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2010年7月16日 (金)

モーツァルト:2台のクラヴィアのための協奏曲(協奏曲第10番)K.365

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。6月29日に掲載しましたが、バナーに大井さんのブログ記事をリンクしてあります。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。



ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

さて・・・ヴォルフガングにとってはせいせいするのでしょうが、私としては名残惜しい気持ちで、彼のザルツブルク時代の器楽曲に別れを告げなければなりません。
最近遅々としておりましたので、怒られているかも知れません。(まあ、世俗の凡人は天才の霊の眼中にはありますまい。)

2台のクラヴィアのための協奏曲は自筆稿に年代記載がないのですが、他の作品との関係から1779-80年のものと断定できる、というのが専門家さんの見解です。それについて立ち入ることはしません。そのまま信頼しようと思います。したがって、ご無沙汰しがちなモーツァルト作品に関する記事ですが、あんまりくどくならないように心がけます。

モーツァルトにとって、複数台数の独奏をもつ協奏曲の最後の作品でもあり、それにふさわしい性質を持っていると考えてよいでしょう。

独奏クラヴィア2台に要求される演奏技術は対等とみなすべきですが、興味深いのは、主観的で端的な言い方を恐れないならば、三つの楽章で一貫して、第1クラヴィアには「光」が求められるのに対し、第2クラヴィアには「淡い翳り」が望まれている、とみなしてもいい書法がとられている点ではないか、と感じております。
音域での担当割をしてはいません(1台4手ではない以上当然のことですが)けれど、相互のクラヴィアが応答するかたちに2パターンがあり、

1)両端楽章で目立つのは、第1クラヴィアが一通り奏でたものを第2クラヴィアが受け継ぐときに、第1ピアノよりも低い音域で模倣する

2)中間楽章に端的に現れるのは、まず第2クラヴィアに「しっとりと」歌わせておき、第1クラヴィアはそれを伴奏音型の「計量化(音符を減らす、という意味ではなく、リズムを軽やかにする、とでもいうべきでしょうか)」で受け継ぐ

といったところが基本です。
よくよく楽譜を眺めますと・・・とはいえ最近それがなかなかできなくて恥ずかしい思いをしているのですが・・・この基本2パターンが、いちいち「どこ」と記してしまったらきりがないほど錯綜しているがために、2台のクラヴィアの掛け合いが決して単調に陥ることがありません。これが、この協奏曲を「3台クラヴィア」のものよりはるかに優れたものにしています。

想定された演奏者の違いも、「3台」との特徴の差に大きな意味を持っただろうことは、容易に想像されます。
果せるかな、解説の類いには、2台のクラヴィアは、それぞれヴォルフガングと姉ナンネルが演奏することを想定していた、と、例外なく記されています。
もしそれで間違いないとすると、ヴォルフガングが意識したかしないかは分りませんが、姉との共演でイギリス・フランス・イタリアを駆け巡ってきた幼年時代への訣別の意味をも、このコンチェルトは持っていると思ってしまうと・・・感傷的に過ぎるでしょうか?

さて、実演という面では、私はこの作品には録音でしか接したことがなく、しかも、いわゆる「モダンピアノ」でのものしか耳にしておりません。
そういう演奏であっても、独奏楽器とオーケストラの受け答えの面でも本作が工夫に満ちていることを知らせてはくれます。第1楽章冒頭部の堂々たる管弦楽(ただし当時の通常の「非祝典的な」編成であるため編成規模は大きくありません)が、先々の古典派~ロマン派協奏曲に受け継がれる「主調のみによる呈示部」なのですが、その間、通奏低音を一緒に奏でているにとどまっていた・・・これは「モダン」ピアノの演奏の場合には沈黙しているのですが・・・クラヴィアがいざ引き継いで、協奏曲としての「呈示部本編」に入るときの堂々たる響きは、大変に印象的です。その後もオーケストラとの掛け合いには聴きどころがいくつもあります。

ただし、とくに管弦楽の語法は、それまでモーツァルトが手掛けてきた独奏協奏曲に比べると、(大バッハ的ではない)バロックから前古典と呼ばれる時代の書き方をとっているようにみえる部分が多いのもまた、本作の重要な特徴ではないかと思っております。
試みに、先行する「ジュノム」の管弦楽と見比べただけでも、たとえば第1ヴァイオリンと第2ヴァイオリンの掛け合いが決して一様に旋律と和声の補完にはなっていない点で目だって違っており、本作のオーケストレーションはむしろミサ曲の数々と比較したほうが類似性を見出しやすいほどではないかと思います。
第2楽章についてはまた、クリスチャン・バッハ的な書法に回帰しているように見受けます。
第3楽章のロンドでは、以上のようなことは、それほどまでに読み取れないのですが・・・
ともあれ、このような書法は、本作が初演された場所について、他のソロコンチェルトとは異なっていた可能性があると示唆しているのではないか(より公的な場所だったかも知れない)とも考えたいところです。
かといって、「古風」に戻った書法は音響を「古風」にすることはなく、円熟していくモーツァルトの、最も極端には「リンツ」以降の新鮮な語法にもまたつながっていくようにもみなし得るのが驚異でもあります。

残念なのは、先に述べましたとおり、私はこれを「モダン」ピアノによる録音でしか聴いたことがないことです。
クラヴィア2台に先のような役割分担が感じられるからには、初期演奏時の2台それぞれのクラヴィアには音色的にも何か際立って異なっている、それぞれに優れた特色があったのではないかと思えてなりません。

当時ならば「グランドピアノ」での演奏は当然想定されなかったわけですから、運搬もずっと容易だったフォルテピアノであれば、特徴の違う楽器を選定して演奏する喜びは、あたりまえにあったことでしょう。
・・・そのような演奏で、しかも是非じかに、体全体で味わってみたい作品です。

第1楽章  Allegro 4/4,Es, 303小節
第2楽章  Andante 3/4, B, 105小節
第3楽章  RONDEAU Allegro, 2/4, Es, 504小節

・・・やれやれ、これで、まずミュンヘンに旅立たなければなりません。
・・・「イドメネオ」という、観察する上では非常に厄介な作品に目を向けなければなりません。
・・・ただし、完成されているだけ、ついに手が出なかった《ツァイーデ》のようにはならないはず、ですが。


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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