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2010年7月28日 (水)

豊かな時間:小倉貴久子さん×大井浩明さん「モーツァルト」第2回

大井浩明さんのリサイタル《新ウィーン楽派ピアノ曲集成》は2010年7月31日(土)午後7時から、公園通りクラシックス(渋谷・東京山手教会B1F)で。
門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。さらに日本人作曲家の作品多数を豊富に採り上げるシリーズを展開します。近々情報を掲載したいと存じます。



昨日、「小倉貴久子×大井浩明 モーツァルトクラヴィア協奏曲 2台のフォルテピアノによる全曲プロジェクト」第2回を拝聴して参りました。

今回の曲目は、第11番〜第13番(作品4、K.413, K.414, K.415)と第14番(第1ブロイヤーK.449)。曲目紹介は省略しますが、作品4の3曲は、モーツァルトがザルツブルクと訣別しウィーンに定住して初めての協奏曲群であり、第14番はその後、モーツァルトが本当に彼らしいウィーンでのスタイルを確立したとされるものです。

とりわけ印象に残ったこと。

・・・フォルテピアノはメカニズムの違う2台を「対等ではない」関係において共演したとき、初めてその本来の面白さを知らせてくれるのだな、という発見。

・・・「作品4」で既にこれだけの自己主張を、新天地で暮らし始めたばかりのモーツァルトを成し遂げていたのか、という驚き。

最初について述べますと、「対等ではない」というのは、「地位の高低や上下がある」ことを指すのでは勿論ありません。協奏曲を2台のフォルテピアノで演奏するわけですから、1台はソロとしての重要性を明白に帯びていますが、もう一台は本来なら複数メンバーの管弦楽で演奏されるオーケストラパートを担うのですから、協奏曲に広がりをもたせるすべての役割を果たさなければならない。すなわち、全く違う役割が対峙する状況になることを指します。
この「役割の違い」によって求められるそれぞれの楽器の色合いを、フォルテピアノという楽器は幸運なことにメカニズムの違いによってクッキリと表わすことが出来る。
この点については、第1回という経験を既に積んだお二人だからでしょう、前回よりいっそう浮き立たせることに成功していたと感じます。
ソロの小倉さんはヴァルタータイプの楽器。ヴァルターはモーツァルトの死のあと自身のメカニズムをさらに改良しているそうですから、モーツァルトの時期そのままに比べれば豊かな響きをもつようになっているものなのかもしれませんが、音の流麗さがまことにソロ向きです。
オーケストラの大井さんはシュタインないしドゥルケンのメカニズムのフォルテピアノ。モーツァルトが生前愛した音色に近いものかと思われますが、ヴァルターの流麗な響きに対して、むしろ「語りかける」ような味わいを持っているため、ソロの自在さを導き出す曲頭の部分・間の手を語る部分には最適だと感じます。
オーケストラパートが1台の楽器で奏されると地味になるのではないか、という先入観を私達は抱きやすいですし、現代のピアノ2台でソロとオーケストラを分担するときにはオーケストラ担当は抑制を求められることになるでしょうから危惧は大きくなるかも知れないのですが(全面的に技術でのカヴァーになると思われます)、フォルテピアノですと、こうしたそれぞれの個性をそのまま生かせば、むしろ中途半端なオーケストラ・・・アンサンブルが乱れたり、メンバーのニュアンス付けが不統一だったり、とはままあることでしょう・・・、そんなオーケストラをバックにしたソロコンチェルトよりも、むしろ作曲者の求める言語感なり色彩感を豊かに引き出す会話が成立するのでして、小倉さんと大井さんのペアはまさにこんなイメージが絵空事ではないことを堂々と証明してくれたのでした。

ふたつ目の点。
とりわけ「作品4」は、モーツァルトがウィーンで最初に発表したクラヴィア協奏曲群です(出版はパリですが、これは当時としてはお決まりのルートでしょう)。3曲とも、本編部分(オーケストラが語り終えてソロが歌い始めるところ以降、等々)はウィーン初期に持参したザルツブルク時代の協奏曲と書法が近似していて、スコアを観察したり、通常出ている録音類を耳にする限りでは、前奏部や後奏部の「ロココ趣味」は、なんだかモーツァルトが自身の位置をなんとか掴もうとしてウィーンに媚を売ったような印象が、私にとってはつきまとって離れませんでした。
第11番は3拍子開始で、当日の曲目解説によりますと当時の協奏曲としては珍しかったのだそうですが、ザルツブルク時代のモーツァルトが手掛けた協奏曲以外のジャンルでは弦楽四重奏曲やシンフォニーに大変似通った開始部をもつ名作があり、彼にとっては書きやすい上に聴衆に愛想を振りまくにも都合が良かったと思われます。この作品の終楽章(メヌエットのテンポ)も、ヴァイオリン協奏曲第5番で既に試みられているものです。第12番は彼の最初の(すべて自身の手になる)クラヴィア協奏曲に類似した書法を拡大したものです。第13番はトランペットとティンパニを加えた祝典的なものですが、これまた協奏曲よりはミサ曲でモーツァルトが書法を訓練しきったものでして、第13番協奏曲冒頭のカノン風な開始も、やはり同じようにモーツァルトが料理しやすかった技術だと言えます。それを柔らかに味付けしているところが新味と言えば新味なのですが、
「うーん、だけど、これってやっぱり媚び、だよなあ」
との思いが、私には抜きがたくありました。
・・・これが、見事にひっくり返されました。
あとでご教示で「本当にそうよなあ!」と思わず叫びたくなったのですが、3曲ともフィナーレはよくあるような華々しい終結を迎えるのではないのです。
「3曲セット全てが、最後は花火が消えるように終わる」
というのが、そのご示唆でした。
第12番のフィナーレだけはディナミークは強めですが、末尾6小節だけのことでして、そのまえの柔らかなpのロンド主題のムードを打ち消すことがありません。

・・・ただし、この終結部を、「花火が消えるように」終わらせる演奏は至難です。ディナミークを抑えることにとらわれることが多いのでしょうか、
「え〜、これで終わりますが、いかがでしたでしょうか〜〜〜?」
と愛想笑いするような演奏しか耳にしたことがありませんでしたし、仮に自分がオーケストラメンバーでも、全体のまとまりのためには、そうした無難路線を選ぶのだろうな、と思っておりました。そこから連想すると、モーツァルトのとった書法は、趣味の良い終結が望める書き方ではないということになってしまう。

その困難な終結を、お二人が目を合わせ息を聴き取り合いながら、ものの見事に「花火が消えるように終わ」らせたことには、快哉の声を上げる以外ないでしょう。

第14番はのっけから主和音、6の和音、借用和音でドミナント、という度肝を抜く響きで始まる、まさにモーツァルトの「開花」を高らかに宣言する名作ですが、ソロ部とオーケストラの繊細な対話もいっそうふんだんになります。他の3協奏曲もまた然り、ではありましたけれど、第14番でいっそう、小倉さんと大井さんのコミュニケーションの巧みさには舌を巻かされました。

お二人とも普段からソロの達人でいらっしゃいます。
そうでありながら、しかしアンサンブルの勘所もしっかり抑えている、というかたは、決して多くはありません。

今後がますます楽しみになった、充実した2時間あまりを堪能させて頂きました。

豊かな時間を頂けましたことを、お二人に心から感謝を申し上げたいと思っております。

第3回は年末開催予定だそうです。

なお、アンコールは「3台のクラヴィアための協奏曲(ロドロン)」フィナーレの2台クラヴィア向け編曲(ロシアの編曲者の手になったそうですが、編曲者名は不明・・・「ロドロン」は2台ピアノ用もありますので、それがベースだったのでしょうか?)。これまた面白い聴き物だったことを、ひとこと付け加えさせて頂きます。

饒舌なわりに、うまく雰囲気を伝えられず、申し訳ございません。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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