「普通」を癒す:野村さん片岡さん「音楽ってどうやるの」(2)
大宮光陵高等学校管弦楽団第24回定期演奏会は8月28日(土)です。横山幸雄さんと共演です。
日本人作曲家の作品を集中的に紹介する大井浩明さん《Portraits of Composers》(POC)は、2010年9月23日(祝)、2010年10月16日(土)、010年11月13日(土)、2010年12月15日(水)、2011年1月23日(土)です。
(1)・(2)・(3)・(了)
「即興演奏ってどうやるの」に引き続き、同じ野村誠さん・片岡祐介さんの
『音楽ってどうやるの』(あおぞら音楽社 2008)
の内容をご紹介致します。
こちらも「なんちゃって音楽」から始まるのですが、CDのほうを「即興演奏って・・・」に比べると、前著より
似てね〜〜〜!!!
と、思わず大声で叫びたくなります。「なんちゃって○○」のどれも、本当の「○○」を<真面目に>偏愛する人の耳には、とての許せないものに聞こえるのではないでしょうか?
これなんか、ロシア音楽愛好家の硬派に聴かせたら、胸ぐら掴まれて投げ飛ばされるかもしれません。
・・・ほんとは、私がいちばん笑ったのは「なんちゃってトルコの軍楽隊」なのですが、載っけてしまうと惜しいのでケチります。
・・・いや、ケチるのはよくないな。
「なんちゃって音楽」の白眉は「3 なんちゃって西洋音楽史概説」でして、これは「即興演奏って・・・」のほうでは「巨匠」のかたまりに集められていた種類の人たちを時代は広く、ポピュラー系は除いて集め直したものですが、これが<似てね〜〜〜!!! でも、似てる>のです。
<似てね~~~!!! でも、似てる>というのが、案外ポイントかもしれません。その時代の音楽って、理屈をうるさく言ったらよく分からない。「でも、結局根っこはこういうルールでしょう?」と決めつけて、あえて楽譜にはしないで(これが前著との大きな差)音にしてみると、たしかに同じではないかもしれませんが、だからこそ余計に、過去の音楽の「仕組み」を、笑いながら「直感で」味わわせてくれるのです。
この点、ヘタな音楽史の教科書より、西洋音楽史の本質をよっぽどきちんと教えてくれさえする気がします。
西洋音楽史の教科書は、クラシック系の音楽を「調性の破壊」でばっさりと切り捨て、20世紀中葉以降についてはポピュラーについてのみ語る傾向にあります。でも、こちらの「なんちゃって音楽」では、「調性の破壊」後の音楽が、それ以前のものと見事に融け合っています。それは、「調性の破壊」=「音楽の終末」とする(日本語になっているいくつもの西洋音楽史の本を読んで、どうしても引っかかりが残っていたのが、私にとっては、決まって現れるこの視点でした)ものの見方より、たいへんに勇気のいることだったかもしれません・・・もし、これをやったひとが野村さんや片岡さんより前の世代のひとだったら。この世代、というのも案外曲者だと感じていますが、深入りしません。
クラシックがお好きな方は、まず「なんちゃってハイドン」や「なんちゃってシューマン」に触れてみて頂くのが宜しいかと思います。
楽譜が読めなくても大丈夫であることをおことわりしておきます。せめて簡単にリズムが読めるくらいが最高に要求されることで、もし本文中の記号が分からなくても、イラストとCDを併せて感じ取って自分でやってみれば、似てね〜似ていることが<あっという間に!>自由自在に出来るようになります。
・・・気付きましたが、すると、本書は「奇跡の書」だとも言えるのですね。
で、あいかわらず「不真面目」に見えるこの取り組みが、しかし、次章以下に本書の深みを築いていきます。
あとさきになりますが、『音楽ってどうやるの』のサブタイトルは「ミュージシャンが作った音楽の教科書」です。が、「音楽療法のセッション・レシピ集」であった前著に比べると、楽譜が著しく少なくなっています。そのうえ、いわゆる「楽典」についての記述はありません。
音楽の教科書の特徴として最たるものがもうひとつ。
最終章(Ⅳ)「なるほど楽器辞典」で採り上げられているのが、キホンは私達も、そして今の子供たちも、義務教育過程、あるいは家の中で気軽に触れて来た楽器だという点です。これは類書がありません。
つまり、そんなにかしこまったり特別な環境に接したりしなくても、音楽をやる道具なんか、すぐそこに転がっているのだ、ということを、ちゃんと伝えてくれる。音楽の専門家でも、この切り口は盲点であることが多いのではないでしょうか?
最初の「なんちゃって音楽」が
<似てね~~~!!! でも、似てる>
であるのは(面倒な言い方になるのが私の能力の限界で如何ともしがたいのをお詫びしなければなりませんけれど)、本書が「音楽療法の現場」という限定を逃れ、楽譜に記すという束縛からもかなり高い程度に逃れているため、前著よりも「なんちゃって」の<抽象度>が高まっていることを示しています。
本書の場合、逆もまた真なり、でしょう。
<抽象度>が高まったからこそ、本書は「音楽の根源にあるもの」を、K大先生がこのタイトルでお書きになった本よりも遥かに確実に、芯から捉えているのだと言えるのではないかと感じるのです。
あとがきにある片岡さんの言によれば、
「音楽ってどうやるの」はアホになることだ
なのですが、このアホになりかたが、なんぼアホを自覚していても、「なりきる」という一点でじつに困難なのを、4つある章の最初の3つの流れが教えてくれます。
最初の「なんちゃって」は、じつは音楽を産み出す上で「お手本がある」のが日常茶飯事であることへの痛烈な皮肉にさえなっています。CDで<似てね~~~!!! でも、似てる>と大笑いしたものが、本文のほうでは楽譜無しで、しかもきわめて分かりやすい言葉で、道具と言えば安価で身近なものばかりを用いて説明されていることに、まず呆気にとられます。
次の章は「どうなるかな音楽」ということで、この「お手本」(雅楽や祭り囃子や各国民謡やポップスやクラシックのの大雑把な型の数々)には属さない、より自由でシンプルな「ルール」をちょっとだけ決めて音を鳴らし始めたとき、それらの音がいかに「音楽のようなもの・・・ひょっとして音楽」になっていくかを、スリルたっぷりに体感させてくれます。・・・アホになるためには、ここで「照れ」を一切超越しなければならない。これは本書のCDを作成するにあたっては著者たちも開き直りが出来ていまして、アナウンスは前著のCDのような「照れ」のあるものではなくなっています。
さらに、仕上げとして「できちゃった音楽」がくるのですが、一文だけご紹介します。
「・・・絵を楽譜として見たらどうなるだろう、という疑問がわいてきました。そうして生まれたのが『絵画作曲』です。そうやって絵を見ると、どんな絵も楽譜に見えてきます。そう思って日常の風景を見ると、窓ガラスの汚れも、編み物の編み図も、電話帳も、星空も、何でも楽譜に見えてきます。世界は楽譜に満ち溢れているのです。」(89頁)
五線譜のいらない作曲・・・それは、録音でもありません。
本書を片手に、一緒に試してみませんか?
話はこれで終われませんで、では私は「即興演奏って・・・」と「音楽って・・・」からどんな感銘を受けたのか、はお話ししたいのですが、うまく出来るかどうか分かりません。次回試してみたいと思っております・・・後回しにする可能性はありますが、やってはおかなければと考えております。
お気づきかと思いますが、標題に「癒す」なる語彙をもって来ているのですが、その話をまだしていません。
そこのところが、お話ししたい最たる点です。
・・・正直言って、まだ整理が付けられずにいます。
次回、顰蹙の「とりまとめ」になるかも知れません。(^^;

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