が担い手であったとしても、いや、それゆえにむしろ高級な・・・アマチュアのものという意識の中で展開して行ったことが、文化のバロック期と目される時代に、技巧的なものよりも、パトロンによるバックアップから生まれる技巧的なものよりも、人々の口にのぼりやすい、あるいは耳に優しい作風を優先する風土を醸成し、その結果、天才パーセルにしてなおオペラよりはマスクを、対位法的で複雑なものよりは和声的で明解な序曲を創作させることとなったのではなかろうか、と、私は思っております。

・・・いかがなものでしょうか?


野村誠さん・片岡祐介さん「音楽ってどうやるの」「即興演奏ってどうやるの」もっと早く知っていたかった好著でした。ご一読を強くお勧め致します。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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