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2010年7月19日 (月)

記譜し得ぬショパン:リスト考(番外)

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。



リスト考 (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
     (9)(10)
     番外(ショパン1)・番外(ショパン2)


ショパンへの脱線を、もう一回、ちょっとだけ、します。

ベルリオーズはショパンの天才を適切に観察できた・・・ショパンが天才であることは誰にでも分かったことですが、なにゆえに天才と呼び得るかを明確にし得た人物は多かったとは言えないでしょう・・・「ピアノ奏者以外」の音楽家としては稀有な人でもありました。

「惜しむらくは彼の音楽を演奏するにあたり、これほど独創的に表現し、意外な展開によって人の心を虜にできるのは、他ならぬショパンしかいない」(エーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』訳書100頁所収)

ショパン以外にショパンの音楽を表現出来ないと見なされた要因は、大きくはふたつあるでしょう。

ひとつはショパンの優れたルバート技術であり、もうひとつは、彼の活動舞台であったパリの人々には理解しきれなかった、彼のみに染み付いたポーランド固有の色合いです。

後者を先に見て行きますと、『弟子から見たショパン』の証言の数々に、とくにマズルカについてはショパンの演奏が4分の3拍子ではなく、4分の2もしくは4分の4拍子(すなわち2拍子系)に聞こえた、と一致して述べられているのが注目されます。

とくに、作品33の3のマズルカを巡って、ショパンがマイヤベーアと大げんかをしている話があり、たいへんに興味を引かれます。

この曲です。


私達がこれを3拍子として聞取れるのは、演奏自体が近代的な3拍子を意識して演奏されたものだからであって、ショパンの同時代人には2拍子に聞こえた、というからには、ショパンの演奏は違ったものだったと想像することしか出来ません。

マズルカという舞曲の特徴についてはエーゲルディンゲル『弟子から見たショパン』訳書の注釈(p.208-210)にも詳しく述べられていますが、加藤一郎『ショパンのピアニズム』にある注釈(p.320-330)のほうが分かりやすいかと思います。いずれにしても、マズルカについて知りたければ、私達(日本語を読む民族)にとってはこの2著くらいしか参考に出来るものは無く、YouTubeの映像でも本来の民族舞踊のマズルカは「これだ」という決定的なものは見いだし得ません。

速いテンポのマズルカ舞踊(歌付き)

ゆっくりしたテンポのマズルカ

加藤著から一文だけ抜いてみますと、
「民族的マズルカでは歌唱のさい、歌詞のアクセントをともなう2拍目の音節がやや引き伸ばされ、その分3拍目が短くなることがある」(p.323)
というのがあり、エーゲルディンゲルの注釈もこれに関連してショパンの拍節観を説明しているのですが、どうしても文からだけですと具体的にどうだったのか、は分かりません。
果たして、ショパンの弾くマズルカは、「音価をなるべく時程どおりに記す」という20世紀初頭の最後期ロマン派的な観点から記譜していたら、(バルトークやストラヴィンスキーに見られるような)8分の5拍子的なものになっていたのでしょうか? あるいは、もう少し前の19世紀末的な記譜でしたら、1拍目の裏にフェルマータを付けるなりリテヌートといちいち注記したりするような表記になっていたのでしょうか?

事態は別段、そんなに複雑なことではなかったかもしれない、というのは、エーゲルディンゲルの注釈のほうから推測は出来ます。

「・・・作品33の3の主要モチーフには、2拍目に規則正しくアクセントが来るという特徴が歴然としているではないか! アクセントの来る音符が特別の意味を担って長くなるために(注:これは先ほどの加藤著の注釈に対応しています)、その前後にある音符がその分だけ短くなるということなら、アゴーギクのルバートと同じことになってしまう----この奏法には、全体として多少とも2拍子のような印象を作る効果があるのだから。」(208頁、なお、同書71頁のクレチヌスキの説明も参照)

ちょっと気になるのは、この記述を全面的に信頼するなら、ショパンの演奏するマズルカの聴き手は、ショパンの自由な右手が奏でるメロディだけに耳が向いて、メロディの2拍子だけを聴き取っていたことになるのではないか、と思われてしまう点です。
ショパンのマズルカの楽譜は、原則として、左手はいつも3拍子をきわめてきちんと刻んでいる(強拍がたとえ2拍目に移動したとしても、どこかの時点で明確に3拍子と分かるはずの刻みになっている)のでして、また、ショパンのルバートの性質は決してテンポの緩急の揺れ動くものではなかったことは、リストはじめ多くの人が一致して証言しているところでもあります。
リストは次の詩的な表現

「あの樹々を御覧なさい。葉むれが風にざわめき波打っているけれど、幹は動かないでしょう。これがショパンのルバートですよ」(『弟子から見たショパン』p.72他に引用)

だけでなく、もっと具体的にショパンの方法を説明した言葉も残しています。(同書同頁)

もっとも分かりやすいのはマチアス【1826-1910、ショパンに最も長くレッスンを受けた弟子のひとりに数えられている】の述べている次の言葉です。

「ショパンがいつも注意していたのは・・・左手の伴奏には正確なテンポを保ち、歌のほうはテンポを変えながら伸び伸びと弾きなさい、ということだった」(同書70頁)

これがどんな演奏だったか、は、ショパンを直接耳にした人たちが後世に残った録音の誰の演奏をして「最もショパンに似ている」との証言も合わせて行なってはいない以上(コチャルスキの演奏が孫弟子に当たるものでショパンの特質をよく示しているらしいのですが、私はこの人の演奏の録音を発見していません)、正確な想像をすることは至難の業だと諦めるしかありません。

ただ、ショパン作品の演奏について、私達はもしかしたら誤解をし続けてきたのではないか、ということを、今回ならべたててみたこうしたことから付随的に推測が出来るのは、非常に大切なことです。

またもや「エチュード」作品10の第1番の話に戻って恐縮なのですが(前回をご参照頂ければ幸いです)、このエチュードの技術面での主眼は、決してコルトーが述べたような「強靭なタッチを養う」等々にあるのではなく、ショパン自身の言葉、

「このエチュードは役に立ちますよ。私の言う通りに勉強したら、手も広がるし、ヴァイオリンの弓で弾くような効果も得られるでしょう」

のほうにあるのでして、右手は、強靭に、ではなくて、まさにショパンが言っているその通りの、擦弦楽器のボウイングに要求されるような軽さ・柔らかさを養うことを意図しているはずです。傍証としては、このエチュードの左手が、以後のエチュードのどれに比べても単純であり、そちらにあまり気をとられないで済むように、太い旋律線でしっかり書かれていることを上げれば充分でしょう。すなわち、左手の音型は、左肩に乗ったヴァイオリン(にしては低音域で大型過ぎますが)のようなものなのです。

これで、ショパンの目指していたものの背骨だけは、誰でも明瞭に見直し得るのではないでしょうか?

すなわち、特別な「力」を必要としない自然な肉体が、自然なままでどれだけの広がりを持つことが出来るのか・・・ただし、そのためには何を芯として守らなければいけないか、は、ショパンの脳裏には常にくっきりとした輪郭をもって描かれていたはずなのです。

残念なことに、心象の輪郭は本人にとっていかに明瞭であっても、いや、明瞭であるほど、紙に書き留めたりすることが出来ないものなのかもしれません。
ショパンの死と、録音技術・録画技術の誕生、発展との時間のギャップが、言葉で伝承されたショパンの心象の断片を具象化するには、かえって複雑な事態を私達にもたらしてしまっています。

ヴァイオリン、という言葉を、最後のキーワードにしておきましょう。ここで思い浮かぶショパンの同時代人は、いうまでもなくパガニーニです。そして、ショパンはこのパガニーニから、他の人々同様に鮮烈な印象を受け、熱狂しています。

いま言えるのは、ショパンはピアノ演奏に当たって、演奏という行為が肉体から解放されることをのみ願っていたのではないか、あるいはそれを彼なりに見事に体現していたのではないか、との推測ばかりではあります。ですが、作品10のエチュード第1番は、ショパンがパガニーニから受けた衝撃が、リストやシューマンやシューベルトとは違い、自由な「精神の飛翔」としてのものに留まっていたのではなく、肉体で実践すべきものとして誰よりもしっかり消化され結晶化したひとつの現れであるのだ、と、私は思っております。

さて、この演奏は、どう理解すべきなのでしょうか?・・・明らかにコルトーとも違い、のちの世代のショパンコンクール覇者たちとも違いますが。。。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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