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2010年4月27日 (火)

テンポの破壊者たち?〜リストとショパン〜

深谷明弘さん、野崎浩孝さん「マンドリンDuoコンサート ~青山忠マンドリンDuo曲集4に寄せて~」は、5月9日(日)静岡市みずほ公民館で。14時開演です。



Liszt「音楽を読む」ということを、稚拙ながら、次のようにたどってきました。
日本の伝統芸能にある息づかいが、それとは断絶して見える日本の「現代(前衛)音楽」の中にも垣間見られること、そうすると、「前衛」はたしかに<伝統の継承>ではないものの、決して従来の日本音楽の営みと<断絶>したものだとは思われないこと、を、まず入口に持ってきました。
同様の例が、資料の断然豊富な西欧において観察出来ないだろうか、ということで、目をそちらに向け、ヴェーベルンの「無調」世界が、「長調・短調」を否定したもの(無調で)でありながら、じつは西欧が2種に集約してしまった「旋法」の、より幅広い世界の復活と拡張を目指したのではなかったかということ、そしてそれは、彼が尊敬したマーラーが、ヴァーグナーからよりいっそう純粋に音楽的に発展させて来た語法に由来するのではないかということ、などをたどって来たのでした。

で、マーラーのところで、ちょっとそうした「旋法」路線からズレ始めました。「旋法」については、おそらく最後の最後で考え直さなければならない事柄に属するのではなかろうかと思います。
かつ、マーラーの音楽は、どうのこうの言ってもまだ「調性」音楽の路線上に乗っかっています。
マーラーが構築した音の閉鎖空間の問題を、ホールやそこで要求されるようになったマナー、のほうではなく、音楽そのものの2つの側面から、一旦見つめて行かなければならないのかなあ、と思っております。

マーラーその人が編曲したバッハの管弦楽組曲の演奏、同じものにメンゲルベルクが手を入れた演奏を聴いて頂いておきました。
ここで、まずひとつには、オリジナルよりも拡張された「編成」が何故導入されなければならなかったか、という問題があります。これは逆にピアノに縮小したリストの例もあり、編成の改変という面ではモーツァルトのヘンデル編曲にまで遡ったりしなければならず、さらにマーラーと同時代に別の興味深い事例などもありますが、こちらは後回しにしましょう。

もうひとつには、お聴き頂いたバッハ編曲の演奏ではあまり明瞭ではなかったのですが、演奏に際してのテンポの大きな揺れが、マーラー当時にはどうやら聴衆の感動を呼ぶくらいに公民権を得ていた、との、こんにち簡単に否定されるだけでさほど突っ込んだ観察がなされていない側面があり(マーラー記事で採り上げた渡辺裕氏の著書は、日本語文献としてはそうしたところまでよく説明してある稀な書物だと思っております・・・洋書になるとまた様々なものがあるそうなのですが、残念ながら目にしておりません)、私にはごく浅く、しか出来ませんが、こちらを見ておきたいと思います。

リストは、特に晩年には「無調」に足を踏み入れた作品も残しており(「十字架の道行き」J33など)、ヴァーグナーとの相互影響もしくはヴァーグナーの先駆として創作面でもより幅広く注目されるべきなのですが・・・福田弥『リスト』音楽之友社に「誤解してはならないことは、リストのいう『標題音楽』とはベルリオーズの《幻想交響曲》に認められるような描写的な音楽ではないということである。(中略、絶対音楽とリストの標題音楽の)両者は抽象性という点で、共通の性格をもっていると考えられる」との、忘れてはならない記述があります。98頁・・・、ピアニストとしての彼の演奏ぶりについては、たとえば

「リストのルバートはテンポの表現に微妙な変化をもたらせながら、自由な朗唱をするのであり、ショパンのような埋め合わせシステム(急いだり、ためらったり)とは全然ちがうそうだ。とくに意味のある音がきたら、瞬間的に演奏を中断して、フレーズを強調し、それが本当に理解され納得されるようにするのだと言う。リストは演奏中には拍子のことはほとんど気にしないようなのだが、そのために均整のとれた美しさやリズムが損なわれることがなかった。」(Eigeldinger、加藤一郎著『ショパンのピアニズム』188頁に引用翻訳)

と述べられています。これは録音で聴くことの出来るものとしてはフルトヴェングラーやメンゲルベルクの演奏を思わせ、さらにはマーラーから遡ってヴァーグナーの演奏様式もこのようだったのではなかろうか、と想像させてくれるものです。
これを「テンポの束縛からの自由」と言ってしまっていいのであれば、20世紀前半にまで影響を残し続けた「自由」であったとみなして良いのではないかと思います。さらに、これがリストに端を発するのかどうかとなると、より複雑な話が絡んできます。
リストが自らのリサイタルで好んで採り上げた演目にはパラフレーズや管弦楽などからの編曲もの、《幻想曲》の類いが多いかと感じておりますが(先の福田著に掲載された演奏会のプログラムは次のようなものです。(p.68〜69)


ロンドン
・ベートーヴェン:ソナタ『田園』スケルツォとフィナーレ
・シューベルト:『セレナード』・『アヴェ・マリア』(歌曲からのリストの編曲でしょう)
・『ヘクサメロン』
・『ナポリのタランテラ』
・『半音階的大ギャロップ』

1843年10月21日、ミュンヘン
・ベートーヴェン:ソナタ『悲愴』
・『夢遊病の女の主題による幻想曲』
・ロッシーニ:『タランテラ』
・ショパン:『マズルカ』
・『清教徒からのポロネーズ』
・バッハ『フーガ嬰ハ短調』
・ヴェーバー『舞踏への勧誘』

1846年3月5日、ウィーン
・ロッシーニ『ウィリアム・テル』序曲
・『ヴァレンシュタットの湖で』
・『泉のほとりで』
・シューベルト:『さすらい人幻想曲』
・ショパン:エチュードから2作
・『ノルマ幻想曲』

この中でも『幻想曲(ファンタジー)』については、バロック後期から古典派にかけての伝統に沿っている作品群ですが、この曲種についてはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハがこのように述べています。

「クラヴィーア奏者はファンタジーによってこそ、他のいかなる音楽芸術家にもまして、語ることとか、あるアフェクトから別のアフェクトへ意表をついて変化することなどを、行なうことが出来る・・・(エマヌエル・バッハの付した作例では)普通拍子が指示されているが、曲全体の拍節分割はそれに縛られるものではない。」(東川清一訳書、第1部180頁。自由なファンタジーについては第2部の最終章に詳述)

リストの師チェルニーはこの書によってベートーヴェンから教育を受けていますから、ファンタジーの効用を盛んに述べているエマヌエル・バッハの記述からはリストも大きな影響を受けているかもしれず、この点はチェルニー、さらにはベートーヴェンに遡っての観察を必要とするものと考えられます。

指揮者としてのリストも、リズムに関しては破天荒だったようで、拍子を性格に刻む代わりに、ピアニッシモでは身を屈め、フォルテシモでは背伸びをして腕を高く上げていた、とのことです(福田著90頁)。これで楽隊が演奏に混乱をきたしてしまった例もあるそうです。同じ福田著に、交響詩をまとめて出版したときにリストが寄せた序文の一部も訳されています(1856年3月)。

「メカニカルで拍子どおりのズタズタな演奏が、多くの場合にはまだ一般的ですが、私はそうした演奏を出来るかぎり正したいのです。・・・・・・指揮者の精神的な解釈があってこそ、公共的作品に命が宿るのです。」(福田著91頁)

先のEigeldingerの引用文でリストと対置されているショパンは、この点に関して、先の記述だけではリストとまるで対照的に見えます。
しかしながら、実際にはリストはショパンの、もしかしたら最大の理解者で・・・そのショパン評はシューマンのような主観的で分かりにくいものとは異なっており・・・、このように述べていたとのことです。

「あの樹々を御覧なさい。葉むれが風にざわめき、波打っているけれど、幹は動かないでしょう。これがショパンのルバートですよ。」(加藤著151頁)

ショパンの身近にいたレンツという人物が、ショパン自身の語ったところを交えて次のように伝えています。

「ショパンの演奏の特色は、ルバートにある。ルバート奏法では、全体のリズムがつねに一定に保たれるのだ。わたしは彼が『左手は教会の聖歌隊の指揮者なのですから、妥協や譲歩は許されません。柱時計だと思って下さい。右手は好きなように、できることは何でもやって構いません』と言っているのを、何度も耳にした。またこうも言っていた。『ある曲が5分続くものとしますね。その場合にですよ、この曲が最後まで演奏されて、きっかり5分で終わらなければならないにしても、細部(曲の演奏の途中)の長さは、いかようにも自分で調節が効くはずです。これがルバートというものなのです」(加藤著151頁に引用)

さて、こうして見てくると、リストの「拍子無視」的なイメージに対し、ショパンは「全体のリズム(おそらくテンポのこと)」を一定に保つことを重視している点で、一見対立するように見えます。

本当にそうなのか、というと、確かめようがなくて難しいところですが、前掲のリサイタルのプログラムに見るようにリストが好んでショパンの作品も採り上げてい所からすると、テンポは基本の幹として大切にする、という感覚では二人に共通項も大きくあったのではないかと思いたいところです。

ただ、それにしては、リスト〜ヴァーグナー〜マーラー〜メンゲルベルクと続いて行ったテンポの「揺らぎ」(ただし実際に耳に出来るのはメンゲルベルク指揮の演奏のみ)は非常に大きいのです。
世のショパン演奏も、テンポの揺らぎという点では、同様の要素を多々持っているものが流通しています。

果たして、昔の録音を通じて、あるいはごく最近の演奏を通して耳にしうるそのような大きな揺らぎが、ショパン、ひいてはリストの狙っていたものと本当に合致していたのでしょうか? とくにリストは「拍子のことはほとんど気にしないよう」だったとしても、本当に全く気にしていなかったのでしょうか?

リストの方はあとで考えるとして、次回、ショパンの方を少し見ておきたいと思います。


oguraooi.jpg 2台のピアノによる「モーツァルトピアノ協奏曲全曲演奏会」第2回が楽しみです。なお、門仲天井ホールで年9月に「松下眞一《スペクトラ》全6曲(歿後20周年)+野村誠」演奏会が行われる模様です。バナーをクリックすると大井浩明氏のブログ記事を閲覧出来ます。 大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。
oguraooi.jpg 日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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