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2010年8月18日 (水)

「歴史」の難しさ~音楽を中心に:野村誠さん・片岡祐介さん「音楽ってどうやるの」(了)

大宮光陵高等学校管弦楽団第24回定期演奏会は8月28日(土)です。横山幸雄さんと共演です。



日本人作曲家の作品を集中的に紹介する大井浩明さん《Portraits of Composers》(POC)は、2010年9月23日(祝)、2010年10月16日(土)、010年11月13日(土)、2010年12月15日(水)、2011年1月23日(土)です。

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先に、野村誠さん・片岡祐介さん共著の2つの本、「音楽ってどうやるの」・「即興演奏ってどうやるの」には、とくに西洋音楽史をめぐって視点を変更する重要な手がかりが潜んでいるのではないか、と感じさせられたことを、軽く綴りました。

西洋音楽史というだけでなく、もっとグローバルに、あるいは音楽を超えて、

「歴史とはどのように把握されるべきか?」

についてのヒントをもらえた気がしている、というのが、さらに率直な思いです。

とくに、「世の中で・今進行していること」を、<歴史>なる折れ線グラフの上で、どこに点を打ち、どんな線とつなげるか、は、大変な困難を伴います。

いえ、本当は、いったん位置が明確にプロットされ、線が繋がれたかに見える出来事の数々も、ほんらいランダムな人間の行為を追及したものが「歴史」であるがゆえに、自然科学とは異なった難しさを常にはらんでいると言えます。

近年(とりわけ昨年から今年にかけて)、たとえば日本の歴史をめぐっても、綴り手の恣意的な推測からではなく、なるべく史料を駆使して、可能な限り客観的に「歴史的価値観」を見直そうとする本が、新書などの啓蒙書にも目立つようになってきて、喜ばしく感じておりました。

藤木久志さん『中世民衆の世界』(岩波新書 2010)は、専門外の人はあまり触れる機会がなかった戦国期の「村人の残した記録」を読むことを通じ、きわめて大雑把にまとめれば、江戸期に入って出来たとされる五人組などの下地、為政者側が用意した「目安箱」の萌芽が、中世の民衆と領主の間の慣習法を取り入れたものであることを・・・江戸期に至るまでの記述こそないものの・・・明瞭に浮かび上がらせてくれます。

東野治之さん『鑑真』(おなじく岩波新書 2009)は、日本人が抱くこの高僧へのイメージを確立するに当たって井上靖『天平の甍』で取り扱った鑑真の日本渡航の困難のさまが中軸を占めていたのに対し、渡航前の鑑真像(唐での優れた活動ぶり)・渡航後の鑑真を取り巻いた環境(とくに当初は反感を持つ人々もいたこと、鑑真が最大の目標としたであろう律による仏教の自立が結果的には日本に定着しなかったこと、天台宗の成立には鑑真の唐での修学、渡日時の招来品が大きな役割を果たしたこと)を、新書ゆえ手短にであるとはいえ、また小説ではないために会話調の文は一切現れないとはいえ、活き活きと伝えてくれます。

他にも、日本人にとって関心の深い古代史をめぐって、聖徳太子や蘇我氏像などをめぐる史料の根本的な読み直しを試みた新書も数種あったりして、これらは私はまだ立ち読みですが、
「では、私たちが学校で習った、あるいは築いてきた<歴史>とはなんだったんだろう?」
を考え直すための文献は、一般人にも容易に手に入るようになって来ました。

そうなってみると、痛切に感じるのは、過去のプロットがこれでよいのかとの問いかけ直しももちろんですが、むしろ

「いま、というものを<歴史化>することはどの程度の適切さで可能なのか?」

なるあたりです。

海外についてはまるきり途方にくれますし、私の視野の狭さから、日本に関してもほんのわずかしか目にしていませんけれど、いまでは中堅のすばらしい研究者の方たちが、現代文学について、作家像も含め、少なくとも第二次世界大戦(太平洋戦争)後、「昭和」が終わるあたりまでにかけての見直し・視点転換をなさり始めているのでして、幸いにして拝読させていただくことが出来たものもあります。

そんななかに、若干上の世代の人たちが書いた中で最もまとまりがよい「西洋音楽史」のとった視点と記述姿勢に大きな影響を受けた方もいらっしゃるようです。

その「西洋音楽史」の方法論が、別の優れた研究を生みだすほどに、通常の日本の私たちにとっては目から鱗を落とさせるものを充分に持っていることは、私も素直に認めたいと思ってはおります。

ですが、それすらも、大衆音楽<以外>についての分野(となるとクラシックと呼ばれているものしかないとの結果になるのかな?)に関しては、まるで中世日本の『愚管抄』(天台座主だった慈円が承久の乱を阻止しようと意図して著したもの、と、ほぼ確実視されています)に見られるような<終末史観>をとっている(『愚管抄』をめぐってのこの言い方は厳密には問題がありますので、いまはあえて紋切型にしているのをご了承下さい)ことには、前々から「ほんとうにそれでいいのだろうか」との感情的な疑いで私の胸のうちをもやもやさせられていました。
他の「西洋音楽史」教科書となると、古典派初期までの譜例だけを中心に据えたひとつを除き、疑念の度合いをもっともっと高めさせてしかくれません。

「音楽」を語る難しさは、いつでも具体像が目に出来て自由な解釈を許す美術系のものとは異なり、時代が私たちに密着しているあいだの作品なり演奏活動について、政治や社会情勢を切り離して文脈を考えることが不可能に近いところに潜んでいるように思われます。
「○○期」・「○○派」と称し得る音楽は、すでに私たちとの社会的密着度が薄れた作品、聴き得なくなった演奏のみ、と言ってしまっても良いのではないでしょうか?・・・蛇足ですが、現在の古楽演奏においては、これらの用語は便宜的に踏襲されているに過ぎないはずです。が、そのことはいまは考慮の外におきます。

で、これが、20世紀の「クラシック」となると、中葉までに終焉を迎えたとされる(細かく見ていけば断言するには時期尚早かもしれない)「後期ロマン派」と同時期の新ウィーン楽派以降の音楽、セリー音楽、ミニマル、といった類の音楽は、・・・20世紀後半は現代というにはどんどん過去化しているにもかかわらず・・・いまだに「現代音楽」という、いわば不定の名称の中でいっしょくたに泳ぎ回らされているに過ぎず、その泳ぎに一貫した背景を私たちがまだ発見していないが故に、そのバラバラ具合は、まさに「クラシックの断末魔」のように捉えられがちであり、「死に瀕したものは新たに取り上げる価値すらもない」といわんばかりに、若い人向けの<音楽史教科書>からは存在を抹消されています。代わりに取り上げられるのはポップス系の「有名」ミュージシャンたちであり、しかもそのミュージシャンたちの「作品」ではないところにも留意しなければならなりません。

これからを担う人たちに向けて歴史を見つめることを教えてくれるべき教科書がこのような偏向を示すことは、片手落ちでは済まない不健全さをはらんでいるとは言えないでしょうか?

時代を動かす仕組みはとっくに変わってきている。ただし、それがどう変わったか、の評価は、社会全般にわたってまだ決めかねるものでもあり、性急に決め付けるべきものでもありません。ただ、評価をすべき「歴史観」も、いずれそのときがきたら、立脚点を変えなければならない。
ところが(いまここでの記事では音楽に特化しようとしているのですけれど)、上に見たように、あるトピックについて見直す際には確実な変換を始めているのに対し、「通史」を記述する際には、極端に押し詰めるならば、19世紀の代表的な2つの歴史「哲学」・・・ひとつはヘーゲル的な発展史観、ひとつはマルクス的な円環史観・・・から脱却出来ずにいる。円環史観ですと、人の営みは活動と停滞を反復しながら雪だるまのようになっていくしかなく、発展史観の延長としての終末史観はそれそのものが発展の雲散霧消を示してしまうが故にこの史観の限界を表してしまいます。

それらに代わるような、あるいはそれらを併呑できるような歴史眼を、今の私たちが持ち得るのか、と考えれば、たやすくいくはずがない、との結論には簡単に至ることができます。

ただ、人が人として、その絶滅の日まで存続する以上は、人は既存の価値観にしがみついているわけにはいかない。

「歴史」をテーマにしてこんな発言をするから大げさに見えますが、なんのことはない、サラリーマンが、いつまでも自分の職場は安全であるとか雇用は安全であるとか、いやそんなことはないから、とか、仮に安全であったとしても自分自身が年老いたら確実にそこにいられないとかいうことを予想したときには、
「生き続けるために稼ぎつつけなければならない、じゃあどうするか」
をひとさまざまに試行錯誤しているのでして、特別な話ではないのだとは思います。

一般がそうであればなおさら、「まとめ」であるべきものは、規定できないものについては(たとえばさまざまな「様式」や「方法論」が混在している状況だからといって「混在の時代」とか「不統一様式時代」いうマイナスイメージ(?)の用語で呼んでしまったり、明るく「個人尊重主義音楽期」のように捉えてしまうのではなく)、規定しないままに

「いまはこういうものもあれば、ああいうものもあって・・・」

と事実を列挙しておくだけでも良い。そこからまた受け手なりの展開形(発展とは限らず後退もありえるわけですが、これはベクトル的【勢いと方向性】なものとしてだけみておくべきかと思います)を掴み取らせていくのが、次代を任せたい人たちに対する、おとなの思いやりというものでしょう。

野村さんのほうが「音楽ってどうやるの」で述べている言葉は、そんな思いやりを私たちがどう実現するかについて、ひとつの光を投げかけてくれます。

・・・Aさんにとって、皿を投げる時のシューシューという音も、立派な音楽だったのだろう。でも、「皿投げは音楽ではない」と感じるBさんに、「皿投げはあなたにとっても音楽でしょ?」と強要するのは押しつけだ。また逆に、BさんがAさんに、「皿投げは音楽ではない」と強要するのも、押しつけになる。そうやって押しつけるのではなく、
「そうか、皿投げも、人によって捉え方がいろいろですね。お互い違うから、どうやって一緒に音楽するか、お互いの共感できる部分を探っていきましょう」
と発想を転換する。他人と自分の違いを大前提に、お互いの音楽観を認めたうえで、何を共有できるかについて考える。それが、現代において「音楽ってどうやるの?」と問いを発することだと、ぼくは思うのだ。

さて、とりわけ、「即興演奏ってどうやるの」CDに含まれている、(3)で引かせていただいた、老人ホームでのセッション(再掲しませんので、ご興味があれば(3)のリンクでお聞きいただきたく存じます)は、なんの説明も無しに聴いたら

「これ、現代音楽だよねえ!」

とレッテルを貼ってしまうような音響であり、「老人ホームでの、参加者が思い思いに音を鳴らしているセッション」という説明をつけてしまうことにどれだけ意味があるかと問うならば、「ない」と答えるのが正解ではなかろうかと考えております。

では、それは現代の持つ、「負の響き」なのでしょうか?

ならば、私は「負」であるものに最高の価値を感じ、心を動かされたことになります。

<音楽の素養があるらしい人>が鳴らし始めた鍵盤ハモニカの調べとはなんの関係もなしに、ばあちゃんが
「声が悪うて・・・」
と、じつに伸びやかに歌う。

「並存し、混在するものを、そのままに」

なるこの響きは、まだ「現代音楽」の呼称の元にガラクタ宜しく詰め込まれている種種雑多な方法論の、ある意味で見事な結晶体を形作っている、と、心底思えたときに、聴きながら、私は本気で涙を流しました。

整ったかたちが感動をもたらすのではない。
なんとも分類しようのないものが私たちを揺さぶるのは、別に音楽に限定しなくても、私たちが日々経験することです。

逆に言えば、日々の営みの中に未だ意味づけを決定し得ないものがあっても、それが感動を呼ぶことがごく当たり前に起こっていることを認めるならば、音楽だってそうした営みのひとつに過ぎず、そこに特別な「停滞論」なり「終末論」を持ち込むような<歴史観>を早まって構築する必要はないはずです。

むしろ、早まった構築が横行してしまうことが是なのだとされてしまうなら、私はそのことに果てしない恐怖さえ覚えます。

自分なりに音楽史を、ヨーロッパからもはずれたところから見ていこう、と、あるとき思い立って始めてみたものの、近代に達したところで私はいま、はた、ととまってしまっています。
こうした事例に接し得たからには、何か、余分な色付けをしないで現代を見ていける方法もあるのではなかろうか、と、ちょっと考え直し始めているところです。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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