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2010年7月 8日 (木)

音の主観

上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会〜終了
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。



oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

今日は掲げませんが、舞楽の素晴らしい演奏の録音をご紹介頂いて拝聴し、あまりに感激しましたので、思いだしたように久しぶりに雅楽の入門書を手に取りました。

笹本武志『はじめての雅楽』(東京堂出版、2003)

何も知らなかった私のようなものには、類書に比べたいへんすぐれた本で、以後もこれ以上のものは出ていないと思います。「越天楽」と「五常楽急」と「陪臚」の唱歌(しょうが)の譜が載っていて、説明が加えてあります。・・・譜とは呼んでいるけれど(雅楽をやる人は楽譜とまで仰っているし、ヨーロッパの古いネウマを読める人には楽譜の範疇に含めることに躊躇はないのでしょうが、それらは意味合いが違う前提が明確にあるからであって)、現代人が理解している<楽譜>ではありません(このことは、だいぶ以前の本ですが、増本喜久子『雅楽』以上に洋楽世界の人間にも理解させてくれる書物はこれまた見当たりません・・・同氏の『雅楽入門』よりもこちらが良いです)。入門書に載った「譜」には、いちおう、拍と音程が分かるように添え書きしてあるし、大まかにでよいならそれである程度分からなくはないのですが、正確にどう言うリズムで・音程で、とかいうのは口伝の唱歌で学ばなければ覚えられないでしょう。まあ、私はまだそれもちゃんと読めるほどではないから、どうしようもないのですけれど。

雅楽はこの唱歌(しょうが)というのを歌ってみる方法をとりますが、同じ「越天楽」でも横笛(おうてき)と篳篥と笙で唱歌はそれぞれに違っているし、歌ったそのままをそれぞれの楽器で吹くのではありません(篳篥だけが唱歌に近い歌を演奏するので、横笛は笛の唱歌の他に篳篥の唱歌も覚えなければならないそうで・・・専門家さんはちゃんとご存知かも知れないけど、私には本に書いてあるのを真に受けて「そうなのか」と思うしかありません)。
笹本著では楽器ごとの唱歌を丁寧な五線譜に書き直してくれているのだけれど、これが「越天楽」の演奏の中で実際に響く「越天楽」とは別物なんだよな、ということは、この本を最初に読んだときも思いましたし、今回も同じ感触を持ちました。ご著者も
「これが絶対的なものであることは」
ない、と強調していらっしゃいます。

雅楽はそれでも、太鼓を「時を刻む」象徴としているから、拍は分かりやすいほうかも知れません。

以前、「津軽山歌」に感動して民謡集の五線譜を見て愕然としたことがあって、五線譜に書かれたものには、実際に耳にした「津軽山歌」の影もかたちも感じられなかったのでした。
で、自分なりに採譜し直したら、リズムが規則的に刻まれていないで伸び縮みするので、それを<時間どおり>に五線譜に落とそうとすること自体が間違いなのだ、ということを知らされたのです。
緩急を考慮すると、この民謡は五拍子に単純化してしまうのが最もきれいにいきます。
(ただし1つの小節の中で、洋楽の1拍に当たるものはある拍はやや長く伸び、あるものは短くなりするし、これは歌詞その他の要因とも密接な関係にあると思われます。)
・・・この採譜は、とても悔しいことながら、家内の葬儀のばたばたのときに無くなってしまいました。いずれやり直さなければなりません。

・・・そんな次第で、いま、
「邦楽の五線譜化は本当に出来るのか?」
と、あらためて首を傾げており、であるが故に、ちと胸が痛い思いをしております。

「音を聴く主観、演奏する主観」というへんてこりんなキャッチフレーズが、このほかにもたとえばショパン関係の調べものをしていると、沸々と湧いてくるのです。このことはまたリストがらみでも綴りますけれど、ひとつだけ言えば、ショパンの最初の練習曲(この呼び方にも少しだけ抵抗がありますがリストの「練習曲」が果たして「練習曲」か、というほどまでには疑ってはいません)の第1曲、ショパン弾きとして名を馳せたコルトーが注釈を加えた楽譜【コルトー版】では「筋トレ」チックな予備練習を勧めていますし(別に筋トレだと捉えないでもいいのですが、コルトー自身が「これで指が強くなる」的発言を添えています・・・特別にコルトーの名前は出てきませんが、この風潮については岡田暁生『ピアニストになりたい』を参照なさると良いでしょう)、私のようなもんがつっかえつっかえでも1頁だけのろのろ弾く分には非常にラクをさせてくれる良い予備練習でもあります。が、「筋トレ」をショパンが望んでいたかとなると、ショパン自身の言葉を記憶している弟子の言葉では、むしろ逆なのです。

「このエチュードを弾きこなすには、とても大きな手をしていなければならない、という意見が今日でも広く行き渡っていることは、私も先刻承知しています。でもショパンの場合には、そんなことはありませんでした。良い演奏をするには、手が柔軟でありさえすればよかったのです。」
シュトライヒャー(1816-1895)
・・・『弟子から見たショパン』所収(エーゲルディンゲル、訳書音楽之友社 2005)

さてさて、はたと迷ってしまいます。

・・・音楽を巡って「客観的な」記述は、さて、どの程度成り立ち得るのでしょう?
・・・そんなものが、どの程度存在するのでしょう?

こうしたことを考えた後にシューマンの評論(これは訳者が嫌いですが英書もドイツ語原書も発見出来ずにいます)を読むと、またまたがっかりしてしまいます。

「音楽の発展の速いことは、実際ほかの芸術の比ではなく」云々

・・・ヘーゲル的な進歩史観だ。

当時は仕方なかったのでしょうか?
同時代のショパンの手紙がシューマンに比べてすっと客観的なのを読んだ後では、こんな言い草は冗談じゃあないと思うのです。
(ただし、「筋トレで指を壊した」伝説を持つシューマンが、ピアノ演奏に関しては逆に筋トレ否定的な発言をしている点は読み落とされがちで、これは気をつけておくべきです。)

エジプトの音楽を例にすれば、いま「伝統音楽」として国の支援を受けているものの音程感は西洋音楽のそれになってしまっていて、一生懸命なエジプトの方には大変失礼なのですが(お許し下さい)曲調も節回しがアラビックなだけ・道具を民族音楽にしているだけで、こんなのはちっとも伝統音楽ではないと思えて仕方がないのです。むしろコプト教会の荒々しい聖歌のほうが古態を保っているのです。

・・・このこともふくめて、私は、さて、何をどう考えて行ったらいいのか?

ちょっと苦悶しております。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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