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2010年4月11日 (日)

モーツァルト:証聖者の盛儀晩課 Vesperae solennes de confessore K.339

ギタリストの増井一友さん、本4月11日に世良美術館(阪急御影駅そば)で新作を含む演奏会をなさいます。詳しくはリンク先記事にて。



ここまで読んできたモーツァルト作品の個々へのリンクを作成し直しました。ご利用下さい。

モーツァルトの、「完成された」多楽章形式の宗教音楽作品としては本作がザルツブルク時代最後、かつ生涯最後のものですね。

管楽器はトロンボーンがアルト以下の声部を、ファゴットが器楽のバスを補強している他は、トランペットとティンパニだけです。弦楽器にヴィオラが含まれないので、ザルツブルク大聖堂用の公式作品であることも判明するわけですか。編成の事については初期の宗教作品のどこかでいちど考えたのですが、忘れてしまいました。また探してみます。

先に構成から。
1-Dixit Dominus(Allegro vivace 3/4, 164小節 ハ長調)詩編109
2-Confitebor(Allegro 4/4, 102小節 変ホ長調)詩編110
3-Beatus vir(Allegro vivace 3/4, 190小節 ト長調)詩編111
4-Laudate pueri(テンポ指示なし、アラブレーヴェ、184小節 ニ短調)詩編112
5-Laudate Dominum(Andante ma un poco sostenuto, 6/8, 72小節 ヘ長調)詩編116【現117】
6-Magnificat(5小節までAdagio、以降Allegro, 4/4, 100小節 ハ長調)

このK339については何の状況証拠もないため、証聖者といっても誰をさすのかが明確ではないのだそうです。
とはいえ、文献的な事例から見ますと、モーツァルトは他者と比較してとりわけ変則的な詩編の選択はしていませんので、よくよく調べれば何か分かるのかも知れません。・・・自分の宿題にしておきましょう。

「モーツァルト全作品事典」(本作品についてはアルフレート・ボージャンが執筆)では、Laudate pueriが減七の音程を含む古風なフーガでバロックの伝統を引いていることを特記しています。・・・では、そのバロックの伝統、とは、どこからどのように引き継がれた伝統なのでしょうか? これが判然としません。
ボージャンは、本作が「歌詞の一連ごとにアリア、重唱、合唱に分割し作曲するナポリのモデルには従って」いない、との点を上げていますから、イタリア・バロックの伝統は引いていない、と言いたげです。
まず、把握漏れをしてしまったK321の調性関係が、アインシュタインによれば「ハ長調〜ホ短調〜変ロ長調〜ヘ長調〜イ長調〜ハ長調」と、長短の別を度外視すれば主音が長3度〜完全4度〜減5度〜長3度〜短3度というプラン(属調の平行調〜その平行調の平行調〜さらにその属調【で主調の下属調】〜さらにその属調すなわち主調の平行調の同主調【なので主調の平行調の同主調】〜主調)になっているのに対し、K339は3-3-5-3-5と対称性がより厳密になっている点が注目されます。すなわち、流れとしては晩課としては前作となるK.321の路線を継承し、より煮詰まった調性プランを形作っているわけです。いずれにせよ、まず、これはバロック的特質とは言い難かろうと思います。もっと新しい世代の音楽のものです。

アインシュタインはさらに、ボージャンよりも明確に、K339の系譜について言及しています。
すなわち、例の減七の主題に基づくフーガはヘンデル、クーナウ、ブクステフーデ、パッヘルベルと遡るものだと言うのです。
こうしてことさらドイツの系譜にモーツァルトのこの作品を置こうとしていることが、作品の書法から見ますと、私にはちょっと不思議です。

ヘンデル以外についてはあまり耳が馴染んでいないせいかも知れません。ですけれど、ヘンデルについて言えることは、ヘンデルの対位法は、彼の活躍の場を考えると・・・クリスチャン・バッハのものがそうであったように・・・ドイツの系譜であるよりは、イタリアのそれだったと見た方が無難なのではなかろうかと思われます。すると、ヘンデルの名前が出てきた時点で、モーツァルトがヘンデルと連なるというのであれば、それ以前の「ドイツの」音楽家たちの流れとは断ち切られます。ヘンデルはドイツの音楽家ではありませんから(これは、教育環境まで考慮しますと、リュリがイタリアの音楽家ではなかった、と言うことよりは必ずしも強い意味は持ち得ませんが)。
それでもなお、百歩譲って、フーガは確かにドイツ系です、ということにしたとします。
他の章もドイツ的なのでしょうか?

実は、叙情的な第5曲のLaudate Dominumを除き、他5章(Laudate pueriも含め)で非常に目立つのは、弦楽器がユニゾンないし3度関係での動きを多用しており、声楽部分と通奏低音(オルガン)なしには和声はさほどの肉付けがされていないことです。

この響きは、もし合唱が分厚くなければ、有名作で言いますとペルゴレージのスタバート・マーテルを連想させるほどに「イタリア的」なピュアさを持っているのです。
この点を見落として(聞き落として)はならないのではないでしょうか?

となると、本作で注目すべきは、実際に耳にすると得られる重厚な音響が、仕組みとしてはシンプルで軽やかながら堅実な構成の器楽部分に、豊かな人声の肉付けがある故に得られたものなのだ、との特徴になるかと思います。

これが<イドメネオ>の創作と何か関わりがあるのかどうか、は断言はできませんが、少なくとも以後のモーツァルトの形作る響きの原点のひとつをK339に見ておくことは、あながち間違いではないのでは、という気がします。

本当に、スコアから得られる印象と実際に響く音楽を聴いた時の印象の乖離に驚かされる作品です。
多出する八分音符ないし十六分音符のユニゾンは、「レクイエム」のDomine Jesuの中間部を予感させさえします。

ハイドンの書法がベートーヴェンやシューベルトに繋がっていくことは感じられても、モーツァルトにはそれがないうえに、独自性の強さを思わされることのほうが多いのです。
その理由は、彼がハイドンや後続のオーストリア作曲家たちとは異なり、イタリアの素養を、またあるいはこの作品には聴き取れませんが、フランスの素養をも自家薬籠中の物とした上で創作を行なっている、まさにそこのところにあるのではないか、と、K.339を眺めていると、強く考えさせられます。

本作はモーツァルトの創作の秘密に迫るための重要な鍵を握る作品の一つと言ってよかろう、と、私には思われますが、如何でしょうか?



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なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

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