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2010年7月30日 (金)

根本的発問者としてのシェーンベルク:シェーンベルクがなしとげたこと(3)

大井浩明さんのリサイタル《新ウィーン楽派ピアノ曲集成》は明日2010年7月31日(土)午後7時から、公園通りクラシックス(渋谷・東京山手教会B1F)で。
門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。さらに日本人作曲家の作品多数を豊富に採り上げるシリーズを展開します。近々情報を掲載したいと存じます。



シェーンベルクがなしとげたこと:(1)(2)(3)

大井浩明さんによる《新ウィーン楽派ピアノ曲集成》(7月31日(土)に渋谷:公園通りクラシックスで)の極上のおまけのうち、『月に憑かれたピエロ』の、なんと3分の1もの分量が試聴できます!(期間制限あり?)

http://www.ustream.tv/recorded/8602792

「クラシック歌い」ではない柴田暦さんの歌唱の魅力にも、これで触れることが出来ます。あえて、URLの掲載にしておきます。
もし上記が期限切れ後でしたら、柴田さんの歌の魅力にはこちらで触れて下さいませ。

http://www.youtube.com/watch?v=y4iXcwcq_7w

これはやや脱線ネタっぽいうえに、大井さんの歌までついている「トンデモ」画像ですので、あらためましてこちら。

http://www.youtube.com/watch?v=lrnATNoVyx8&NR=1

・・・19世紀末から20世紀前半の歌は、既定の「ソプラノ・アルト・テノール・バスもしくはカストラート」で歌われるより、こうした、ある意味身近に感じられる歌唱が、案外ピッタリくるのではなかろうか、と感じることが、けっこうあり、とくに「歌」であると同時に語りである『月に憑かれたピエロ』にはいっそう強くそれが言えると思います。(そんなに数は知らないのですが、気に入った近年の作品でもウンスク・チンさんのCDに入っている作品などに、似通った印象を持ったことがあります。あちらは「クラシックの歌い手さん」が演じているのですけれど。)

さて、おまけ、などと言いながら、けっこうこの『月に憑かれたピエロ』や『黄金の仔牛の踊り』が、シェーンベルク作品の中では今回のリサイタルのメインに聞こえてしまうほどに(じっさい、演奏曲順ではこちらがメインの位置を占めているようですから、なおさら)、ピアノ独奏曲は小振りなもの揃いに見えます。

ですが、ピアノ作品を重層的に俯瞰出来る今回のリサイタルでは、それぞれのピアノ作品に込められたシェーンベルクの職人魂の変遷を聴き取ることに大きな意味があるはずです。

前回も述べたので、くどくなりますが、シェーンベルクが「十二音技法」を公けにしたのは1923年です。このときシェーンベルクは何歳だったでしょう?・・・すでに49歳なのです!!!
すなわち、前回触れた、十二音技法の最初期の成果である『ピアノ組曲』発表時には、彼はもう円熟のときを迎えていたわけです。

「3つのピアノ曲 作品11」は35歳のとき、「6つのピアノ小品 作品19」は37歳のときの作品であり、シェーンベルクがそれまで多大な影響を受けたヴァーグナー〜マーラーと共通する色合いを持っています(管弦楽作品に感じられるリヒャルト・シュトラウス的な印象は、作品の性質上でしょうか、さほど感じられないかと思います)。そのぶん、線的構造は切れ目が不明確で連続的であり、波打つような印象を持っています。
対する作品33a、bのピアノ曲(54歳〜57歳)のほうは、やはり老成とでもいうべき広がりと、それと関係するのでしょうが、一転してブラームスにまで回帰したような、強い線で描画された空間を展開しているようです。

境目にある「5つのピアノ曲」作品23(1920-23)が、そうした中では特殊な位置を持つように、私の素人耳には響いてきます。

「ピアノ組曲」と姉妹関係にあるとみなしてもよいこの作品は、5曲中4曲がドイツ語による速度標語でしか規定されていませんが、前期の作品11や作品19と、作品33a,bとを区分する明確な境界を形作っている重要作ではないかと思っております。
5曲それぞれが、シェーンベルクの用意した「店売りの花火」になっているのを感じずにはいられないのです。
5曲のどれにも共通する、花火がどんな勢いで吹き出し、それがどのように広がり、どのような消えかたをするのか、という構成(花火を手にして火をつけるワクワクするときの感触をくっきりよみがえらせてくれる開始部)がもたらす効果は、お聴きになってのお楽しみ、とだけ言っておきますが、

・ちらちらと燃えだすものもあれば、ぱっと一気に輝くものもあり
・いったん火の勢いを落として安心させておいて急にまた火玉を発射するものあり
・シャワーのように光が広がるものもあれば、じわじわ緩やかにほのぐらいものもあり
・ばたっ、と消えてしまうもものあれば、名残惜しげに去って行くものもあり

と、5曲だけとは思えない多様さを示しています。
音のラインで言えば、ベートーヴェンのソナタ分析に絶対の自信を持っていたシェーンベルクの面目躍如たるモチーフの加工が、火薬として仕掛けられているわけです。

・・・もっとも、花火などに例えるのは私の恣意ですから、そんな表現で実演そのものをの意図を妨げてしまうようでしたら非常に申し訳ないことです。「たとえばこういう聴き方・楽しみ方もある」というひとつのイメージ程度に捉えておいて頂ければ幸いです。
「5つのピアノ曲」の第5曲だけが「ワルツ」とはっきり銘打たれており、これは確かに、ショパンのフランス風ワルツではなく、ウィーンのワルツです。案外ウィットに富んだ舞曲になっていて、ワルツであるが故にバロックもどきの「ピアノ組曲」に組み入れられる方向ではアイディアされなかったのでしょうが、「ピアノ組曲」との接続点を形成しています。
とはいえ、「5つのピアノ曲」のほうが、当然のことながら、舞曲あるいは前奏・間奏曲と銘打っていない分、内容としてもより<文学的自由>を持ち合わせています。

まだ無我夢中で仕事をしていたんだなあ、と思わされる作りをしているがゆえに魅力的なのは、作品11の「3つのピアノ曲」です。
これもお叱り覚悟で言ってしまえば、<3度音程の響宴>とでも呼んでしまって良い、と思っています。
中央の1曲(10分程度)を挟んで、非常にコンパクトな第1曲と第3曲があるのですが、この両端両曲の性格が正反対であるため、「3つのピアノ曲」は、また妙なたとえをするなら、たとえば東大寺の南大門を思わせるような構造になっています。
中央の長い曲は、大変面白いことに、バルトークが好んだ「黄金分割」の点とおそらく近似した位置にクライマックスがくるように設計されていて(シェーンベルクがそんな計算ごとをしたとは全く思ってはいませんけれど!)、門の中央の峻厳な空間を想起させてくれます。それに対し、第1曲は仁王の「吽」の像のほうに当たっていて、ヴァーグナーのトリスタン風な持続(それは時々上がる叫び声でも寸断されることがない)を示しています。第3曲は「阿」像の激しい形相を見せます。
3曲を貫くのが、シェーンベルクの三度という音程(ごく普通に長・短というだけでなく、平均率では厳密には再現出来ない増三度・減三度までを含む)の組み合わせかたに対する旺盛な好奇心が形作る音響の立体の、万華鏡の像のように生きて刻々とした変化であり、その面白さが、私の場合にはこの曲集に引きつけられる要素となっています。

もっときちんとお聴き取ることができるかたには笑止千万な内容になってしまっているかもしれません。
あくまで、素人耳に、シェーンベルクのピアノ曲はこんな魅力をもって聴き得る作品でもあるのだ、との参考程度で、ほんとうにお笑いぐさにして頂いても構わないと思っております。

ただ、素人でもこんな発見が出来るほどに、ピアノ曲のジャンルでもシェーンベルクは「多様だ!」との一点を、私は声を高く主張してもいい、と思い始めております。

昨日(前回)最後に言いかけて、まとめきれなかったのは、まさにこのことです。

ベルクの叙情、ヴェーベルンの結晶、のような、極端に決めつけてしまえばひとことで特徴づけられてしまえる音楽・・・これらのほうが私は先行して好んでいたのではありますけれど・・・に比べ、シェーンベルクは触れれば触れるほど多面的であり、「耽美的」であるとも「恒久的」であるとも決めつけきれず、あるいは「衒学的」と言ってしまってもはずれではないような「うさんくささ」も持っていて、しかもその「衒学」性はストラヴィンスキーなんかに比べたらまだ真面目で・・・等々、じつに興味深い「人格の多重性そのものの音楽」を展開してくれるからこそ、いっそう魅力的なのではないでしょうか?

こうした特徴はまさに、シェーンベルクこそが、本当の近代の人間像にピッタリ寄り添った音楽とは何か、を考えさせるという、私達にとって再確認が必要な問いかけの、もっとも総合的な提示者だったのだ、ということを明確に物語っているのではないでしょうか?

シェーンベルクが成し遂げた成果は、伝統的西洋音楽を終焉させることではなく、根本から再考するための問いを、思想的にではなく、もっと人間にとって密である感覚の課題として提供したところにあるのだ、と言っては、既存の「音楽史観」に対してあまりに失敬すぎるでしょうか?・・・ならば、失敬はおおいに許されるべきだと、私は思います。


前回タイトルをご紹介したグールドの著作中で、インタヴューにジョン・ケージが答えた言葉を引用してしめくくりといたします。

「シェーンベルクの音楽が今よりもっと尊敬され愛される時代がやって来てもおかしくないと思います。しばらくはウェーベルンの方により多くの関心が向けられるでしょうが、シェーンベルクの音楽への関心はこれから高まりこそすれ、衰えることはないだろうと思います。」『グールドのシェーンベルク』185頁)

明7月31日の大井さんのリサイタルは、この言葉の意義をたくさんのかたに感じて頂ける貴重な機会になるはずだと信じて疑わず、なんと、自分でも思いがけないことに、3回も駄文を連ねてしまいました。

ぜひぜひ、お出掛け下さい。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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コメント

シェーンベルクはやはり音楽の先生だったのだと、最近つくづく思います。既存の音楽史観は単に作曲家を分類し、批評するものでしかないと思う私にとって「既存の「音楽史観」に対してあまりに失敬すぎるでしょうか?・・・ならば、失敬はおおいに許されるべきだと、私は思います。」とのご発言には非常に共感を覚えます。シェーンベルクの曲を見渡せば、どんなに新規なことをしても伝統の音楽との折り合いを付けようとしているように感じ取れ、それゆえ安心して彼の作品を聴くことができると思うのです。この点が他のいわゆる現代音楽と一線を画しているところだと思います。

投稿: エミル | 2010年10月31日 (日) 15時50分

エミルさん

ご丁寧でありがたいお言葉に、深く感謝申し上げます。「シェーンベルクの曲を見渡せば、どんなに新規なことをしても伝統の音楽との折り合いを付けようとしているように感じ取れ、それゆえ安心して彼の作品を聴くことができる」とは、仰る通りではないかと存じます。シェーンベルクの本当の再評価まではまだまだ時間がかかるのかもしれませんが、これからの作曲家さんの活動と合わせて、音楽を愛する人から新鮮な目で見直されることを、心から祈っております。

投稿: ken | 2010年11月 1日 (月) 01時58分

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