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2010年7月27日 (火)

シェーンベルクがなしとげたこと(1)

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回は東京は本7月27日。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。
同じくリサイタル《新ウィーン楽派ピアノ曲集成》は2010年7月31日(土)午後7時から、公園通りクラシックス(渋谷・東京山手教会B1F)で。
門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。



大井浩明さんが《新ウィーン楽派ピアノ曲集成》リサイタルを東京でなさる(7月31日)にともなって、ちょっと勉強してみようと思い立ちました。

私はシェーンベルク作品については雀の涙ほどしか知りません。

ですが、それでもなお、シェーンベルク作品がいまだに「現代音楽」以外の範疇で評価されていないのは不思議なことだと思います。

これは素人目からすれば、、その難解な印象、彼と関連づけて(彼が言い出したからではありますが)捉えられる「十二音技法」が、現在なお一般教育の中に殆ど取り入れられていないこと、
「それに対して、もはや誰一人自分に耳を傾けてくれる人がいない荒野へ足を踏み出そうとも、断固と音楽史を前進させようとした」
「彼はまだ、『これまで誰も耳にしたことのない未曾有の響き』というユートピアが、どこかに残っていると考えていたのであろう」
・・・であるが故に彼は「近代音楽の殉教者」だった(「」内引用は岡田暁生『西洋音楽史』中公新書による)、と、ある種終末的な象として捉えられていること、など、と、何かしらの関係があるのでしょうか?
重ねて奇妙なことに、シェーンベルクは、ストラヴィンスキーら数人の二十世紀前半の作曲家とともに、二十世紀前半の記述まではクラシック一辺倒の音楽史教科書では、クラシックに属する人物としては最後の顔ぶれに属します。二十世紀後半はポピュラー音楽関係の人物ばかりが登場するのです。

http://www.youtube.com/watch?v=iXlii5kUsjY&feature=related

シェーンベルクは1874年から1951年までを生きた人物で、その前半生の創作(1923年まで)は「後期ロマン派」に属します。私の知っている数少ないものでも、長編ならば『グレの歌』、中編でも『浄められた夜』などは、ヴァーグナーやマーラーに美しさを見いだす人なら、容易に親しめるものだと思っております。『浄められた夜』については、かつて巌本真理弦楽四重奏団(とくに巌本さんの名演)が、クラシックなどには日頃親しんでいない普通科の男子校生連中相手に学校行事の<芸術鑑賞会>なるもので採り上げて演奏し、大喝采をはくしたのを目撃した思い出があります。・・・もっとも、大喝采の本当の理由は彼女の美貌だったのかもしれませんが!!!

脇道はともかく、シェーンベルクの位置付けがなんとなく宙ぶらりんに見えるのは、彼が言い出した「十二音技法」が、先輩ヴァーグナーらに比べて「過激に無調っぽい」、そのくせなんだかルールは「従来の音楽理論よりはるかに窮屈っぽい」点で、より自由に聞こえる(じつはそれはリズムが際立つ・・・こちらは、人間の言語がもともと規則リズムではないことなどもあるために、旋律線やメロディが既存常識的な秩序から離れるよりはまだ馴染みやすい・・・ことからくる主観的印象によるのではないか、と私などは単純に勘ぐるのですが)ストラヴィンスキーあたりよりとっつきにくい感じがする、といったあたりにでもあるのでしょうか?

さて、ところが、シェーンベルク自身は「『無調の音楽』という表現を拒否した」(ジャン=イヴ・ボスール『現代音楽を読み解く88のキーワード』20ページ参照、音楽之友社2008)と明言しており、これは弟子のウェーベルンも証言しています。シェーンベルクがこころみようとしたのは、少なくとも彼とその同調者にとっては、
「音と音の類縁関係にしか類縁関係を持たない」作曲技法の試行だったのであり、その徹底度の高さでは、次世代の「前衛」と呼ばれる人たちと似ている、あるいは(奥歯にものがはさまった言い方ですが)似て非なるものがあるでしょう。

いっぱんに、「調性の破壊=無調」とみなしてしまう習慣が私達にはあって、じつは今回シェーンベルクを斜め見しておこうと思い立った自分もそんな一人であることにハタと気が付きました。サイモン・ラトルが20世紀音楽を概観的に紹介した映像「リーヴィング・ホーム」第1巻でも同趣旨のことを言っているのですが、ここでは岡田著『西洋音楽史』から、調性の破壊とは何であるかを引用しておきましょう。

「『音楽には中心音がある』とか(中略)『どんな不協和音が出てきても、最後は必ず協和音に解決して曲は終わる』といった考え方の解体」(198頁)

すなわち、端的に言えば、長調と短調だけに整理されてしまった、とくに18~19世紀的なヨーロッパ音楽の調の大系を解体する、というだけの意味しか無く、もし長調でも短調でもない「調」なるものが存在するとしたら、そちらは19世紀までの音楽理論では(極端に言ってしまえば)体系化されていなかったがために、否定の対象にはなっていないのです。・・・ちと不明確な言い方ですみません。このままの「調性破壊」の例としては、他にドビュッシーやバルトークの教会旋法(というよりむしろ古来からの旋法)の複合やロシア系の作曲家に多く見受けられる全音音階のなかでも終止音をずらす書法・・・そこまでやっているものを見いだすのはかなり困難ですが、アヴァンギャルド系のものにあったんじゃなかったっけかな、ちゃんと確認していなくてすみません・・・なども同一延長線上にあるわけです。

シェーンベルクが十二音技法によって覚悟を決めたことはいくつかあるのですが、その内容にはとりあえず触れずにおきましょう。
ですが、自分の試みがかならずしも意図した通りに行かなかったことは、1936年の彼の発言から伺い知ることが出来ます。

「私は、自分の創作の方法を『体系』と捉えたことはない。『方法』として捉えてきた。作曲家の道具であって、単なる理論ではない。私は作曲のレッスンで『音列を使いなさい、音列に昔から馴染んでいるかのように作曲しなさい』と言ったことはない。私が言うことは次のようなことだ。『あなたの手に馴染んだ表現の形、主題、旋律、響き、リズムを使い続けなさい。』/しかし私の恐れていたことがついに起こった。私は友人や生徒に、音列を新しい形態として捉えないように促したし、音列は彼らの論理を強化するのには役立たないと諭したにもかかわらず、彼らは音に番号をふり、私が自分の音列を扱った方法を研究して、事足れリとしている。」(『現代音楽を読み解く88のキーワード』45-46頁)

この言葉から察するに、シェーンベルクは十二音技法のルールは策定したものの、それによるアイディアの拘束を望んだわけでは決してなかったのでした。

もっともよい理解者だったのは、そうすると、やはりベルクとヴェーベルン、ということに落ち着いてしまうのでしょう。

ベルクは師の「音列を新しい形態として捉えないように促した」ほうの局面を最大限に消化・活用し、「叙情組曲」・「ピアノソナタ」・「ヴァイオリン協奏曲」など器楽でも自在で美しくて今日でも馴染まれる作品を書きましたし、オペラ「ヴォツェック」や「ルル」(未完)では師もなし得なかった大衆的ヒットまで勝ち得ています。

音そのものの側面の追求・発見に耽溺し、それゆえに生前は報いられませんでしたが死後爆発的に評価されることになるヴェーベルンは、
「シェーンベルクは『あらゆる関係性が可能だ!』と言った」
と、師のこちらの側面に集中して研鑽を積んだが故に、演奏時間上は異様なほど短い、しかしながら高密度な宝石のような作品群を残したのでした。(岡部真一郎『ヴェーベルン 西洋音楽史のプリズム』春秋社 2004)

弟子二人は、それぞれの際立った特徴で愛好者を産み出しています。

・・・ところが、かんじんの「言い出しっぺ」であるシェーンベルクは、まだそうでもないのだ、と小耳に挟みました。

なるほど、言われてみれば私も三人の中ではシェーンベルク作品に対する印象がいちばん薄いのでした。

思うに、親しんでいる数少ない作品から察せられるだけでも、「調性」を破壊したとされながらなお、ベルクとヴェーベルンに分け与えた
・音楽としての流麗さの維持(どちらかというとベルク)
・音響の確固たる足場(どちらかといえばヴェーベルン)
の両面を保持し得たのは、ひとりシェーンベルクだけだったのかも知れず、両面を兼ね備えているが故にまた、シェーンベルクの音楽作品にはベルクやヴェーベルンを聴くのに比較して、聴覚には判別しがたいカオスが残ってしまうが故に、彼の音楽への理解・・・理解なんて大仰でなくてもいい、せめて愛好心・・・は現状育ちきっていない、なる面があるのかもしれません。

このあたりを、もういちどシェーンベルクを考える機会を設け、実際に器楽曲の印象から探ってみたいと思っております。

・・・いやあ、ほんとうは、シェーンベルクが馴染まれない、というのは、勿体ない気がするんですけれど。

せめて「浄められた夜」をお聴きになってみて下さい。1899年作ですから、当然、十二音技法にはよっていません。
誰の演奏だか分かりませんが。。。

http://www.youtube.com/watch?v=17Obe-VNork&feature=related


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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