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2010年6月14日 (月)

曲解音楽史70)べドウィンに耳を傾ける

アマチュアオーケストラ、東京ムジークフローの定期演奏会は6月19日(土)浅草公会堂にて。モーツァルト:「魔笛」序曲、ブラームス:交響曲痔3番、サン=サーンス:「アルジェリア組曲」です。



上田美佐子さん(中世フィドル・ヴァイオリン)コンサート
・5月30日(日)西荻窪のサンジャック〜終了
・6月16日(水)日本福音ルーテル東京教会
・7月11日(日)絵本塾(四谷)
です。ユニークです。是非足を運んでみて下さい。詳細は上記お名前のところにリンクしてあります。

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回決定しました(京都7月3-4日、東京7月27日)。とりあえずバナーに大井さんのブログ記事をリンクしました。なお、門仲天井ホールで9月23日に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われます(確定)。大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

過去の音楽史関連記事はこちらの「曲解音楽史:総合リスト」からご覧頂けましたら幸いです。

41yogbpimhl_sl500_aa300_アラブ圏はオスマントルコの体力減退とともにヨーロッパ勢力との均衡が崩れ、折から旅行した市民革命・・・成功もあれば失敗もありました・・・で活性化した「(単一)民族主義」的価値観に寄って押しまくってくるヨーロッパ側の前に、それまで割合安定していた多種混交の世界を維持することが困難になってきました。
こんにち、アラブ世界の外にいる私達は、アラブ=「過激な」イスラーム諸国、というイメージを抱きやすい気がしますが、それは一連の政治経済的な欧米との確執ばかりを目にせざるをえないからだと思いますし、何よりも、アラブ世界は元来ムスリムもキリスト教徒も混在が許された、おおらかな地域だったことのみ申し上げて、それ以上は私には知識もありませんので、立ち入らずにおきます。
ひとつだけ、緩やかなイスラームを感じるために読んで下さったら嬉しい本をご紹介しておきます。

片倉ともこ「イスラームの世界観」岩波現代文庫

この本には、日本で出ている手軽なアラブ関係書籍には書かれていない、貴重な情報があります。
アラブ圏ではいまなお国境意識が希薄であること、昔から学者も書斎の人ではなく移動を常としてきていることから、移動を最上とする価値観が継続していること・・・その代表的存在がべドウィンなのだということ。
ベドウィンといえば、アラブ方面の「遊牧民」としか私達はイメージ出来ませんが、片倉著によれば、じつは世界大恐慌の頃まで海にも進出して真珠取りをしていた・・・で、この言葉は「バドゥ(移動する民)」のフランス訛に由来するんだそうです。単に沙漠の民ではなく、その生活の場所、バーディヤは、現地調査をすると、「海」をもまたバーディヤに含むことばなのでした。「バーディヤの真珠」という言い方もあるのだそうです。

理論だなんてものを一切もたないベドウィンの音楽ですけれど、突っ込んで聴くと、その音階や旋法(節回し、歌い回し)の多種多様さにはビックリさせられます。
私の持っている録音はおもに1955年に収録されたもの。(ARC music LC05111またはEUCD1910、2004年にCDになったものなので比較的入手容易)

ちょっと耳にしただけの印象では、多分ほとんんどのひとが単純に「調子はずれだなあ」としか感じないだろうと思います。
ところが、これがとんでもなく豊かなのです。

ちょっといくつか選んで聴いて頂きましょう。

・日本のお囃子に似ているもの。違いは音の流れ方にある
 ~節の終わりが「ソ・ラ」と上がるのは日本と似ている
 ~けれども、節の歌いはじめで「ら・ドレ」や「ら・(レ)ミ」と上がるのはヨーロッパ的

・「ミ」で終わる歌い回し~「ド・レ・ミ」の間隔が狭い

・「ソ」で終わる歌い回し~この歌の音程も身近では聴けないもの

以下は表現ベタで上手く言えないので大目に見て下さいませ。
いかにもその場その場でフィールドワーク的に録られたと分かる録音で聴くことの出来る音楽は、打楽器だけのものを除けば、ほとんどが5つまたは6つだけの音の連続で仕上がっています。そのなかに、終わる音がそれぞれ(移動ド、という音階の読み方をしたばあいに・・・このことは分からなくてもいいのでこだわらんで下さい・・・)終わる音が「ド」であるもの、「ソ」であるもの、「ラ」であるもの、「ミ」であるものが混じりあっています。
音階が「ド・レ・ミ・ファ・ソ」と同じでも、「ド」で終わるものと「ミ」で終わる歌い回し(旋法)があるし、「ミ」で終わる旋法は「ド・レ・ミ」の音程の間隔が、僕らの聴き慣れている「ド・レ・ミ」より狭かったりするのです。単純に行かないのは、この「ド・レ・ミ」の間隔が狭い旋法は、また先のものとは別の種類の「ド」で終わる歌い回しに使われたりしている点です。
調子っぱずれでそうなっているのではない証拠に、何人もで歌うときにみんなが同じ音程で歌っているし、伴奏する楽器もまた同じ音程になっています。

こういう音楽を、彼らは、生活の様式もあって、肩の張った「伝授・伝承」などではなく、生活の中で連綿と、日常の切なさを清らかなものへ転化させる時を共有するために歌い、耳にし、体得して来たのでしょう。

イスラーム、という言葉を冠したものに対して、私達はもっとも遠い場所にいて、イスラームという言葉がくっつくと、なにか特別なもの、縁のないものとして退けたい思いにかられます。これはしかし、アラブを見るときに「イスラーム」という言葉を冠してしまう<無意識>が、壁作りを後押ししてしまうのだろうと思います。少なくともベドウィンについては、いったん「イスラーム」という言葉(と、それにつきまとう私達のイメージの澱【おり】)を洗い流してみたら良いような気がしております。

いや、イスラームとかベドウィンとかいうことに限らず、私達の「常識」は、あまりにも無自覚的な「定型」にとらわれていはしますまいか?


oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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