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2010年4月13日 (火)

ヴェーベルンと「伝統」

ギタリストの増井一友さんたちによる4月11日の世良美術館(阪急御影駅そば)での新作演奏会は定員超過の盛況かつ大好評だったとのことです。事前案内でしたがリンク先記事をごらん下さい。



目を日本からヨーロッパに移します。

20世紀中盤以降の作曲家が、とりわけピエール・ブーレーズが精力的に取り上げたことで一躍規範として仰がれることになったのは、ご承知のとおりドイツ系作曲家のアントン・ヴェーヴェルンでした。
ブーレーズが新旧2回にわたって録音した全集(新の方には研究が盛んになって新発見されたものを含む)をはじめ、ヴェーベルン死後、その作品の録音は非常に盛んになりました。
とはいえ、彼の師であったシェーンベルク作品をはじめ、いわゆる「十二音技法」を用いた作品は、日本で紹介された当初、演奏者自身が意味をつかめず、リハーサル中に笑いさえ起こった、という話も小耳にはさんでおります。・・・それは以後「現代音楽」と括られることになった音楽作品が等しなみに味わった受難でもありますし、「前衛」というアングラなレッテルで自らを規定する遠因ともなったことどもです。・・・いまでは音楽も寺山修二も「アングラ」は「アングラ」という言葉で市民権を得てしまっていますから、当初のようなインパクトの強さを保っているかどうかはまた別の話になろうかと思いますが、そちらに目を向けることはまだやめておきましょう。
具体的にヴェーベルン作品が以後の世代にどのように受け止められ、その「革新性」に注目されたのか、については、きちんとお知りになりたい方向けにはまともな書籍も存在することでしょうから、私の浅い理解を綴る愚は避けておきたいと存じます。そこから展開され始めた多様性、一方でそれらが進行することによって早めに陥ってしまったのではないか、と感じられるある種のマンネリズムについても、私ごときには輪郭をつかみきれません。

彼の生涯(ドイツに進駐したアメリカ軍兵士に3発の銃弾を受けて亡くなったことを含め)について、日本語書籍でも正直言ってどうもよく分からないこともあり、そちらもご興味のある方は文献を当たって頂ければよろしいでしょう。

一点、間違いなく言えるだろうと思っていることは、シェーンベルクの指導のもとに体得した「十二音技法」については、彼は兄弟弟子のベルクや、へたをすると師のシェーンベルクより徹底した実践者であり、それゆえに彼自身が
「十二の音を使い切ってしまうと、もうみんな終わっちゃった気がする」
旨の言明も友人宛てにしたとの話があり、その真偽は知りませんが、おそらく真であるがゆえに、彼の作品は規模的にはコンパクトで、内容的には高密度だという、否定のしようのない事実です。
作品番号が付された31の作品は、たかだか2枚半のCDに収まってしまうのです。
で、それがいかに高密度であるかについては、この31作品についてだけ見ましても、ヴェーベルンは仕上げまでに膨大な時間をかけていることを参考にしただけでも状況証拠としては十分かと思われます。
31の作品の中にはさらに、若い時に書いたものを(同じ作品番号のままですから作品数の増加には直結こそしませんけれど)、「6つのオーケストラ小品」のように編成を当初よりコンパクト化したもの、「弦楽四重奏のための5章」や「弦楽四重奏曲」のように弦楽合奏と四重奏に編曲しなおしたものも含まれ、音楽全体の構造には影響がないことから、ヴェーベルンは単に作品をいったん仕上げたらおしまい、とは考えておらず、さらに「響き」が自らの理想により近付くための追及も生涯行い続けたと言ってよいでしょう。

音響の改編の効果については、コンパクト化した「6つのオーケストラ小品」からと、拡大した「弦楽のための5章」からお聴き頂いておきましょうか。

「6つのオーケストラ小品」第5曲
・大編成版(ブーレーズ/ロンドン響、SONY SM3K 45845)
 6Stucke5.mp3

・後年コンパクト化したもの(ケーゲル/ライプツィヒ放送響、BERLIN Classics 0090202BC)
 6Stucke5b.mp3

「弦楽のための5章」第1楽章
・オリジナルの弦楽合奏版(ジュリアード弦楽四重奏団、SONY SM3K 45845)
 5Satze1Q.mp3

・弦楽合奏版(ケーゲル/ライプツィヒ放送響、BERLIN Classics 0090202BC)
 5Satze1S.mp3

以上に聴き取れるようなヴェーベルンの、「革新性」よりはむしろ「伝統の延長線上での位置」に、ちょっと着目しておきたい、というのが、今回のひねくれた意図です。

「十二音技法」なるものはきっちり勉強していませんので、全く勝手な言い方をしてしまいますが、この「技法」が一種の看板として謳われるようになってから、西欧音楽は<無調>を打ち出すことになっていきますね。
<無調>と呼ばれる音楽には、一方でバルトーク的な民謡に淵源を求めうるもの、20世紀前半中のストラヴィンスキー的なリズム体系骨格の中で浮遊するもの、等等も存在したわけで、「十二音技法」の専売特許ではなかったことはたしかです。ただ、「(平均率を前提とした)十二の音程を作曲者が任意の音列に配置し、それをもとに創作を行なう」点で、飛びぬけて明瞭にシステマチックな方法論を持っており、これによりいわゆる「長調・短調」の主音のような既定の中心音を持つことを否定したのが、<無調>をアピールするうえでの眼目だったかと思います。

では、「調」を「無」にすることは、過去の音楽の否定だったのでしょうか?

提唱者のシェーンベルクの作風に着目すると、そうでもないのではなかろうか、という気がしますが、作品にあまり触れていませんので断言はできません。
ベルクとなると、オペラ「ヴォツェック」も「ルル」も、さらにはヴァイオリン協奏曲でさえも、従来の調性音楽との併用が見られ、それゆえにベルク作品は例外的に大衆の人気を勝ち得てさえいます。

「十二音技法」に忠実であろうとしたのは、少なくともやはり、ベルクよりはヴェーベルンだったでしょう。

では、ヴェーベルンはどのようにして「十二音技法」に忠実な作品作りをしたのか?・・・というところを、ほんのさわりだけ見るならば、岡部真一郎氏著「ヴェーベルン(西洋音楽のプリズム)」に掲載された「交響曲作品21」等の説明を読んでおけば充分ではなかろうかと思います。言葉で記しますと面倒になりますので、これは岡部氏のご著作を参照していただければ幸いです。
岡部氏の譜例やご説明から判明するのは、十二音の配列を決定するにあたって、ヴェーベルンはやはり「伝統的な」音程論や対位法的知識に大きく依存をしていた事実です。
たとえば「交響曲」第1楽章ではでは6音ずつを前半と後半が点対象とでもいうべき構成の基本音列を設計し、これを鏡像のように反転するなどの手段によって作品に統一をもたらしているのですが、これはヴェーベルンの先人たちが既に「調性破壊」のために生み出していた発想の延長線上にあります(すでにバッハ以前に有効に使用されているのはご承知のとおりです)。
ただ、ヴェーベルンは師シェーンベルクと深く接し、シェーンベルクの優れた楽曲分析の手腕に触れるまで、その最初の結晶であり、まだ十二音技法にはよらずに書かれた作品1のパッサカリアまで、そうした「減音程の連続使用」を行うこと、さらにその単位となる音列の要素を反転させたり逆行させたりすることでかなりの自由度で創作ができることに開眼したのではあろうかと思います。

音響上でも純粋な音色を見事に結晶化させたヴェーベルンの作品群からはなかなか窺いにくいことですが、さらに、ヴェーベルンのそうした感覚には、明らかにマーラーに訴求できる特質があるかとも感じます。
お聴き頂く「パッサカリア」作品1は、まだ十二音技法によらないとはいえ、既にヴェーベルンの個性がはっきりうかがわれるものですが、パッサカリアという既存の様式が明示的に用いられていることで、ヴェーベルンの音響の中のマーラーに近似した要素がはっきりと聴き取れます。

 Passacaglia.mp3
(ケーゲル/ライプツィヒ放送響、BERLIN Classics 0090202BC)

話を少し戻しますと、では「十二音技法」が狙ったのは何であったか、なのですが、これは
「旋法創造の自由化」
が眼目だったのではなかろうか、というのが、あいかわらず素人見解ではありますが、私が感じるところです。

これは、(シェーンベルクがどうだったか、は全く度外視して・・・彼の作曲技法についての著作は古典派時代の作品に多くを負っていますし、ブラームスの和声分析などにも長けていましたが、それより以前に遡っての追及がどの程度だったかについて私には把握できていません・・・)ヴェーベルンが学生時代にはイザークの研究をかなり突っ込んでやっていることからの類推でもあります。

「調性音楽」は、もともと、もっと種類の多かった「旋法」、いわゆる教会旋法の正格のものだけでもドリア・フリギア・リディア・ミクソリディアがありますし、バルトークはこちらを応用しており、ドビュッシーに到るフランス音楽ではさらにイオニアだとかロクリアまでに使用を延長していて・・・これはこれで「十二音技法」とは別の「無調」形成に大きな役割を果たしていくことになりますが、こうした「旋法」に回帰していきながら、半音の体系も「平均率」の確立によって利用可能となったがゆえに、固定化した旋法を新たに創出するよりは、「中心音」(これは「主音」とは限りませんで、教会旋法での歌唱ではむしろ「中心音」にあたるものは「吟唱音」と「終始音」という具合に二極化されてさえいました)にも創意を加えられる余地を残すがために運用ルールを極端に切り詰めた、すなわち、創出する音列の中で同音の再出現は禁止とする、というだけのシンプルなルールに徹したのが「十二音技法」だった、としてしまったら、これはまたあまりに単純化しすぎでしょうか?

さらに、ソナタ形式だの何だのという形式概念を打ち立てたのも実際には19世紀のことであって、必ずしもそうしたものに集約できないヴェーベルン作品が「伝統より斬新」だったかというと、それもまた違うだろうと思うのです。
彼はマーラーのたいへんな崇拝者でした。
そのマーラーの交響曲は、マーラー生前の「形式概念」にしばしば嵌らないがゆえに、とくに批評家からの理解は得難かったという側面もあります。
とはいえ、マーラーに形式原理があったとすれば、それはマーラーの一連の「オーケストラ伴奏による歌曲」にうかがわれるように、「歌に即した流れ」という、これまた19世紀に規定されたものには当てはめきれない流動性をもつものではあっても、「歌詞」という側面から眺めれば非常に明快ではあったのです。そして、そうしたマーラーの書法の方が、音楽本来の持つ自然な性質にはそぐっていた可能性もあります。

まとめますと、
・ヴェーベルンの書法は、シェーンベルクの裏打ちはあったとしても、もっと押し進んだ「平均率上の12の音を創作の都度新たな旋法として仕立て上げることから出発した
・したがって、それは「無調」ではあっても、「無旋法」ではなかった
・同様に、形式概念も、19世紀既定のものよりも、より素朴な「歌の流れ」にだけ寄り添うものとして構築しなおしたのであるが、それは直近の世代ではマーラー、遠くはイザークにまでさかのぼって知り尽くしたが故の、「伝統的な」・・・この言葉がふさわしくなければ「音楽の初源に立ち返ることを目指した」、よくよくみきわめればもっともシンプルなところに目を向けたものであった
というのが、私の理解です。

繰り返しになりますが、あくまで素人の理解ですから、この先どうやって検証するかを、また考えなければなりません。また、話がおかしくなっている点がありましたら、いつもながら、ぜひご教示を請いたいと存じます。
流れからいって、マーラーあたりをちょっとだけ見ておくことになるかな、と思っております。

oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」(東京3月18日、終了:小倉貴久子さんと大井浩明さん、京都4月3日・4日:河野美砂子さんと大井浩明さん)は大好評終了です。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。 なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。
oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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コメント

私も最近ヴェーベルンに魅力を感じています。

ところで「6つのオーケストラ小品」第5曲の音楽ファイルは、もしかして上下逆なのではないでしょうか?
(すなわち、上段がケーゲル盤で、下段がブーレーズ盤)
下段のファイルの演奏が良かったので、ケーゲル盤を購入し、聴いてみたら「おや?」と思った次第です。

御サイトのご発展をお祈りしております。

投稿: くんすけ | 2010年12月13日 (月) 22時51分

くんすけさま

ありがとうございます。
ご指摘の通りですね。入れ替えました。
深くお詫びいたしますとともに、心から感謝申し上げます。

恥ずかしや!

投稿: ken | 2010年12月13日 (月) 23時58分

早速のご対応ありがとうございます。
「6つのオーケストラ小品」の大編成版は、人数の割に音の数が少なく、人件費問題もからんで、なかなかお目(耳?)にかかる事が出来ませんね。
録音も、ブーレーズ盤以外で確認できたのは、アバド盤(グラモフォン)くらいでした。
私としては、例の第5曲の終わり近く、水滴がポチャンというような音の後、グロッケンシュピールとユニゾンで、ミュートトランペットが入っている(大編成版のみ)所が好きです。

投稿: くんすけ | 2010年12月14日 (火) 15時28分

くんすけさま

重ねてありがとうございます。
ウェーベルンの意志では小編成版が決定版、ですから、それにこだわる指揮者さんが多いのでしょうか?
あれこれは聴いておりませんので、その辺については存じません。ご教示頂ければ幸いです。
「6つのオーケストラ作品」は、一つ一つがまるで音の俳句のようであるところが、彼の内省的で厳しい作曲姿勢を示していて、各曲とも独自の鋭い色彩感を持っていますね。

投稿: ken | 2010年12月14日 (火) 20時52分

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