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2010年8月16日 (月)

「普通」を癒す:野村さん片岡さん「音楽ってどうやるの」(3)

大宮光陵高等学校管弦楽団第24回定期演奏会は8月28日(土)です。横山幸雄さんと共演です。



日本人作曲家の作品を集中的に紹介する大井浩明さん《Portraits of Composers》(POC)は、2010年9月23日(祝)、2010年10月16日(土)、010年11月13日(土)、2010年12月15日(水)、2011年1月23日(土)です。

(1)(2)(3)(了)

(1)(2)で、野村誠さん・片岡祐介さんの

「即興演奏ってどうやるの」

「音楽ってどうやるの」

の内容を大まかにご紹介してみました。
「即興演奏ってどうやるの」のほうが音楽療法の現場体験を元にしたものだったことにかこつけて、「癒す」をキーワードに持って来たのですが、なぜそれがキーワードにふさわしいと感じたか、については述べてきませんでした。
かつ、「即興演奏って・・・」にしても、音楽療法に囚われて読まれるべき本ではないと思っております。

2つの書物のいずれも、いわゆる「癒しの音楽」とされているもの(ヒーリング・ミュージック)とは全然関係ありません。
音楽を聴くことによって疲れた・病んだ心を「癒す」なる考え方は、どちらもまったく含んでいません。

2著とも読者に対し、音楽を、読者自らが行為してみよう、と訴えています。

すなわち、読者は、まず度胸を決めて、どんなにデタラメでもいいから思いっきり音を出し続けてみる・・・野村さんの言葉によれば、必ず「発音体験」するべきであり、片岡さんの言葉によれば「アホになる」べきなのです。

この目的どんな人にでもやりやすくするため、とくに「音楽ってどうやるの」のほうは、楽譜を用いないように努めて著されています。「即興演奏ってどうやるの」も、第4章のエピソード集は、どうやって音を出していくか、それによって人と人との関係をなめらかに引き出していくか、のヒントに満ち溢れています。

とくに「音楽ってどうやるの」方式では、楽譜という障壁がないだけでも、だいぶ取り組みやすくはなります。

が、「アホになる」ということは人間にプライドがある以上、なかなかに難しいところではあるかもしれません。もうひとつ、音が出せる環境に私達が居ることも、「音楽」をやるためには要求をされます。

聴くのではなく、行為することで音楽に癒される、というのは、それだけ能動性を私たちに要求するのでもあります。

これは、「聴いて癒される」ことより、はたしてかなり困難なことでしょうか?

住宅が建て込んだまちなかでも、そして集合住宅ならなおさら、やはり、お隣さんとの会話はどのていどされているのか・・・昔ながらの住宅街は高齢化し、新興地で共稼ぎ家庭が多いところなどでしたら、朝早く出かけて夜遅く帰る環境で、ご近所付き合いなんて二の次だったりします。

官庁なり民間企業なりで、とくに「オンライン化」が進んでしまっている職場にお勤めの場合、極端な場合(いや、必ずしも極端なときだけに限りません)となりの席の人と会話をすることもなく1日が過ぎる、なんてことが、当たり前にあります。
それが、私たちの、現在の「普通」の生活です。

とくに、企業のほうは正直な印象では「どんづまり」であって、さまざまな情報を保護しなければならないなる観点から、発達したインターネットのほとんどの機能(ブログやショッピングサイト)は利用に制限がかかっていたり不可能にされたりしていますし、「サボり」を防止するために、特段問題があるとは思われないサイトでも「エンターティメント」的なタグがあると閲覧を禁止されていたりするのが実態です。まあ、そんなものを就業中に閲覧したくなるようなモラルの崩れが問題になるのは仕方ないにしても、こうした制限を企業が主体的にかける、というところはチャップリンの「モダンタイムス」が予言していた事態がとうとう完全に実現しているといえます。

・外へ出なくても、会話がなくても生活がある程度完結する。
・とはいいながら、会話不要のままに、(ほんとうはそのような意図は主体的には誰も持っていないかも知れずとも)とくにネットのなかで、不可視の制限下には置かれ、見えない圧迫感に常に浸っている

こうした状況での精神はどのように開放されるべきか。

「癒し」=「精神の開放」というふうに仮に定義しておきます。
私たちは、人間関係上の会話の機会が減った分、人間関係から直接受ける圧迫から自分を「癒す」手法としても、音楽でいうならば、「聴く」=「スピーカーから流れてくるものを受動的に享受する」という、「普通」を選択してきてしまった。方法が「不可視社会」に依存している点で家庭や職場での<生活>とまったく同じ手法の延長をとっているわけですから、これで完全に「癒し」を受けることは、ほんとうはありえない。

野村・片岡著の意義は、「そうであっていいのか?」との、本質的な問いかけをしているのではないでしょうか? それを勝手に言い換えてみると、

外に出よう、鳴らしてみよう、叫んでみよう・・・それが自然にまとまった流れを作っていく。言葉不要で。

のようにでもなるのかも知れない。

「即興演奏って・・・」における片岡さんの体験エピソードは、実際に「鳴らす」ことによる「癒し」の事例が豊富で、そのヴァリエーションには目を見張らされます。

相手方を「癒す」はずの片岡さんのほうが、多くの場合、はじめのとっかかりに困っている、というところが眼目でしょう。

相手の人が不規則にデタラメにピアノの鍵盤を叩いているところに、便乗してこちらは規則正しく叩いてみたり不規則に鳴らしてみたりするのですが、相手は乗ってこない。いろんな工夫をしても乗ってこない。あ~もうだめだ、と、とうとう鍵盤の上に突っ伏してしまう。ピアノが大音響でぐわあんと激しい不協和音を鳴らす。すると相手は初めてにこっと笑って、まねをしてぐわあんと、鍵盤の上に突っ伏してみる。そこから二人の相互関係が初めて生まれ、言語無用のデタラメセッションが延々と続くことになる。
・・・いま、記憶で綴っていますので、片岡さんの記述とはズレているのかも知れませんが、たとえばこういうやりとりがある。

実は、このことで、相手を癒す側だったはずの片岡さんも癒されているわけです。

「普通」の私たちが閉塞間の中に居るのであれば、こうした事例を参考に、能動的な「癒し」を創造していく機会を、なんとかして設けていくのが、本来的な意味での「癒し」に繋がるのではないか、と、2書を通じて率直に感じたことはそこにありました。

しかしながら、そのためには、先に述べましたように、
「音が出せる環境に私達が居ること」
が要求される。

これが最も難関のように考え、諦めてしまうと、「癒し」は受身の姿勢のままで求め続けなければならない。それは概ね、穏やかな音楽、孤独に沈み込みながら、スピーカーなりヘッドホン・イヤホンから流れてくるものを、耳に流れ込んでくるままに、耳で飲み込むしかない。
その量が多すぎたり少なすぎたり、味が濃すぎたり薄すぎたりしても、とりあえずのお気に入りを・・・これだけは自ら能動的に・・・なんとか探し出して我慢するしか方法がないわけです。

受け入れるだけであるがゆえに、消化されるべきときに消化されたり、排泄されるべきときに排泄されたりする保証は、まったくないのです。これは、当たり前に考えると、閉塞感からの開放は絶対に私たちにもたらすことはない。

<場>を探す、という、積極性を持つことから、私たちは始めなければならない。

それが、風呂場の鼻歌でもいいのです。・・・これならば手軽に見つけられます。
2書は、いろんな可能性を例示する必要性からだと思いますが、「風呂場の鼻歌」のことは当然のように触れていません。
それでも、私は2書から
「そうだよ、手軽に<場>を見つけるなら、風呂場の鼻歌からでいいんだよ」
と、読み取らせて貰えた気がしています。

風呂場で歌うのはデタラメでもいい。
・・・内風呂が当たり前になった各ご家庭で、これがまず手軽に出来ないことはないでしょう。しかも、恥も外聞もいらない。よそさまへの音漏れが気になるなら、窓を閉めればよいだけです。集合住宅なら窓がないユニットバスの閉鎖空間だから、まず問題が少ない。
デタラメに歌うことで、垢と一緒に、気詰まりも流し落とせるわけです。
受身で「聴く」より、ずっと健全な「癒し」効果があるのは、明らかではないでしょうか?

で、歌うだけでは、外との問題はどうにかなるとしても、家族にストレスをかけて、家庭問題を引き起こすかもしれない!

そうなると「音楽ってどうやるの」・「即興演奏ってどうやるの」にあるさまざまなヒントが生きてきます。
声を使うものもあれば物(本来、音が出せれば何でもいい)を使う方法もある。
お子さんとお風呂に入れる方はいちばん恵まれた条件にあるかと思いますが、2著をヒントに(本の通りだと、必要な人数がちょっと多いので、それをアレンジしなければなりませんが、工夫するのを楽しむのがまたよい効果を生みます)、お子さんと二人でデタラメをやってみる。
あるいは、晩酌のときに奥さんと発泡酒の空き缶を使って何かやってみるのもよい。

ここへ綴ったようなことが2著にはダイレクトには出てきませんが、

「どんなデタラメが面白いのか?」

を自ら発想するヒントは豊富にあります。

かつ、そのデタラメの抱腹絶倒ぶりも付属のCDで体感できます。

「聴く」という閉鎖的な行為から飛び出して、能動的に動く。
スポーツ的なことで肉体的な開放をするのと、音を出す・・・それが「デタラメ」のはずだったのに、気がついたら「素敵な音楽」になっている・・・のとでは、根本的に違うところがあると思います。

デタラメながらも「音楽」を創造する、できる、できた、という体験をすることは、精神に溜まった「澱(おり)」までをもきれいに洗ってくれるはずです。

日常、窮屈に受け入れている「普通」を、デタラメな音をあえて立ててみることで、「普通」に傷んだ私たち自身を、本当の意味で癒すことが出来る。

そこへ向けての前向きなアイディアがふんだんに詰まったこれらの本を手にし、ささやかな場を見つけることから、根源的に自分を回復する方法を模索することは、非常に意義深くもあり、取り組む価値があることだと、つくづく思わされました。

ささやかな場の発見が、さらに発展して、ご近所なりサークルなりを形成していける、そんな活動に繋がっていけば、現代の私たちを解放する新鮮な手立てを見つけていけるのではないでしょうか?

そんな方向付けへの勇気をもらうのに、「音楽ってどうやるの」・「即興演奏ってどうやるの」は、いま望み得る最良の手引書だと思っておる次第です。

「デタラメ」に片岡さんが乗せ、周りはなお「デタラメ」を続けていながら、大変感動的な響きのする例を、最後に掲載させて頂きます。(「即興演奏ってどうやるの」CD所載)

参のまち交響楽

なお、この2著には、現在の、とくに日本で常識化している西洋音楽史観の限界を破る意義もあると感じていますが、そのことは、もし可能であれば、また別途述べたいと思います。今回は、内容の焦点がボケるといけませんので、これについては述べません。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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