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2010年4月 7日 (水)

断絶なのか同化なのか・・・日本「現代音楽」(2)

ギタリストの増井一友さんが、4月11日に世良美術館(阪急御影駅そば)で新作を含む演奏会をなさいます。詳しくはリンク先記事にて。



はじめに、これをお聴き下さい。
お聴きになって頂ければわかるとおり、日本の音楽ですが、さて、いつ作られたものでしょうか?
ヒントは、使われている楽器と謡い方の組み合わせの中にあります。

荒海や

で、その答えはあとで記します。

この音楽の中で、ドンドンドンドン、と同音を連打するように聞こえる部分は、近世日本以降の、伝統的な水音の表現です。
上の音楽は、お気づきの通り、芭蕉「奥の細道」中の有名な俳句

荒海や佐渡によこたふ天の河

を詞として用いており、海の波を表現する部分(とおぼしき箇所)で、このドンドンドンドンを使っています。
歌舞伎になると、同じ表現が、あるいは川の流れる音を、あるいは滝が落ちる音を、あるいは雨の降る音を、さらには雪が降る様子までを表すのは、お好きな方がご存じのとおりです。

いまは、常盤津「夕月船頭」というのをお聴き頂きましょう。
これの冒頭部分の太鼓のドンドンドンドンが、川の流れを表しています。
ちょっと長いのですが、全曲リンクしておきます。

夕月船頭

どうでしょう、何も知らない外国の方はもちろん、日本にお住まいのかたでも、これが水音の表現だ、ということは、ご存じなければすぐにはピンとこないのではないでしょうか?

かように、音楽がシンボライズする風景は、背景にある「民族的・民俗的」な約束事を知らなければ、言語・・・条例の場合は「水の動態」・・・と結びついたものだとは理解しにくいものではあります。

では、言語表現との結びつきを理解していなければ、音楽そのものも分からなくなるのか?

・・・というのは、大変に難しい問題だと思います。

N響アワーで池辺晋一郎さんから解説を引き継いだ西村朗さんは、現代日本人作曲家さんたちと面白い対談集を出されていて、テレビの解説をバトンタッチされたときは思わず「おお!」と叫んじゃったのでしたが、複数の作曲家さんたちとの対談もさることながら、より突っ込んだ話・・・各人の方法論のアンソロジーではない、という意味でですが・・・を、お相手を湯浅譲二さんに限って行ったもの(「未聴の宇宙、作曲の冒険」春秋社、2008年)のほうが、私のような素人は頭がぐるぐるしないで読めて有難い本です。
で、武満徹らとともに「実験工房」のメンバーであり、20世紀後半欧米音楽の旗手だったクセナキスやリゲティやケージとも親交のあった湯浅さんのお話も大変勉強になり、ほんのちょっとだけ顔を覗かせる湯浅さんの武満氏観察も、さすがにそばで仕事ぶりをご覧になっていただけに、まことに当を得ているなあ、と感激したりもしたので、そういったお話もしなければなりません。
ただ、いまそちらに向かいますと、いま「読んで」いきたい事柄からはあまりに急ハンドルでヘアピンカーヴを曲がることになってしまうので、今回は、湯浅さんと西村さんが「邦楽器」や「日本語」をめぐってお話しあっているところだけに焦点を当てておきたいと思います。

(「現代音楽」を、普通の私たちはどう聴けばいいのか・・・大雑把すぎるほどにまとめてしまうと、「べつに、聞こえるなりに楽しめばいい」というのが湯浅世界、「聴く人に世界観は予め了解してもらっておくのが常」というのが西村世界なのですが、これらは別に対立はしていないので、そのあたりはいずれはちゃんと考え、読み取るべき最低限の事柄ではあります。そこに至るにも、まだまだあれこれ「読めていない」ですから、今回は泣く泣くあきらめます。)

対談から。

湯浅「人間というのはやっぱりグローバルな視点で考えて、だけど、それだけでは済まないわけですよ。日本人は日本に生まれて日本語で育っているということは、思考の構造が日本語であって、しかも感性にまでそれは深く関係してくるわけですから。」(以下略、p.183)

西村「湯浅さんがお書きになる音楽は、民族を問わないんですか、聴き手を含めて。」
湯浅「全然問わないですね。(後略)」
・・・
西村「音楽という概念すらない地域もあるとなると・・・。」
湯浅「音響エネルギーが人間にある種の感動を与えると思えば、そんなことはどうでもいいんじゃないでしょうか。」
・・・
湯浅「・・・もちろん、原典は日本語ですから、日本語でなければ本物ではないわけですが、それでも、いかに日本語に近くやるかというのが問題なんですね。」(p.184-187)

西村「ところで、声楽作品などで歌唱声部を普通に音符で書くと、だいたいベルカント唱法で歌われてしまうというのが現実なんですが(後略)」
湯浅「(前略)日本語を日本語らしく発音しなければ、どこかエキゾチックな薄気味悪いものとして日本語が聞こえちゃう。」
・・・
湯浅「(前略)同じようなことが、器楽でも起こるんです。(後略)」(p.239-240)

西村「そもそも楽器が含め持っているさまざまなものに対して作曲家がどういう態度で臨むかを厳しく問われるのが、まさに邦楽器との仕事だと思うんですよね。(後略)」(p.170)

湯浅「日本の伝統楽器を使って音楽をつくるということは安易にやるべきじゃないとは思っています。それは非常に難しい問題があって、一つは何かというと、西洋楽器でも同じことですけれども、特に日本の楽器というのは楽器の性質の中にビルトインされているものがいっぱいあるんですね。(中略)それを仮に抽象化してしまって楽器の音だけを西洋楽器と同じように取り扱うということになると、その楽器の持っている生命は死んでしまうわけです。(後略)」(p.169)

湯浅「(前略)日本の芸術的に昇華された音楽は、踊りじゃなくて『舞』というわけですけれども、舞の中では拍を数えないんです。じゃあ、何によって音の持続が決められるかというと、呼吸なんですね。息の持続が音楽の持続なんです。(後略)」(p.99)

湯浅「・・・ここは重要な点なので繰り返しますが、数えない、あるいは数えられない時間というのは、息の持続の時間なんですね。物理的・肉体的・運動的な時間じゃなくて、精神の持続みたいな意味での時間。(後略)」(p.114)

順番をかなりランダムに並べ替えてしまいましたが・・・
で、この対談、ここで引用したものに特化されない興味深い話題が満載なのですけれど、本日の引用は、こないだ歌舞伎の勘九郎さん(現・勘三郎丈)がお父さまから受けた指導の話に非常に似通った話が出てくるところでとめておきます。

果たして、西村さんから問われるかたちで答えている湯浅さんは、日本の「伝統」に「同化」することを狙ってこのような語りをなさっているのか、となると、そこは実は「伝統」とは何であるかをきちんと問うてみるならば、背反する二つの側面を持っているように感じます。
すなわち、最初に引いた発言で既に、日本に生まれ育ったが故に身に付いたものは、身に付いたものとして意識的に把握しておかなければならない、と思っていらっしゃる。が、それは、たとえば前に採り上げた歌舞伎とか雅楽とかいう特定の領域を「守る」という意味での「伝統」でないこともまた、最初に引いた発言から明確に分かる。

したがって、湯浅さんの中での「音楽」は、ギョーカイの人が傍目で見るような「洋楽」ではないことも、だからといって「邦楽」でもないことも、どうやらたいへん明らかなようです。それは安易な「伝統からの離脱」を目指してはいませんし、ではすっかり新しいアプローチなのか、というと間違いなくそれは新しいのですが、「伝統」を相手にした新しさ、というのとは何かちがうようです。

一般には、湯浅さんは、「実験工房」で同時期に活動し、のちに日本で最も有名な作曲家となった武満徹氏とともに、「前衛音楽」の最先端に位置する人と見なされてきました。そういう湯浅さんの発言として、ここまで引用してきた言葉は、さて、「前衛」なる看板で括ってしまってよいようなものでしょうか?
「前衛」というのも、あらためて考え直すと、古びやすい言葉だなあ、という思いがアタマをかすめるのですけれど、それに比べると湯浅さんの言葉は、ここに引いただけのものを拝聴しても、「古びないなにか」を確かに持っているように、私には感じられてなりません。

「前衛音楽」という名前は、いま進行中の創作活動に対する仮称に過ぎず、湯浅さんや、聴き手の西村さんの世代までは、もう何らかの確実な名前を持ち始めてもいいようにさえ思うのですが、これはこれで負の作用もあり、名付けられてしまったが故に、本来もっと持ち合わせていただろう自由さを喪失する、という危険と表裏一体なのでもあるのでしょう。

ただ、「前衛音楽」という<仮称>で呼び続けられている進行形の音楽もまた、単純に過去と「切断」されているわけでもなく、かといってまた単純に過去と<連続>しているわけではない。それが劇的に動く何ものかは20世紀後半にあったことは否めませんけれど、それをもって「切断」という規定をあっさり与えてしまうことは、あまりに既存の歴史観からだけ時代や時間を評価しすぎたものではないか、というのが、「CD紹介本はもういらない」以降、今回までに私がたどり着いてみた仮説です。説というほどきっちりしたものではありませんが。

では、「切断」に見えたものがなんだったのか、この辺で「日本」から離れて、とりあえずその流れについてどうしてもいちばん豊富に資料やヒントがあるヨーロッパ「クラシック」音楽に土俵を移して、読みを続けたいと思います。

なお、楽譜の問題についても対談の中で興味深いお話がされているのですけれど、これはしかるべきところまで「読み」が進み得たときになってから採り上げるのがよろしかろうと思っております。

ちなみに、最初にお聴かせした音楽は、湯浅さんの作品、「箏歌、芭蕉五句」の中の1曲なのでした。



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なお、大井さんの新譜(ベートーヴェン:ヴァルトシュタイン・アパッショナータ)、HMVにリンクを貼ってあります。

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日本で本場のカンツォーネを聴かせて下さることにかけてこれ以上の方はいらっしゃらない、青木純さんの今後のスケジュールは、こちらをクリックしてご確認下さい。

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